第8話
おかあさんがゆうれいになっちゃった、というような絵本が出た時。わたし止水はそれを読み、いいなと思ったのだ。しかし世間様の一部は違う。母が失うことを悲しみ幼い子供がそれなりの死生観を描いてなくのだど。私には幽霊でもいてくれるのなら救いがあるなどと考えていた。なぜか。
わたしの幼少期もまた破滅的な思想に囚われ、それでいて家族が大好きだったから、始末に会えなかったのである。
幼い私はこう思っていた。みんな死ななければならない。目が見えなくなったらどうしよう。耳が聞こえなくなったらどうしよう。ママが死んだらどうしようパパが死んだらどうしよう。自分が死んだらどこへいくの?
五、六歳の幼稚園児かそこらがこれで毎晩、声を殺して泣くのである。にんげんはひどい。肉を食べるからじゃない。ひどいことを言うからではある。
しかし一番の思いは死にたくなかった。死んだ後どうなるのか恐ろしくてたまらず家族との並んだ布団で、毎晩夜は恐ろしい孤独の死生観の時間だった。
まぶたが腫れぼったく、重く、次の日瞼がめやにでくっつき開かなくなるまで泣くのだ。
落ち着けば。
この目を閉じた時が死んだ時ならオレンジ電球の部屋より真っ暗で、ずっとこのままでいる。
いやだ。ママにもパパにも死んでほしくないでも自分も死にたくない。みんないっしょに。
消えるしかないのか。しかしそう思えば優しい祖父母まで死んでしまうとまた泣き出し、嗚咽するが耐える。なぜこんなに自分が生きていてはいけないような道へ行くのか。それは愛されると同時に心が放任されてしまったからだ。わたしは自然で素直な、かわいい質問ができぬ。
ママはいつ死ぬの?
これが聞けたならある時は母の実家のお風呂で、またある時は幼稚園の制服を脱いでいる時、あるいは遊園地に行った時に思い立った時に。活発な、溌剌とした、しかし随時成長する者として聞けたなら世界は変わっていた。母は困るかもしれない。
今こそ問おうか。五十を過ぎ、きょうだいがこさえたおかげで祖母となり、おばあちゃんと呼ばれている母にただ。
かあさん、いつ死ぬの?
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