内輪揉め

「そこまでだ」

 それは突然現れました。

 本当に、まばたきした一瞬でそこに現れたようにしか見えませんでした。

 エンナの背後に立つ男。

 知っている人です。

 ノイエよりもなお低い、地の底から響くような声。

 暗闇をそのまま切り出したような、黒い服。

 漆黒の肌に、氷のような薄青の瞳。

「セト」

 エストレアの呟きに、男──セトは頷くようにして軽く頭を下げました。

「俺の名を覚えていてくれたとは。光栄だ、魔法使い」

「メーラとまともにやり合えるやつなんて、珍しいからな。忘れる方が難しい」

「そうか。なるほどな」

 セトはくくくと喉を鳴らしました。

 セトは、アリエラと共に行動していた男です。どういう人なのか、リンネは知りません。わかっているのは、メーラと同じくらい強いということぐらいでした。

 こうして改めて会ってみると、セトは思っていたよりも普通の人に見えました。

 なんとなく、とても怖くて、冷たくて、怪物のように思っていましたが、そんなことはありません。

 背丈はエストレアと同じくらいで、身体は痩せています。肌が真っ黒な上に、少し癖のある髪が目に掛かっていて、そのせいか陰気に見えます。しかしよくよく見てみれば、その顔はむしろおっとりとしていて、人なつこそうな雰囲気がありました。

 最初の印象とは真逆です。

 なんだか不思議な人でした。

「なんの用かしら」

 メーラが色々なものを一息に飛び越えて、すとんとエストレアの前に着地しました。

 両手には剣を持ち、表情はこれまで以上に──というより、これまでとは別物の、強い警戒を示しています。

「そう警戒するな。魔法使いに危害を加えるつもりはない」

「それを素直に信じられるほど、私は楽観主義ではないわ」

「だろうな。それが正しい」

 セトは軽く肩をすくめました。

「しかし本当だ。俺はこの場を収めに来ただけで、そちらとやり合う気はない」

 そう言って微笑み、ひらりと両手を肩のところで広げます。

 なにも持っていない、ということを示しているのでしょうか。

 メーラはきりきりと夏空色の目を細めました。

「どういうこと?」

「そのままの意味だ。俺はこの騒ぎを収めに来た」

「もうちょっと、具体的に言えないわけ?」

「具体的? そうだな。子供たちを回収しに来た、といえばいいか?」

 その言葉に反応したのは、エンナでした。

「セト様! どういうことですか!?」

「お前まで同じことを聞くのか?」

 セトは、とても面倒そうな顔になりました。

 漆黒の肌のせいでわかりづらいだけで、表情豊かな人のようです。

「アリエラ様に言われたはずだ。こんなことはするな、と」

「それは!」

「アリエラ様がお前たちをここへ入学させたのは、こんなことのためではない。何度も言われたはずだ。よく学び、励むようにと。いいか。一度ではない、何度もだ」

「…………」

「だというのに、こんなことをしでかして……お前たちはアリエラ様の心遣いを足蹴にした」

「ち、違います。私はただ……」

「違わない。お前たちはアリエラ様の言葉に従わず、その思いを無駄にした。──最低最悪だ」

 セトはうんざりした顔でそう言うと、こちらに向き直りました。

「そういうわけだ。彼らは確かにアリエラ様の元に集った同志だが、この件にアリエラ様は関わっていない。それどころか、やめるように再三忠告してきた」

「これは、部下の暴走だということか?」

 エストレアの言葉に、セトは片眉を上げました。

「部下などではない。彼らは同志だ。同じ志を持つ仲間ではあるが、アリエラ様に隷属しているわけではない。だからこそ、こういうことが時々起きる」

「上下関係でも主従関係でもないから、アリエラの言葉に全面的に従うわけではない、と?」

「そうだ。しかし、アリエラ様の名を使って好き勝手をされても困るからな。問題がありそうな場合は、こうして俺が出向いて始末をつけるようにしている。──これも、アリエラ様の命令ではない」

「その、上下関係がないとか命令しないとかってのは、アリエラの決めたことなのか?」

「もちろん、そうだ」

「なるほど。……苦労してそうだな、色々と」

「ああ。それなりにな」

 そう言いながらも、セトはどことなく楽しげです。

 口で言うほど、苦労はしていないのかもしれません。

 それとも、働くのが好きなのでしょうか。

「そういうわけで、俺たちは撤退させてもらう。かまわないな?」

「いいや。そいつらのしたことは、この国の法に触れることだ。帰ってもらっちゃ困る」

 杖を構えるエストレアに、セトは眉をひそめました。

「それこそ困る。何度でも言うが、俺はこの騒ぎを収めに来ただけだ。お前たちと一戦交えるつもりはない」

 ゆらり、と。

 黒い影がいくつも沸き出しました。

 そうとしか言いようのない現れ方で、黒ずくめの人が一人、二人と姿を見せました。黒い服を着て、黒いマントを被って、マスクのようなもので顔を覆い隠しています。瞬く間に、その数は十を超えました。

 部屋の中の、あちらに、こちらに。

 まるで最初からそこにいたかのように。

 音もなく。

 気配もなく。

 僅かな揺らぎだけを伴って。

 すうっとそこに立っています。

 ──違う、と思いました。

 今まで見てきた誰とも違います。

 この国を守る騎士団とも。

 かつて関わった山賊とも。

 アリエラの同志たちとも

 剣を構えた生徒たちとも。

 全く違うのがわかります。

 だって、ただそこに立っているだけなのに。

 身構えてすらいないのに。

 それなのに、こんなにも怖い。

 とても、生きているようには思えません。

 とても、生かしてくれるようには思えません。

 この人たちは。

 これらは、みな。

 殺す人たちです。

 殺すのが日常の人たちです。

 殺すことが当たり前の人たちです。

 殺すことをなんとも思っていない人たちです。

 それが、どうしてだかわかりませんが、わかります。

 ただそこにいるだけで、それを理解させられてしまいます。

 当然のように。

 それは、そうなのだと。

 理屈ではなく。

 直感でわかってしまう。

 彼らは、そういう存在でした。

暗殺者アサシン……」

 メーラが呟きます。

 心なしか、顔色が悪いように見えました。

「セト、あなた……」

「俺の部下だ」

「部下はいないんじゃなかったの?」

「それは、アリエラ様の話だ」

 セトは笑いながら言います。

「さあ、魔法使い。どうする。戦うか、見逃すか」

「見逃すさ」

 エストレアは迷わず答えました。

「エスト!」

「状況が悪すぎる」

 部屋の中には、まだ倒れている生徒がいます。

 戦闘となれば、暗殺者たちは彼らをいの一番に狙い、利用するでしょう。

 人質にして。

 盾にして。

 道具にして。

 あらゆる手段で、こちらの手を封じてくるでしょう。

 ハルセたち神官も、彼らに守られている生徒たちも、みんな狙われるでしょう。

 そして、リンネも。

 そうなったとき、三人だけでは対処が出来ません。どうあっても、手が足りません。

「状況が不利すぎる。こいつらは、そこの生徒連中とは違う。戦闘訓練を受けた本職の殺人者だ。なにかを守りながら戦える相手じゃない」

「でも……」

「この状況で戦って、仮に勝てたとして、どれだけの人間が生き残れる?」

「…………」

 メーラは悔しげにセトを一瞥しましたが、それ以上はなにも言いませんでした。

 無言のまま、剣を鞘に戻しました。

「英断だ」

 セトは満足げに頷きました。

「話はまとまった。撤退の支度をしろ」

「…………」

 エンナは悔しそうに唇を噛みました。

 それでも、抱えていた生徒を床に寝かせ、立ち上がります。

 大きな目に、涙の膜が張っていました。

「エンナ様」

 リンネは、思わず声をかけていました。

 なにを言おうとしたのかわかりません。

 自分でもわからないまま、口が言葉を紡ぎます。

「悪い人は、嘘をついて人を騙す」

「…………」

「エンナ様は、そう仰いました」

「……それが?」

 こちらを睨む、エンナの目。

 怒りと、悔しさと、苛立ちでいっぱいになった目。

 それは、リンネの知っているエンナとは別人のようでした。

 それを見て、思います。

 どちらが本当なのでしょう。

 リンネが知っていたエンナと。

 リンネの知らないエンナと。

 どちらが本当のエンナで。

 どちらが嘘のエンナなのでしょう。

「エンナ様は、私に嘘を吐かれたのですか?」

「…………」

 エンナは答えません。

 答えないのが、答えでした。

 なんだか、とても悲しくなりました。

「エンナ様は、悪い人なのですね」

「…………」

 エンナはぷいと顔を背けると、早足に食堂を出て行きました。

 なんの言葉も、残してはいきませんでした。


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