争乱の夜 1

 広間を出て、少し離れた場所。

 人気のない廊下に囲まれた、小さな庭がありました。

 見上げると、夜の色をした空が見えます。刷毛で掃いたような、薄灰色の雲。その隙間で、ちらちらと星が瞬いています。

 流れ込んだ夜風で廊下は涼しく、空気は澄んでいました。

 リンネは近くにあった大きな柱に背中を預けて、床に座り込んでいました。

 目の前で、見たことのない木がさわさわと揺れています。

 リンネは辺りに人がいないことを確かめて、そっと首を覆っていたストールを緩めました。籠もっていた熱がすうっと流れ出すのがわかります。汗でべたべたしていた肌を、夜風がさらさらと撫でました。

 まとわりつくような不快感が解けるように消え、あとには重く冷たい首輪だけが残りました。

 ほっと息をつきます。

 なんだか、疲れていました。

 眠たい、と思います。

 まぶたが、だんだんと落ちてきます。

 いけない、と思って目を開けますが、すぐにまた落ちてきます。

 重たくて、熱っぽくて。

 ふわん、と浮かぶような。

 ぐわん、と揺れるような。

 眠気が波のように、リンネを揺らします。

 ふうっと音が遠くなって、ぼんやりして。

 いつの間にか目は閉じていて。

 だんだんと、色々なものが曖昧になって。

 そして。

 突然。

「!」

 どかんっ! と。

 大きな音がしました。

 空気が揺れます。

 いいえ、建物全体が揺れました。

 リンネははっと目を開けて、身を起こしました。

 眠気はどこかへ飛んでいって、かわりに緊張がやってきます。

 さあっと身体が冷えて、強ばります。

 どくどくと、胸が激しく脈を打っています。

 ぶわりと汗が出て、身体中の産毛がわっと逆立ちました。。

 どかんっ! と。

 また、大きな音がします。

 どこかで悲鳴が。

 怒号が。

 足音が。

 壊れる音。

 倒れる音。

 なにかが起きています。

 慌ただしい、乱れた空気。

 緊張でぴりぴりした空気。

 リンネは知っています。

 以前にも、似たようなことがありました。

 山の中。砦跡と呼ばれた場所。

 そこでも、同じようなことがありました。

 あの時、あの場所では。

 人が。

 死んで。

 殺されて。

 辺りは一面。

 真っ赤で。

 死体が。

 死が。

 今も、同じ事が起きているのでしょうか。

「──おい」

 声がしました。

 ぎくりと身体が強ばります。

 ノイエ──では、ありません。

 明らかに違います。

 リンネは、恐る恐る振り返りました。

 若い男たちが何人か、こちらを見下ろしています。

 全員が、手に剣や槍を持っています。

 そして全員が、血を浴びていました。

 どれも、自分の血ではなさそうです。

 誰一人、怪我はしていないようです。

 では、この血は誰の血なのでしょう?

 彼らの服を、手を染めたこの赤色は。

 リンネにはわかりません。 

 その時リンネは、実は返り血自体、あまり見ていませんでした。

 見ていたのは、男たちに紛れて立つ少年。

 頬に、花びらのような赤い痣のある少年。

 街の路地裏で。そして、荷物検査の列で。

 遠目に見た、赤痣の少年。

 あの少年が、そこにいました。

「奴隷か」

 リンネの首元を見て、誰かが呟きます。

 ストールを緩めたままだったことを、思い出しました。

「この子、招待客が連れてるの見ましたよ」

 赤痣の少年が、周囲にそう告げました。

「なんの審査もなく、しかも旅装のまま城に入るなんてどういうことだろうって思ったんで、覚えてます」。

 周りの男たちは、それに少し驚いたようでした。

「なんだそりゃ。どっかの大商人か?」

「いえ、一人は魔法使いです。杖を持ってたんで。あと二人いましたけど、そっちはよくわかりません」

「聞いてないぞ、そんな客の話。……おい、お前。お前の主人は魔法使いなのか?」

 目つきの悪い年長の男が、リンネを睨み付けます。

 リンネは、ぎゅっと唇を引き結びました。

 答えてはいけない。

 そんな気がします。

「答えろ」

 鋭く尖ったナイフが、リンネの目の前に突き出されました。

 少し動かせば、リンネの顔をすっぱり切ってしまうでしょう。

 それでも、リンネは答えませんでした。

「班長。その子は奴隷ですよ」

「そうです。脅すなんて……」

 後方でそう言った男たちを、班長と呼ばれた年嵩の男が肩越しに睨み付けました。

「奴隷っつったって、お前らとは違う。審査なしで城に入れる特権階級が飼ってる奴隷だぞ。助けてやるような相手じゃないだろ」

「でも……」

「奴隷は奴隷じゃないですか。みんな、虐げられてるのは同じです」

「同じじゃねえよ。よく見ろ! こんなまともな服着て、顔に怪我の一つもない。これのどこが、虐げられてるってんだ」

「それは、そうですけど……」

「でも、首輪をしてるし……」

 なおも言いつのる男たちに、班長が苛立たしげに向き直ります。

 目の前からナイフが消えて、リンネは少しばかりほっとしました。

「いい加減にしろ!」

「だって、奴隷はみんな助けるって、言ったじゃないですか!」

「虐げられてる奴隷を、だろ。姫神子の言葉を勝手にねじ曲げるな」

 赤痣の少年を含む数人と班長が、言い争っています。

 リンネはそれを、ぽかんと見上げていました。

 奴隷を助ける?

 不思議な言葉です。

 どういうことでしょう。

 彼らは奴隷を助けに来たのでしょうか。

 でも、彼らの口ぶりだと、彼ら自身も奴隷のようです。

 誰も首輪はしていませんが、どうやらそのようなのです。

 奴隷が、奴隷を助ける。

 そういうことでしょうか。

 そうだとして、では彼らは今ここで、なにをしているのでしょう。

 さっきの大きな音や、争う声は、関係あるのでしょうか。

 よくわかりません。

 それと、彼らの言葉。

『姫神子』。

 確かに、そんな言葉を口にしました。

 何者でしょう。

 どういう存在なのでしょう。

 よくわかりませんが、彼らはその『姫神子』の言葉に従っているようです。

 どかんっ! と、また大きな音がしました。

 晩餐会の会場の方からです。

 心なしか、さっきより大きな音でした。

 わずかにですが、揺れも伝わってきます。

 だから、リンネも、そして男たちも。

 みんな、そちらの方を見ました。

 そちらに注意を向けていました。

 だから、気がつきませんでした。

「──動くな」

 いつの間にそこにいたのでしょう。

 どこから現れたのでしょう。

 リンネの前。班長の背後。

 二人の間に割り込むように。

 ノイエが、そこに立っていました。

 黒いナイフを持っています。

 持ち手から切っ先まで、隅から隅まで真っ黒なナイフ。

 それを班長の首に回していました。

「何者だ?」

「あ……」

 班長は答えません。

 男たちは驚いたのか、動けないでいます。

 リンネはそろりと立ち上がって、ポケットに手を入れました。

 そこへしまっておいたものを、そっと取り出します。

 ノイエがちらりと、こちらを見下ろしました。

 頷いたように見えたのは、気のせいかもしれません。

 ポケットから出したのは、エストレアからもらった爆炎筒です。

 紐を握って、ぴっと引きました。

 赤い印を確かめます。

 三つ数えて、男たちのほうへ放り投げました。

 同時に、ノイエが班長の背中を突き飛ばします。すぐさま踵を返し、逃げようとしていたリンネを抱え上げました。

 じゃらじゃらじゃらっ!

 聞き覚えのある音がします。

 ぐわんっと身体が強く引っ張られました。

 足が床から離れて、上下がわからなくなります。

 ──どかんっ!

 それまでとは比べものにならないほど、大きな爆発音がしました。熱い風が吹き付けます。強い衝撃が、身体の中を駆け抜けました。

 それらは一瞬のことで、すぐに辺りは静かになりました。

 きーん、と耳鳴りがします。

 恐る恐る目を開けると、ノイエの顔が見えました。

 ノイエに片腕で抱えられています。

 いつの間にか、黒いナイフは消えていました。

 見回してみても、どこにもありません。

 ノイエは、こちらは見ていません。

 どこか、別の方を見ています。

 リンネもそちらを見ました。

 廊下のずっと先のほうで、もうもうと煙が上がっています。その向こうにうっすらと、さきほどまで眺めていた中庭が見えました。

 だいぶ離れています。

 どうやって、ここまで移動したのでしょう。

 その答えは、すぐにわかりました。

 ──じゃらり。

 重たい鎖を引きずるような音がします。

 壁に刺さっていた、蛇の骨のような、鎖のような、黒いもの。

 ──蛇骨。

 それが壁から抜けて、じゃらじゃらとノイエの籠手に巻き取られるようにして戻っていきます。

 移動の謎は、これが答えでした。蛇骨を遠くの壁へ突き刺し、そのまま巻き取ることで、自分たちが壁へ引き寄せられたのです。

「エストには言うなよ」

 ノイエはちらりとリンネを見て、そう言いました。

 ノイエの籠手は、古の遺物と呼ばれる謎多き物の一つです。この籠手は、自由自在に形を変える武器であり、同時に驚くべき強度を誇る鎧でもありました。

 蛇骨は、この籠手の武器としての形の一つです。伸縮自在の蛇骨による、広範囲への一方的な攻撃。これがノイエの基本的な戦い方でした。

 ただし、この遺物の存在は秘密にしておかなければならないものでした。見つかったら、ノイエは捕らえられてしまう可能性があります。だからエストレアによって、使用禁止が言い渡されていました。

「ノイエ様」

「なんだ」

「先ほどのナイフは」

「…………」

 ノイエはなにも言わず、籠手をつけた右手を軽く挙げました。

 どうやらあれも、籠手が持つ形の一つのようです。

「言うなよ」

「はい」

「口閉じてろ」

 ノイエはそう言って、リンネを抱えたまま走り出しました。

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