原初の瑕

 思い出したのは、うんと小さい頃。

 今でも小さいリンネが、もっと小さかった頃。

 その頃のリンネは、今とはずいぶん違っていました。

 笑ったり泣いたりしていました。

 あれは嫌だ、これはしたくない、と言っていました。

 その頃のリンネはまだ、自分がどういう存在なのか、わかっていませんでした。

 そういうことが許されない存在だということが、わかっていませんでした。

 そんなリンネの面倒を見ていた男がいました。

 足の悪い奴隷でした。

 いつも木の棒を杖にして、ずるずると片足を引きずっていました。

 その奴隷は、繰り返しリンネに教えました。

 ──お前は奴隷なんだよ。

 ──人じゃない。

 ──人と同じように振る舞っては駄目。

 ──人と同じように扱われようとするな。

 ──奴隷は奴隷らしくしていなさい。

 ──そうすれば、寝床も食事も与えられるんだ。

 ──それに、なんの不満がある?

 ──飢えることも凍えることもないんだ。

 ──言われたことさえやっていれば、それでいい。

 ──だから、余計なことはするな。

 ──逆らったところで、いいことはない。

 ──痛い思いをするのは嫌だろう?

 ──わかってくれ。

 でも小さいリンネは、それが全然全くわかりませんでした。

 だって、働くのは楽しくありません。

 食事は美味しくありません。

 寝床の居心地も最悪です。

 でも他の子は違います。

 リンネは知っています。

 お屋敷に住んでいる子は、働かなくていいのです。

 お屋敷に住んでいる子は、美味しいものを食べています。

 お屋敷に住んでいる子は、ふかふかのベッドで寝ています。

 リンネはそれを知っていました。

 だからこそ、納得できませんでした。

 どうしてあの子たちは、あんなに良い暮らしをしているの?

 どうして私たちは、こんなにひもじい暮らしをしているの?

 あの子たちと、私たちと、なにがちがうの?

 何度もそう言って、奴隷の男を困らせました。

 奴隷の男は、いつも繰り返し言いました。

 ──わかってくれ。

 いつもいつも、最後にそう言いました。

 小さいリンネには、なんにもわかりませんでした。

 だから、何度も、何度も、同じ事を聞いて。

 その度に、奴隷の男は同じ事を繰り返し。

 そして。

 そして?

 どうなったのでしょう?

 ──お前がわかってくれないと。

 わかってくれないと、どうなるのでしょう。

 どうなったのでしょう。

 ──俺が。

 あの、奴隷は。

 どうなったのでしょう。

 思い出せません。

 思い出せません。

 なんにも思い出せません。──いいえ。

 覚えているはずです。

 思い出したくないだけで。

 それは。

「!」

 突然。

 腕を、がしりと掴まれました。

 ぎょっとして顔を上げると、燃えるような赤い目がこちらを見下ろしていました。

 それは一瞬のことで、視線はすぐに外されます。

 腕を掴んでいた手も、離れていきました。

 なにもなかったかのような無表情で、ノイエはアリエラを見ています。

 リンネも、そちらを見ました。

 アリエラが、優しく微笑みかけてきます。

「ね、わたくしと一緒に行きましょう? あなたを騙して、虐げる人たちの元にいる必要はありません」

「いいえ。私は、エストレア様についていきます」

 リンネは、きっぱりと答えました。

 声が震えそうになるのを堪えて。

 目を逸らしてしまいそうになるのを堪えて。

 なんとか、その言葉を口にしました。

 言ってから、やっぱり耐えきれなくなって、下を向いてしまいます。じわりと滲んだ涙を、ぐっと息を詰めて堪えました。

 アリエラは、初めて表情を曇らせました。

「ああ──なんてこと」

 心の底から悲しげに、そう呟きます。

「奴隷教育とは、怖ろしいものですね。──貴方はね、洗脳されているのですよ。奴隷は主人についていくもの、と思い込まされているだけで──」

 ──ああ、この人は。

 リンネは理解しました。

 ──この人は、自分の話を聞いていない。

 ──この人は、自分の言葉を信じていない。

 必死で口にした言葉は、アリエラには届いていませんでした。

 アリエラにとって、その言葉は『言わされたもの』でした。

 リンネが自ら考え、望んだものだとは思っていませんでした。

 リンネは、ぎゅっと袖で目元を拭いました。

 顔を上げ、部屋の中をぐるりと見回します。

 ノイエは変わらず、アリエラを見ています。

 メーラとセトは、じっと睨み合っています。

 他の人たちは、アリエラに注目しています。

 エストレアだけが、リンネを見ていました。

 目が合うと、口の端を少しだけ上げました。

 薄紫の目を細めて、笑って、小さく頷きました。

 たった、それだけ。

 それだけで、どうしてこんなにもほっとするのでしょう。

 どうして、なにもかも大丈夫だと思えてくるのでしょう。

「奴隷は、主人に従うもの」

 震える声で。

 千切れた言葉で。

 ぽつぽつと、リンネは考えを口にしていきます。

 頭の中でぐるぐるとしているものを、なんとか言葉に変えて吐き出していきます。

「ずっと、そう思って、いました」

 奴隷は、主人の命令に従うもの。

 主人に言われた通りにするもの。

 ずっと、そう言われてきました。

 そしてずっと、その通りにしてきました。

「昔、農場で一緒にいた、人が──その人も、奴隷で──その人に、そう、教わりました」

 ──わかってくれ。

 そう繰り返し言った、奴隷の男。

 奴隷の生き方をリンネに教えた人。

 きっと彼も、同じだったのでしょう。

 誰かから、そう教えられたのでしょう。

 そしてその通りに、生きてきたのでしょう。

 間違ったことを教えたつもりはなかったはずです。

 そう生きていればいいと、心から思っていたのでしょう。

 彼にとってはそれこそが正しい、普通の生き方だったのです。

 けれど。

「エストレア様は、そうではないと言いました」

 ──奴隷なんか辞めちまえ。

 そう言ってリンネを解放しようとした、魔法使い。

 ただの奴隷だった女の子に、リンネと名付けた人

 生まれながらの首輪を外し、自由を与えようとした人。

 奴隷生まれのリンネに、別の生き方を教えようとする人。

「わからないことがあったら、聞く。意見があるなら、言っていい。思ったことは、言葉にする。──エストレア様に、そう、教えてもらいました」

 そう教わったのは、なんだかずいぶん前のような気がします。

 本当は、そんなに前ではありません。

 でもそう言われてから、リンネはずいぶんたくさんのことをエストレアに聞いて、教えてもらいました。

 それまでに知ったことと、それから知ったことでは、それからのほうがずっとたくさんでした。

「エストレア様は私に、いろんな事を、教えてくださいます。私の知らないことを、私にもわかるように、教えてくださいます。──私は、それが嬉しいです」

 奴隷は、なにも教えて貰えません。

 神様のことも、神話のことも。

 働いている場所の外のことも。

 奴隷以外の生き方があることも。

 なにも知らないまま、奴隷として生きて死ぬ。

 それが奴隷という生き物でした。

「私は──難しい話は、わかりません。ちゃんと、聞いていても、聞いていたのに、わからないことが、たくさんあります。でも……それでも、教えて貰えることは、嬉しいです」

 自分の知らないものが、たくさんある。

 それを初めて知ったのは、つい最近です。

 そういうものを、教えてくれる人がいる。

 それを知ったのも、つい最近のことです。

 世界はわからないことだらけで。

 知らないものだらけで。

 どうしたらいいかわからず、立ち尽くすしかなくて。

 目まぐるしく変わっていく様に、置いてきぼりになって。

 そうなったリンネの手を、引いてくれる人がいます。

 あれはああいうものだと、教えてくれる人がいます。

 そういう人がいること。

 そういう人の元にいられること。

 それは、とても嬉しいことでした。

「だから、私は、エストレア様についていきます。──ついていきたいと、思っています」


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