姫神子

 それらはすべて、一瞬でした。

 永遠のように長かったけれど、一瞬でした。

 音が戻ってきます。

 光が退いていきます。

 衝撃で、頭がくらくらしました。

「リンネちゃん、無事?」

「はい……」

 耳がぼんやりして、目の前にいるメーラの声が、とても遠くから聞こえました。

 目の前にはソファが──正確には、その残骸がありました。

 すっかり壊れていて、もう使えそうにはありません。

 ソファの残骸には、ノイエの籠手から伸びた蛇骨が刺さり、あるいは絡みついていました。どうやらそれで固定して、無理矢理壁にしていたようです。

 蛇骨はじゃらじゃらと音を立てて、慌てたように籠手へと戻っていきました。

「言うなよ」

「言わないわよ」

 メーラが答えて、こほん、と咳き込みました。

 もうもうと沸き立つ土埃が、部屋の中を満たしています。

 あちこちから、同じように咳き込む声が聞こえました。

 ノイエだけが涼しい顔で、そっとソファの向こう側を覗き込んでいます。

 恐る恐る身を起こして、ノイエの横から顔を出します。

 そしてその惨状に、目を瞠りました。

 部屋の中は、滅茶苦茶でした。

 大小様々な瓦礫が、あちこちに転がっています。

 どこからこんなものが、と見回してみると、まず廊下に面した壁が完全になくなっていることに気付きました。

 元々エストレアが扉を壊したときに、一部が壊れてはいました。ですが今は、残っていた壁すらもすっかりなくなっています。

 そして、反対側。さっきまで国王が背にしていた大窓とその周辺の壁も、ごっそりなくなっています。

 その近くで、もぞもぞと身を起こす影がありました。国王と髭の老人、そして近衛隊です。どうやら、直撃は免れたようです。顔を見合わせながら、互いに怪我がないことを確かめています。

 部屋の端では、同じようにして侵入者の一団が身を縮めていました。彼らにとっても、予期していた事ではなかったのでしょうか。魔法使いの男も、それ以外のものたちも、皆一様に驚き、慄いていました。

 変わらず立っているのは、エストレアだけです。

 エストレアは、廊下の方をじっと見据えていました。

 その目の前には、青く透明な壁のようなものが微かに見えています。ちらちらと舞う金の粒子。霊素魔法特有のものです。

 いったい、なにが起きたのか。

 リンネにはよくわかりません。

 ただなんとなく、魔法で攻撃されたのだろう、ということだけがわかります。

 他の人たちも、状況はよくわかっていないようでした。

 皆一様に、混乱した顔で辺りを窺っています。

「いったい、なにが──」

 誰かが、そう呟いたときでした。

 突然、メーラが飛び上がりました。

 一息にエストレアの隣に移動し、短剣を振るいます。

 硬い金属音を立てて、なにかが払い落とされました。

 カーペットの上に落ちたのは、黒くて巨大な針のようなものでした。リンネにはよくわかりませんが、おそらくは武器でしょう。エストレアを狙ったものを、メーラが払い落としたのです。

「──驚いた」

 ようやく収まってきたほこりの向こうから、そんな声がしました。

 地の底から響いてくるような、低く、暗い声。

 男の声です。

「っ!」

 黒い影が飛び出してきます。

 メーラが踏み出し、右の短剣で影の振るった剣を受け止めました。続けざまに飛び出してきたナイフを。左の短剣で叩き落とします。

 そこからは、リンネの目では追えませんでした。

 二人の動きが余りに速く、リンネにはなにが起きたかまるでわからなかったのです。

 わかったのは、打ち合いの後、黒い影が大きく後ろに飛び退って、メーラから距離を取ったということだけでした。

 メーラはそれを追いません。警戒した顔のまま、身構えています。

「セト。そのくらいにしておいてください」

 今度は、女の人の声がしました。

 澄んだ、美しい声でした。

 黒い影──真っ黒な装束を着た、夜色の髪と漆黒の肌を持つ男が、深く頭を垂れて後ろに下がります。

 入れ替わりに前へ出たのは、金色の髪をふわりとゆらす、背の高い女の人でした。

 誰もが、はっと息を呑みます。

 その人は、頭の左右から黒いツノが生えていました。

 メーラのものとは違う形です。

 木の枝のようにいくつかに分かれたツノ。

 それが左右の耳の少し上辺りから生えていました。

 ツノビトです。

 肌は灰色がかった泥色。

 真っ白で艶のある布をたっぷりと使った、見たことのない形の服。

 露出した顔や腕には、白い塗料で、細やかな文様が描かれています。

 手には、月下銀の杖。

 若葉色の瞳を宿す目は、この場にそぐわない程に優しい眼差しをしています。

「姫神子……!」

 誰かがそう言ったのが聞こえました。

 部屋の中にいた襲撃者たちが、一斉に頭を垂れ、両手を組んで祈りを捧げます。

「おつかれさまでした。怪我をしたものはいませんか?」

 そんな彼らに、姫神子と呼ばれたその人は、優しく声をかけています。

「──何者だ?」

 低くしわがれた声が、問いました。

 国王です。

 これまで黙っていた国王が、ここに来て初めて口を開きました。

 姫神子はそちらに向き直り、美しく微笑みました。

「わたくしはアリエラ。司祭です」

「司祭? どこの所属だ」

「どこにも属してはおりません。わたくしは、各地を巡って困っている人々を助ける傍ら、人々に神々の教えを授けて回っております」

「巡礼司祭……というものか」

「ええ。その通りです」

 国王は低く唸りました。

 アリエラは微笑んでいます。

 この場にそぐわない微笑みでした。

「姫神子……あの子」

 聞き覚えのある声がしました。

 はっとそちらを見て、それがあの赤痣の少年であることを確かめます。

 いつのまにそこにいたのか、赤痣の少年たちは部屋の扉があった辺りに立っていました。班長と呼ばれていた男も一緒です。班長は憎々しげに、こちらを見ていました。どうやらリンネの投げた爆炎筒の直撃を受けたようで、服は焼け焦げ、頬は火傷していました。

「あの子も、俺たちと一緒なんです」

 赤痣の少年が、そう言ってリンネを指さしています。

 意味がわからなくて、リンネは身を縮めました。

「まあ」

 アリエラは、リンネを見て表情を変えました。

 悲しむような。

 憐れむような。

 そんな顔。

 そんな眼差し。

 リンネは戸惑います。

 なぜ、そんな目を向けられるのかがわかりません。

 なぜ、そんな顔を向けられるのかがわかりません。

「聞きましたよ。あなたも、奴隷なのですね?」

 アリエラは数歩こちらに踏み出して、優しい声でそう語りかけてきました。

 メーラが微かに身じろぎしました。

 セトと呼ばれた男が、それに反応して身構えます。

 二人は睨み合い──そしてどちらも動きません。

「今は隠しているけれど、あなたは首輪をしている。そうですね?」

 アリエラは、そんな二人の状況など少しも気にしていない風に、リンネに向けて話しかけています。

 なにか、とても変な気がしました。

 この場所で。この状況で。

 この人は何故、こんなにも穏やかなのでしょう。

 こんなにも優しげに振る舞えるのでしょう。

 それはなにか、とてもおかしなことに見えました。

 リンネは咄嗟にエストレアを見ました。

 薄紫の目と、視線がぶつかります。

 エストレアも、困っている風でした。

 アリエラがなにを考えているのか。

 なにをするつもりでいるのか。

 推し量りかねている。

 そんな顔です。

「いいのですよ。主人の顔色など窺わなくて。貴方は自由に話していいのです」

 アリエラは、そんな見当違いのことを言ってきました。

 どうやら、エストレアの許しなく話すことが出来ないのだと思っているようです。

 勘違いです。

「ね、わたくしと一緒に、巡礼の旅をしませんか?」

「?」

 思わぬ言葉に、リンネは驚きました。

 きょとんとしたリンネに、アリエラは優しく微笑みかけます。

「首輪など外して、自由になりましょう? 世界中を巡って、あなたが幸せに暮らせる場所を探しましょう? わたくしは、その手伝いができます。新天地へあなたを導くことができます」

「それは、必要ありません」

 リンネは、その誘いを断りました。

 それは、必要のない誘いです。

 旅をする。

 世界を巡る。

 自由になる。

 それはもう、エストレアから与えられています。

 もう一度、新たに与えてもらう必要はありません。

「私は、エストレア様についていきます」

「そんなことはしなくていいのですよ? 奴隷だから、主人に従いついていく。それは間違ったことです。人は皆平等です。人を奴隷と呼んで虐げるなんて、それ自体が大きな間違いなのですよ」

「いいえ、」

「あなたは、人です。自由に生きていい」

「私は」

 ──だめだって。

 ──そんなこと、言ったら。

 急に、誰かの言葉を思い出しました。

 誰だか思い出せない。けれど、繰り返し思い出す。

 その言葉。

 懐かしいような。

 怖ろしいような。

 その言葉が、声が、繰り返しリンネに言い聞かせます。

 ──お前は奴隷なんだよ。

 ──わかってくれ。


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