くびき

 夢を見ました。

 暗い部屋です。

 物置のような場所でした。

 かび臭くて。

 ほこりっぽくて。

 熱が籠もっていて。

 息苦しい場所でした。

 そこに、リンネがいました。

 今のリンネよりも、もっと小さいリンネです。

 頬を腫らして、泣いています。

 その傍らには身体の大きな人がいて、リンネを押さえつけています。

 小さいリンネの目の前では、男が一人、鞭で打たれていました。

 奴隷の男です。

 足が悪くて、ずるずると引きずっていた奴隷。

 小さいリンネの面倒を見ていた奴隷です。

 その男が、何度も何度も、鞭で打たれていました。

 背中は一面、血まみれで。

 壁にも床にも。血が飛んでいます。

 男は動きません。身体を丸めたまま、うんともすんとも言いません。悲鳴どころか、身じろぎ一つしませんでした。

 それはもう、まるで。

 ──どうしますか、これ。

 鞭を手にした人が、部屋の片隅にいた人に聞きました。

 その人は、たぶん、少し偉い人です。

 着ている服が、明らかに他の人より上等でした。

 偉い人は、退屈そうな顔で言いました。

 ──もう使えないな。

 小さいリンネは、なにかを言いました。

 泣きながら、なにかを訴えました。

 なにを言ったのかは聞こえません。

 偉い人は、不愉快そうな顔になりました。

 ずんずんとリンネのところへやってきて、頭を蹴っ飛ばします。

 床に転がったリンネをもう一度蹴って、胸ぐらを掴んで引っ張り上げると、頬を数回叩きました。

 それから顔を近づけて、怖ろしい声で囁きます。

 ──いいか。

 ──奴隷は奴隷という生き物だ。

 ──人とは違う。

 ──同じように扱う必要はない。

 ──そういう決まりなんだよ。

 ──お前らはそういうものなんだ。

 ──生まれたときから決まってるんだよ。

 ──今更、ごちゃごちゃ喚くな。

 ──恨むなら、そんな身分でお前を産んだ親を恨め。

 そう言って、今度は拳でリンネを殴りつけました。

 痛みでなにも言えなくなったリンネを放り出して、舌打ちをします。

 ──餓鬼の躾もまともに出来ないやつはいらん。

 ──捨てておけ。

 はい、と誰かが答えました。


◇◇◇◆


 リンネはそれを見ていました。

 もう、ずっと前のことです。

 リンネが覚えていなかったくらい昔のことです。

 けれど、間違いなく。

 それは今のリンネを形作った出来事でした。

 思い出しました。

 この日から、あの足の悪い奴隷はいなくなってしまったのです。それまではずっと一緒にいたのに、その日からいなくなってしまったのです。

 あの日、鞭で打たれて。

 それから、どうなったのか。

 どこへ連れて行かれたのか。

 リンネには、わかりません。

 わかるのは、きっとその原因はリンネにあったのだということです。

 リンネが、言うことを聞かなかったから。

 リンネが、言われたことを理解しなかったから。

 だからあの奴隷は鞭で打たれて、どこかへ連れて行かれてしまったのです。

 リンネの前からいなくなってしまったのです。

「お前の火は、あの時に消えた」

 誰かがそう言いました。

 隣を見ると、知らない人がいました。

 真っ赤なドレスの女の子。

 燃えるような赤い髪が、炎のように揺らめいています。

「あの時、お前は暴力に屈した。そして火は消えた」

 人形のような手が、リンネの手元を指さします。

 いつからそこにあったのでしょう。

 そこにはランプがありました。

 火の灯っていない、冷たいランプ。

「お前の行く先を照らす火は、消えてしまった」

「行く、先」

「暗闇を手探りで進むか、でなければその場から動かずにいるしかなくなった」

「はい」

「けれどね、覚えておくと良い」

 女の子の目が、リンネを睨みます。

 金色に輝く瞳。

 灼けるような激しい眼差し。

「灯りは、再び灯すことができる」

「はい」

「誰かから、火をわけてもらうと良い」

「誰か……」

「もしも再び灯りが灯ったのなら、二度と消えないよう、よく守ることだ」

 ぼっ、と音がして。

 辺り一面が燃え上がりました。

 不思議と、熱くはありません。

 リンネの身体を燃やすこともありません。

「その火はやがて炎となり、お前を捕らえる全てを焼き尽くすだろう」

 女の子はそう言い残して、炎になりました。

 ごうごうと音を立て、渦を巻き。

 炎が全てを焼き尽くします。


◇◇◇◆


 ──そこで、目が覚めました。

 のそのそと身を起こします。

 どこかの部屋です。

 どこだったでしょうか。

 少し考えて、思い出しました。

 お城です。

 被害の少なかった部屋で、少し休ませてもらったのでした。

 ぐるりと部屋を見渡します。

 ふわふわのソファとつやつやのテーブル。それと、綺麗な飾り棚があるだけの部屋です。なんの部屋なのかはわかりません。

 リンネはソファで寝ていました。

 そのことに、ようやく気付きました。

 どうしてここで寝ることになったのかは、覚えていません。

 エストレアとメーラは、いません。

 テーブルを挟んだ向かい側のソファに、ノイエがいました。

 燃えるような赤色の目で、こちらを見ています。

 似たような目を、夢に見た気がしました。

 でも、よく思い出せません。

 なにか、おかしな。嫌な夢だった気がします。

 思い出そうとしますが、できません。夢はするすると逃げていって、あっという間に形をなくしてしまいました。

 もう、なんにも思い出せません。

「どうした」

 低い声がしました。

 ノイエの声です。

「なんでもありません」

「そうか」

 軽く頷いて、黙り込みます。

 リンネはのそのそとソファに座り直して、くしゃくしゃの髪に手ぐしを入れました。髪の毛が絡まって、手が途中で引っかかります。無理矢理引くと、ぶちぶち音がして髪がちぎれました。

「お前さ」

 ノイエが、再び口を開きました。

「はい」

「連中を見て、どう思った?」

「…………」

 奴隷を解放して回っているアリエラ。

 そんなアリエラに付き従う、元奴隷たち。

 彼らを見て、リンネはなにを思ったでしょう。

 じっと考えます。

 思うのは、そう。

 怖くないのでしょうか。

 首輪を外すことが、怖くなかったのでしょうか。

 リンネは、怖いです。

 今もまだ。

 外せば、罰を受けてしまう気がして。

 ──誰が?

 ──誰に?

 わかりません。

 ですが、怖いと思います。

 かつて見たものが。

 かつての痛みが。

 それを恐れさせています。

 彼らは、そうではなかったのでしょうか。

 罰を受けることを恐れなかったのでしょうか。

 だとしたら、それはどうしてでしょう。

 なにが彼らを、恐れから解き放ったのでしょう。

「どうして、怖くないのだろうと思いました」

「怖い?」

「首輪を外すのは、怖くないのでしょうか」

「……。そもそも、大半の奴隷は、奴隷から解放されることを望んでいる」

 ノイエは淡々と言いました。

「お前のように、奴隷でなくなることを恐れたりはしない。むしろ、奴隷であり続けることを恐れている」

「奴隷でなくなったら、奴隷は生きていけません。食べ物も、寝床も、なくなってしまいます」

「そんなもの、新しく働く先を探せば済む」

「働くのなら、奴隷のままでも同じです」

「同じではない」

 ノイエはソファに深く座り直しました。

「奴隷と労働者じゃ、持っている権利が違う。労働者は奴隷よりもずっと多くの自由が保障されている。同じ労働でも、奴隷労働と一般の労働じゃ内容は別物だ」

「別……」

 リンネには、まだよくわかりません。

 権利とか、自由とか。

 なんとなくはわかります。

 なんとなくしかわかりません。

 よくわかっていないリンネを置いてきぼりに、ノイエは話を続けます。

「実際のところは、あの女がそういう部分も支援するんだろう」

「しえん」

「働く先を探したり、当面の生活する場所を用意したりする。奴隷から解放しました、はいサヨウナラ、なんてことはしないだろう。──あの女が、本気で連中を救おうと思ってるなら」

「…………」

 なんだか、少しわかった気がします。

 彼らが恐れることなく、首輪を外した理由。

 彼らはきっと、アリエラを信じたのでしょう。

 アリエラなら、本気で自分たちを救ってくれる。

 奴隷ではなくとも生きられるよう、助けてくれる。

 アリエラなら、きっと。

 そう思ったから、彼らは首輪を外したのでしょう。

 外してしまっても、アリエラがいるから。

 きっと助けてくれるから。

 そう信じたのでしょう。

 そうして、彼女に付き従っているのでしょう。

 信じられる相手がいれば、怖くないのかもしれません。

 では、リンネは?

 リンネはどうして、今も怖いままなのでしょう。

 罰が怖いから、でしょうか。

 でも、リンネに罰を与える人など、今はいません。

 エストレアもメーラも、そんなことはしません。

 ノイエの言うとおり、罰を与えてくる人などいないのです。

 では、なにが怖いのでしょう。

 奴隷でなくなることの、なにが、こんなに。

「奴隷で、なくなったら」

 ぽろりと、言葉が口から溢れます。

 なにを言おうとしているのでしょう。

 自分でもわかりません。

 わからないまま、言葉を溢します。

「私は、なにになるんですか?」

「別に、なににもならない」

 ノイエは些細なことのように答えました。

「お前はお前のままだ」

「わたしの、まま」

「ただ、お前を縛る色々な決まり事がなくなって、自由になる。それだけだ」

「じゆう、に」

 自由。

 自由とはなんでしょう。

 なんとなくは、わかります。

 なんとなくしかわかりません。

「自由になったら、どうしたらいいですか?」

「それを自分で決めるのが、自由だろ」

「じぶんで」

「考えろ」

「はい」

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