やりたいこと、やりたくないこと

 軽いノックの音がして、ドアが開きました。

 白い包みを抱えたエストレアが部屋に入ってきて、開口一番、言いました。

「なんだ。喧嘩でもしたか?」

「してない」

 エストレアは、即答したノイエを見て、リンネを見て、そして少し笑いました。

「今度は本当らしいな」

「あ?」

「いーや、なんでもない」

「なあに? ノイエとリンネちゃん、喧嘩したことあるの?」

 遅れて入ってきたメーラが、二人の顔を見比べました。

「だから、してない」

「そうなの?」

 聞かれて、リンネは慌てて頷きます。

「喧嘩は、していません」

「そう? それならいいけど」

 メーラはにっこり笑って、リンネの隣に座りました。

「髪が絡まっちゃってるわね。リンネちゃん、ちょっと向こう向いて」

「はい」

 言われたとおり、メーラに背中を向けます。

 メーラは何処かからブラシを出してきて、リンネの髪を梳かし始めました。

 すぐそこに立っていたエストレアと、目が合います。

「エストレア様」

「うん、どうした?」

「奴隷は奴隷でなくなったら、自由になると言われました」

「誰に?」

「ノイエ様にです」

 エストレアはちらとノイエを見て、頷きました。

「そうだな。奴隷からの解放は、自由になると言っていい。少なくともそれまでよりは、ずっと自由になる部分が増える」

「でも私は、自由になってもどうしたらいいかわかりません」

 リンネは正直に言いました。

 だって、考えてもわからないのです。

 わからないなら、聞く。

 教わったとおりにそうします。

「自由になったら、どうしたらいいですか?」

「うーん……」

 エストレアは難しい顔になりました。

「これをやってみたいとか、ここに行ってみたいとか、そういうのが全く思いつかないんだな?」

「はい」

「じゃあ、なにをしたくない?」

「したくない……」

「これだけはしたくない、こんなふうにはなりたくない。そういう、嫌なものはあるか?」

「…………」

 嫌なこと。

 嫌なことは、あります。

 美味しくないものは、食べたくありません。

 居心地の悪い寝床で寝るのは、もう嫌です。

 失敗をするたび鞭で打たれたり、殴られたりするのは嫌です。

 なにもわからないのに、なんにも教えて貰えないのは嫌です。

 前は、それは普通のことでした。

 当たり前のことでした。

 でも、エストレアのところへ来てからは違いました。

 それは当たり前ではなくなりました。

 一度当たり前でなくなると、それらはもう、嫌なものでしかありませんでした。

 そう言うと、エストレアは笑って、

「なら、簡単だ。その裏側を見ればいい」

「うらがわ」

「美味しくないものを食べたくないってことは、美味しいものが食べたいって事だろ?」

「はい」

「居心地の悪い寝床が嫌ってことは、心地の良い寝床で寝たいって事だ」

「はい」

「鞭で打たれたり殴られたりするのが嫌ってことは、そんな目に遭わない生活をしたいってことだ」

「はい」

「それが、リンネのやりたいことだよ」

 リンネはぱちぱちとまばたきをしました。

 そうです。

 それが、リンネのやりたいことです。

 言われてみれば、こんなにも簡単でした。

 あんなにもわからなかったのが、嘘のようです。

「リンネはさっき、自由になってもどうしたらいいかわからないって言ってたよな」

「はい」

「それはな、リンネに出来ることが、今はとても少ないからだと俺は思う」

「できる、こと……」

「リンネはまだ、知らないことがたくさんあるし、できないこともたくさんある。目的を決めようにも、それを決めるための材料が少ないんだ。──人は、知っているものの中から選ぶことしかできない。知らないものを選ぶことは、出来ないんだよ」

 ああ、と思いました。

 前にも、言われたような気がします。

 選ぶためには、まず知らないといけない。

 知らないままでは、選択肢にあがってすらこない。

 そんなことを、言われた気がします。

 あの時は、よくわかりませんでした。

 今は、少しわかります。

「だからな、リンネ。今はそれくらいのことでいいんだ。知っている範囲の、手の届くことでいい。そういうものを目指して、あれこれ手を尽くしている内に、もっといろんなことがわかるようになってくる。そうやってちょっとずつ、わかることを増やしていけばいい」

「はい」

 リンネは頷いて、少し考えます。

「エストレア様」

「ん?」

「私は」

 リンネは迷い、でも思い切って聞きました。

「首輪を外しても、エストレア様についていっていいですか」

 エストレアは軽く目を瞠りました。

 けれどすぐに笑って、頷きます。

「いいさ。気が済むまでついてきたらいい」

「そうそう」

 リンネの髪を編み上げたメーラが、ぎゅっと後ろから抱きしめました。

「首輪があるかなんて関係ないわ。リンネちゃんが望むならいつまでも────それこそ、一生ついていったっていいのよ」

「え?」エストレアは少し焦った顔になりました。「いや一生は……」

「あら、駄目なの?」

「一応、どこかで自立はしてもらうつもりだったんだが」

「自立した結果として、エストに一生ついていくと決めることだってあるでしょう?」

「それは……まあ、そういうこともあるか。うーん……」

「エストとしては、それはお断りなの?」

「まあ、そうかな」

「なんで?」

「旅人なんて不安定な生活、やらずに済むならそっちの方がいいし……」

「それは、そうだけど」

「個人的には、どっか適当な場所で腰を落ち着けて、地に足着いた生活して欲しい」

「うーん」

 言っとくけど、とエストレアは言います。

「リンネに限った話じゃないぞ。お前も、ノイエもだぞ」

「え? そうなの?」

 メーラは心底驚いた様子でした。

「私は、エストに一生ついて行く気でいたんだけど?」

「勝手に決めるんじゃない。そういう重要なことを」

「だってそんな話、今までしなかったし」

 エストレアは首を僅かに傾けました。

「……そういえば、そうか」

「でしょ?」

「いい機会だから、今、話しとくか?」

「疲れてる時に、そういう大事な話はするべきじゃないわ。だいたい判断を間違えるか、喧嘩になるじゃない」

「そうだな。……話し合いはいいが、喧嘩になるのは嫌だな」

 エストレアはそう言って、眠たげにまばたきをしました。

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