咎める人

 翌日。

 リンネは部屋で、繕い物をしていました。

 ちくちくと針を運んで、布を縫い合わせていきます。

 部屋の中は、静かです。

 エストレアもメーラも、朝から出掛けています。

 開け放った窓から、時々風が吹き込みました

 しゃわしゃわという、草木が揺れて葉が擦れる音が、風と共に窓から転がり込んできます。

 なんだか、とても落ち着きました。

 静かに。

 黙々と。

 ただひたすら、手元だけ見て作業する。

 久しぶりな気がします。

 最近は、こんなに静かに作業をすることはありませんでした。

 エストレアとメーラは、いつも色んな話をしていて、とても賑やかです。

 それが嫌なわけではありません。

 むしろ、心地よいと思います。

 二人の──特にエストレアの──話は、時々難しくて、わからないことも多いですが、それでも聞いているのは心地よいと感じます。

 でも、やっぱり静かな方が落ち着きます。

 静かな方が、自分のいるべき場所だと感じます。

 黙々と、なにも考えずに作業をしている時が、一番しっくりきました。

「──お前」

 だから、声をかけられて驚きました。

 突然に、冷たい水をかけられたような驚きでした。

 手を止めて、声のした方を見ます。

 退屈そうな顔をしたノイエが、こちらを見ていました。

「どうして外さないんだ、それ」

「それ……」

「首輪」

「…………」

 途端に、普段は忘れている存在が強く主張してきます。

 冷たく、硬い、重たい首輪。

 物心着いた頃にもうそこにあった、奴隷の証。

 ──だめだって。

 ──そんなこと、言ったら。

 誰かの困った声がします。

 誰でしょう。

「私は、奴隷ですので」

「奴隷は辞めろと、エストに言われたんだろ」

 確かに、エストレアには一度、そう言われました。

 でもそれは結局、保留になったままです。

 リンネはまだ、奴隷です。

 そう言うと、ノイエは僅かに眉を寄せました。

「なぜ辞めない?」

「奴隷は、奴隷ですので」

 ──お前は奴隷なんだよ。

 ──人じゃない。

「人では、ないので」

「そうは見えない」

「……」

「なぜ奴隷身分に甘んじている?」

「……」

 なにも言えなくなったリンネの元に、ノイエが歩み寄ります。

 黒い籠手を着けた右手が、首輪を掴みました。

 ぐい、と身体が引っ張られます。

 燃えるような赤い目が、こちらを見下ろしました。

「これを外すことの、なにが怖い」

「は……」

 外す。

 首輪を、外す。

 それを考えたことは、ありました。

 一度外した時から、何度も考えました。

 集落跡から逃げ帰った後から、何度も考えました。

 首輪を外して、奴隷でなくなる。

 それを考えるたび、怖くなりました。

 それをしたら、なにが、どうなってしまうのか。

 それが、わからなくて。

 ──痛い思いをするのは嫌だろう?

 ──わかってくれ。

 ──お前がわかってくれないと。

 ──俺が。

 また、誰かの声がします。

 誰でしょう。

 嫌な声ではありません。

 むしろ、その逆で。

 リンネはその声が好きだった気がします。

 その声で話す誰かが、好きだった気がします。

 心地よくて、ほっとして。

 それは、誰でしょう。

 わかりません。

「はずしたら……だめだから、です」

「なに?」

「それは、悪いことで……」

 奴隷は、首輪をしているもの。

 それを外すなんて、そんなことは。

 ──だめだって。

 ──そんなこと、言ったら。

 だから、リンネは。

 ──だから、余計なことはするな。

 ──逆らったところで、いいことはない。

 ──痛い思いをするのは嫌だろう?

 そう。

 痛いのは嫌です。

 身体を丸めて

 歯を食いしばって。

 泣くことも叫ぶことも許されない。

 長い。長い。苦しみ。痛み。

 忘れて

 忘れられなくて。

 覚えていて。

 今も。

 思い出すだけで。

「罰を、受けること、なので」

「そんなことを、エストやメーラがすると思うか?」

 頭をぶつけた気がしました。

 いいえ、ぶつけていません。

 ただ、そう。

 それくらい、思わぬことを言われました。

 思ってもみないことを言われました。

 エストレアが。

 メーラが。

 リンネに、罰を与える。

 そんなことが、あるでしょうか。

 そんなことが、あったでしょうか。

「……いいえ」

「なら、問題ないだろう。首輪を外しても、それを咎める奴はいない。なのにお前は、存在しない罰を恐れている。どうしてだ?」

「……わかりません」

 リンネは正直に答えました。

 ノイエは片眉を上げると、首輪から手を離しました。

 ふっと力が抜けて、リンネは下を向きました。

 頭がくらくらします。

 ──自分はいったい、誰からの罰を恐れているのでしょう?

 ぐるぐると、疑問が頭を巡ります。

 エストレアとメーラではありません。

 あの二人は、リンネを鞭で打ったりはしません。

 では、誰でしょう。

 今の自分を罰するのは、誰なのでしょう。

 ──だめだって。

 ──そんなこと、言ったら。

 そう咎めるあの声は、誰のものなのでしょう。

 わかりません。

 考えると、なんだか落ち着かない気分になります。

 懐かしいような。

 怖ろしいような。

「──どうした?」

 突然ドアが開いて、エストレアが顔を覗かせました。

 二人の間に流れる空気に、違和感を覚えたのでしょう。訝しげな顔で、交互に顔を見やります。

「なんだ。喧嘩でもしたか?」

「してない」

 ノイエはぷいっとそっぽを向きました。

「本当かよ。──リンネ?」

「はい」

「なにがあった?」

「……いいえ。なにもありません」

「ふーん」

 エストレアは目を細めて頷きました。

 少しも信じていない顔です。

「まあ、いいさ。──とりあえずは」

 けれどそう言って、それ以上は聞いてきませんでした。

「リンネ。今、ちょっといいか?」

「はい」

「使い方を覚えて欲しい道具がある。ここじゃ出来ないから、訓練場まで来て欲しいんだが」

「わかりました」

 針山に針を刺し、椅子から飛び降ります。

 そそくさと部屋を出て行こうとしたノイエの襟首を、エストレアがしっかりと捕まえました。

「どこへ行く?」

「もう子守りはいらないだろ」

「お前も来い」

「なんで」

「必要だからに決まってんだろ」

「なんで」

「実は、訓練場まで戻る道がわからない。ここに来る途中、どっかで道を間違えたみたいでさ」

 笑いながら言うエストレアに、ノイエは頭を抱えました。

「方向音痴にも程があるだろ……屋内だぞ?」

「冗談だよ」

「冗談に聞こえない」

「本当だって」

「じゃあ、俺は行く必要ないんだな?」

「それはある。情報共有は大事だ」

「…………」

「嫌そうな顔すんな」

 エストレアが、ノイエを廊下へ押し出します。そのままぐいぐいと、目的地まで背中を押していきそうな勢いです。

 リンネは慌てて、それを追いかけました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る