勉強嫌いの憂鬱
予想は当たりました。
リンネたちがやってきた翌々日、イーリー山脈から嵐が駆け下りてきました。
猛烈な寒さ。
そして雪。
それらが純白の山々から吹き下ろしてきて、街を真っ白に塗りつぶしました。
あっという間に、景色は一変してしまいました。
粉のような細かな雪が、あらゆる物を覆い尽くします。
ごうごうと吹く風が雪を巻き上げ、叩きつけてきます。
僅かな隙間から冷気が忍び込んで、身体を震わせます。
とてもではありませんが、外になんて出られません。
ハルセの言ったとおり、長い滞在になりそうでした。
幸い、図書館の利用許可は貰えました。
エストレアの目的は達することが出来そうです。
「どうせ長くいることになるんだ。お前らも少し勉強したらどうだ」
エストレアがそんなことを言い出したのは、ある日の夕食の席のことでした。
麦と野菜の粥を食べていたメーラが、その手を止めてエストレアを見返します。
「その『お前ら』ってのは、誰と誰のこと?」
「そりゃお前ら全員だよ」
エストレアは当たり前のような顔で言いました。
「ノイエは最近の事情に疎いし、メーラとリンネは読み書きが怪しいだろ。どうせ長期滞在で時間は余るんだ。いい機会だし、少し勉強したらどうだ?」
「アンタ、読み書きできないのか」
ノイエが意外そうな顔でメーラを見ました。
メーラは、むう、と唸ります。
「仕方ないじゃないの。私、この大陸の生まれじゃないんだもの」
「流暢に話すから、読み書きも出来る物かと思っていた」
「無理よぅ。話し言葉を覚えるだけで精一杯だもの」
「メーラとあったばっかりの頃は、大変だったんだぜ」
エストレアは懐かしそうに言いました。
「ほとんど一から教えることになったからな。覚えるのが早くて助かったよ」
「そりゃあ、頑張ったもの」
「その調子で、読み書きも覚えないか?」
「……覚えなきゃ駄目?」
「そりゃ、覚えておくに越したことはない」
エストレアはスプーンを置いてメーラを見ました。
「俺が一緒の時なら、俺が読んでやればいいけどさ。いつでもそうとは限らないだろ。お前らしかいない時に、これが読めなきゃ困るって状況になったらどうすんだ?」
「どういう状況なのよ、それは」
メーラはそう言い返しましたが、エストレアの言い分自体には納得したようでした。
「やるだけやってみるけど……」
「嫌そうだな」
「嫌よ。勉強って、楽しくないもの」
「そうか?」
エストレアはノイエを見ました。返事はありません。
薄紫の目は、リンネに移動しました。
「リンネは、勉強嫌いか?」
「勉強とはなんですか?」
「うん? うーん、そうだな。知識や技術を学んで身につけることだな」
「みにつける」
「知らなかったことを知るとか。出来なかったことを出来るようにするとか。やったことのないことをやってみるとか。そういうこと」
「はい」
「そういうのは嫌いか?」
「いいえ」
「そうか。それはいいことだ」
エストレアが嬉しそうに笑う一方で、メーラは少し憂鬱そうです。
テーブルに頬杖をついて、半眼でエストレアを睨みました。
「その言い方だと、楽しそうに聞こえるじゃないの」
「でも、そういうことだろ」
「そうだけど……でも、実際は違うじゃない。教科書と睨めっこしたり、難しくて面白くない話を聞き続けたり、同じ事をずっと練習させられたりするのは、楽しくないわ」
はあ、とため息をつきます。
どうやら、メーラは相当に勉強が嫌なようです。
「教科書読むの、嫌いか?」
「嫌い。だって、よくわかんないし」
「どういうところが?」
「全部よ、全部。なに言ってるかわかんない」
「ふーん」
エストレアは小首を傾げました。
「なんでわかんないんだろうな。別に、頭の回転が悪いとか考えるのが苦手って訳じゃないだろ」
「ええ? 私、頭悪いわよ?」
「でも、いつも俺の話にちゃんとついてくるだろ。リンネは時々わかんなくなって、置いてきぼりになってるけど」
なあ? と聞かれて、リンネは頷きます。
エストレアの話は時々、とても難しくなってわからなくなります。
そういう時は、わかる話が出てくるまで、ぽかんと待つしかできません。
でもメーラは、そういうことはないように思います。
少なくともリンネが見てきたうちでは、ありませんでした。
「メーラが頭悪いってことは、ないと思うけどな」
「過大評価よ。エストの話だって、よくわかんないことのほうが多いし」
「でも、わかんないことはちゃんと聞いてくるだろ」
「そりゃ、聞かなきゃわかんないもの」
「聞いてわかろうとする時点で、十分だと思うが」
まあいいや、とエストレアは呟きます。
「とにかく、少し読み書きの練習をしてくれ。リンネと一緒に」
「えー」
「えー、じゃない。せめて、読みだけでも出来るようになってくれよ。今のままじゃ注意書きすら読めないんだぜ、お前」
「それはそうだけど……」
「それに、字が読めるようになると楽しいぞ」
エストレアはにっこり笑います。
「本が読めるようになるからな」
「それはちょっとわかんないけど」
「なんでだよ」
「本、そんなに好きじゃないし」
「なんで?」
エストレアは心底不思議そうです。
その顔に、メーラは頭を抱えました。
「本が好きな人に、本が好きじゃない人の気持ちはわかんないわよぉ」
「いや、まあ、わかんないけど実際……」
「字がみっちり並んでるだけで、こっちは嫌気が差してるのよ」
「ええ……?」
黙って食事を続けていたノイエが、微かにため息をつきました。
「本が楽しいかは人による」
「まあ、そうだが」
「人によるものは理由にならない。人を動かすのは無理だ」
ノイエはどうでもよさそうな顔でリンネとメーラを見ました。
「注意書きが読めないと困るってのは、わかるんだろ」
「ええ、それはもちろん」
「なら、それで理由は十分だ。注意書きが読める程度には読み方を知っておけ」
そう言って、ちらりとエストレアを見ます。
「本の虫の言うことはとりあえず放っておけ」
「なんだと」
むっとするエストレアを指さして、ノイエは言います。
「こいつは、人間は基本的に本が好きなものだと思ってる」
「あらまあ」
「勉強も好きだと思ってる」
「みんながみんな、そんなわけないのにねえ」
「ああ。こいつはそういうことがわかってない」
「お前ら、仲良くなったな……」
頷き合う二人を見て、エストレアは嬉しいような苦々しいような、とても複雑な顔になりました。
「誰もがアンタみたいに、勝手に読み書き覚えるわけじゃないんだよ」
ノイエはノイエで、苦いものを噛んだような顔でエストレアを見返します。
一人食事を続けていたリンネは、そういえば、といつか聞いた話を思い出していました。
たしか、ノイエは小さい頃、読み書きが苦手だったのです。
だから、エストレアが代わりに、虫の種類を調べていたと。
そういう話を、どこかで聞きました。
どこだったでしょう?
それは思い出せません。
ただなんとなく、想像します。
きっと今のメーラのように、かつてのノイエも勉強は好きではなかったのでしょう。
もしかしたら、メーラとエストレアがしたのと同じような話を、かつてのノイエとエストレアもしたのかもしれません。
もちろん、ただの想像です。
本当はどうだったか、リンネは知りません。
ただきっと、ノイエはメーラの気持ちがわかるから、味方をしてくれたのでしょう。
そんな気がしました。
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