図書館と噂話
図書室は、大きな建物でした。
二階建てで、一階も二階も書棚がいっぱいに並んでいます。そこにはみっちり本が詰まっていて、更に、地下に大きな書庫がありました。
本がないのは、入り口のホールと、そこからまっすぐ進んだ先にある、机と椅子がたくさん並んだ学習エリアだけです。
ニール大図書館。
炎女神ゼインの神像が見守る、知識の倉庫。
イルム王国最大と言われる、巨大書庫です。
雪が降る中、リンネは毎日、図書館に通いました。
図書館に籠もって、読み書きの練習をしていました。
図書館はいつも静かで、人の気配がありません。
ここには司書の男が一人、常にいます。けれどその存在はとても希薄でした。彼はこの薄暗い図書館を照らすための魔法の灯りの貸し出しをしていますが、その時ですらほとんど口を開きませんでした。そしてそれ以外の時は、ほとんどいないのと同じでした。
そういう場所なので、誰かがやってきたらすぐにわかります。
この日も、重たい扉の開く音で、誰かが来たことに気がつきました。
リンネが顔を上げると、テーブルの上で寝ていた灰色のネコが、つられて顔を上げました。
このネコは、どうやらこの学校と神殿の敷地内に棲み着いているらしく、色々なところで姿を見かけます。どこから入ってきているのか、建物の中でも平気で昼寝をしていました。
物音に顔を上げ、じっと耳を澄ましていると、足音がこちらにやってくるのがわかります。
ネコがあくびを一つして、テーブルから飛び降りました。
足音一つ立てずに、するんと本棚の向こうへ駆けていきます。
入れ替わりに、ハルセが別の本棚の向こうから現れました。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
近くの本棚の影から顔を出したメーラが、ハルセににっこり微笑みかけます。手にしていた本を棚に戻して、こちらへやってきました。
「お二人は、今日も自習?」
「ええ」
「エストは、いない?」
「地下の書庫よ」
図書館の地下室には、様々な理由で地上の本棚には置いておくことが出来ない本が集めてあります。エストレアはここに来てからずっと、地下に籠もって調べ物をしていました。
「エストにご用?」
「ううん、そういうわけでは。ただ、見回りを兼ねて様子を見に来ただけ」
「見回り?」
「念のためね。──最近、授業をサボる生徒がいるのよ。いったい、なにをしているのやら……」
ハルセは近くにあった椅子を引き出して、腰を下ろしました。
「エストとノイエから、だいたいのことを聞いたよ」
「? というと?」
「あの村が今、どうなってるか。あと、王城の事件のことも」
「ああ……」
メーラもまた、近くの椅子に腰掛けます。
「ハルセは、知っていた? ああいう集団がいること」
「実は、それらしい噂は聞いたことがあるんだ。エストにも話したんだけど……」
──ロニア神を信仰する集団が、各地を旅して回っている。
そんな噂が聖職者たちの間で囁かれ始めたのは、数年前のことでした。
彼らは巡礼司祭の率いる二十人ほどの巡礼団で、各地の神殿を巡りながら、ロニア神にまつわる文献や遺跡、そして遺物を調べて回っていました。
「噂っていってもね、別に悪いものではないんだ。ただロニア神を信仰しているというのが珍しいのと……やっぱりこの国の聖職者の間でロニア神っていうと、私たちの村のことが思い出されるみたいでさ」
「ああ……」
「それでまあ、時々、あの神殿に来たとか、この村に滞在していたとか、ちょこちょこ話題にはなってたんだ」
「悪い噂ではなかったのよね? つまり、乱暴狼藉をしたとか、そういう話はなかった?」
「なかったよ。というか、むしろ評判は良かった。いつも礼儀正しくて、奉仕活動にも熱心でさ。だから、王城襲撃の話は驚いた。そんなことをするような集団とは思ってなかったし、そもそもそんなに規模の大きな団体とも思ってなかったから」
メーラは、ふうん、と相槌を打って、難しい顔になりました。
「実は、私も気になってることがあって」
「?」
「アリエラ──その団体を率いている巡礼司祭なんだけどね」
「ああ。ツノビトなんだって? 北方の」
「そう。彼女ね、なんていうか──そういうことする人には見えなくて」
困ったような顔で、首を傾げます。
「単なる印象だし、そもそも私は直接話していないから、本当になんの根拠もないんだけど──ああいう暴力的な、革命みたいなことをする人には見えなくて」
「温厚そうな雰囲気?」
「うーん……というか、浮き世離れした感じかしら」
にっこりと微笑むアリエラの顔を思い出します。
緊迫したまわりの雰囲気など意にも介さぬ、その微笑み。
それはまるで、一人だけ違う場所にいるかのようでした。
一人だけ、まるで別の世界に生きているかのようでした。
「その巡礼団? も、そういうことする雰囲気の団体じゃなかったのよね?」
「そう聞いてる。──なんか、変な感じだね」
「そうね。ちょっと、ちぐはぐだわ。──リンネちゃんは、どう思う?」
突然聞かれて、リンネは答えに困りました。
アリエラのことも、巡礼団のことも、よくわかりません。
各地を旅して回っていて。
ロニア神を信仰していて。
信仰を広めようとしていて。
奴隷を解放しようとしていて。
そういう、看板のようなものは知っています。
でも、どういう人たちなのかはわかりません。
一人一人が、なにを考えているのか。
どういう考えで、行動を起こしたのか。
そういう、内側のとでもいうべき部分がまるでわかりません。
どれだけ彼らのことを思い返してみても。
どれだけ彼らのことを考えてみても。
なんだかふわふわしていて。
そのたびに違って見えていて。
まるで、空を流れていく雲のようです。
そう言う人たちですから、正直、考えてみてもさっぱりまとまりません。
少なくとも、すぐに言葉に出来るほどの考えは、リンネにはありませんでした。
なんとか、ふわふわと広がっていたものを巻き取るようにして形にします。
「あの……アリエラ様は最初、奴隷の扱いについて、話をするために来たと仰いました」
「ああ。たしか……こうでもしないと話を聞いて貰えない、みたいなことを言ってたわねえ」
「でもその後に、遺物を探しに来たとも仰いました。国王陛下にも、遺物のことだけを聞いて、ないと言われるとすぐにお帰りになりました」
「ええ、そうだったわね」
「だから、アリエラ様が王城へ来た本当の理由は、遺物を探すためだったのではないかなと思います」
そうは言ってみたものの、自信はありません。リンネは不安になって、下を向きました。それから恐る恐る、二人の反応を窺います。
メーラは、とても難しい顔をしていました。
「そういえば、そうだったわねぇ。やっぱり、なんか、変というか……」
その呟きに、ハルセも頷きます。
「イマイチ、なにがしたいのかよくわからないね。奴隷の話は、もう全然しなかったの?」
「貴族相手に演説みたいなのはしたみたいよ。後で聞いた話だけど……」
事件の後、指揮官の男から聞いた話です。
彼らは大広間の前で騎士団の兵士たちと睨み合いになった後、突然、大きな声で演説を始めました。それは、おそらくは魔法で遠くまで聞こえるように細工のされた声で、騎士団の背後の守られた貴族たちに向けて発されたものでした。
自分たちが何者なのか、という話から始まったそれは、奴隷の解放と、真なる平等、そして恒久の平和を訴えるものでした。
「それに感化されて、王宮に勤めていた奴隷が何人かいなくなったらしいわ」
「へえ、そんなことが……それじゃあ、奴隷の解放云々も嘘ではないんだね。少なくとも、活動の実態はあるわけだから」
「そうね。ただ……」
うーん、とメーラは首を傾げます。
なにか、腑に落ちないものがあるのでしょう。
「もしかして、アリエラ個人の目的と、団体としての目的が、一致してないのかしら?」
「団体としては、奴隷の解放を目的としているけれど、アリエラは違うってこと?」
「いえ、全く違うわけではないと思うんだけど」
ちらりと、夏空色の目がリンネを見ました。
アリエラは、まだ首輪をしていたリンネに対して、奴隷を辞めて自分と一緒に来ないかと声をかけました。
それはつまり、アリエラ自身も奴隷の解放を望んでいることは同じということです。
「ただ、それよりも優先している目的があるって感じかしら」
「それが、遺物について調べること?」
遺物。
古の時代に作られた、奇跡の如き能力を持つ物品。
アリエラはその中でも、ロニア神に縁のある遺物を探していました。
「『ロニアの聖鎧』だっけ……」
「ハルセ、聞いたことある?」
「エストにも聞かれたけど、全く心当たりないんだよね。目録はもちろん、神話上でも聞いたことがない。一般に知られている神話はもちろん、偽伝にも出てこない」
偽伝とは、一般に知られる神話からは外れた神話を指す言葉です。矛盾があったり、繋がりが不明確だったり、資料が少なくて内容がはっきりしなかったりするものは、すべて偽伝と呼ばれていました。
偽伝は聖職者と、神話を調べている学者ぐらいにしか内容が知られていません。滅多に語られることのない神話です。その中には、正伝──一般に知られる神話にはない記述も、たくさんありました。
「神話や伝説に出てこない遺物自体は、別に珍しくないんだ。ただ、ロニア神の名前を冠しているのに神話には出てこないっていうのはねえ……」
ハルセはふっと顔を上げて、そこにある神像を見上げました。
炎女神ゼイン。
人に叡智の炎を与えた、古の女神。
その眼差しを受け止めて、ハルセは呟きます。
「そんな遺物、本当にあるのかな……」
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