はじめの朝

 次の日の朝。

 リンネは日が昇るより先に目を覚ましました。

 壁に背中を預けて小さな本を睨んでいたエストレアが、顔を上げます。

「おはよう、リンネ」

「おはようございます」

「元気でよろしい。……しかし早起きだな、お前」

 エストレアは、もそもそと髪の毛をかき回しました。

 そう言うエストレア自身は、いったいいつ起きたのでしょう。リンネの目には、起きたばかりには見えませんでした。

「顔洗っといで」

「はい」

 残り湯で布を濡らし、顔を拭います。ぐいぐい身体をあちこち伸ばして、身体を温めました。服を着替えて、身だしなみを整えて──そして、恐る恐る首元に手をやりました。

 冷たい首輪が、そこにありました。

「…………」

 首輪は、気付いたときにはそこにありました。

 リンネが覚えている一番古い記憶の中でも、それは首についていました。周りにいた奴隷はみんなそれをつけていて、人にはついていませんでした。

 リンネは、それをおかしいと思ったことはありません。

 それは、そういうものだからです。

 奴隷は首輪をしているもので、人は首輪をしないもの。

 そういうものだと思っていたので、不思議にも思いませんし、おかしいとも思いません。

 だから昨日、メーラとエストレアに言われるまでは、その存在を忘れていました。それくらい、そこにあるのが当たり前になっていました。

 でも一度外してみてからは、なんだか妙に気になります。

 そこにある、という事を強く感じて、落ち着きません。

 その重さや冷たさに、むずむずとします。

 そのせいか、昨日はなかなか寝付けませんでした。

 いえ、首輪のせいだけではありません。主人たちと同じ食事をとることも、同じ部屋で眠ることも、落ち着かない理由でした。野菜の切れ端が煮とけたスープでないことに、そわそわしました。カビと湿った土の匂いのする、寒々しい部屋でないことにそわそわしました。がさがさした薄い布ではなく、柔らかい毛布にくるまって眠ることにも、そわそわしました。

 とにかく落ち着かなくて、あらゆるものが気になって仕方ありません。

 寝て起きたら慣れるだろうと思いましたが、そんなことはありませんでした。

 相変わらず、首輪はむずむずします。新しい服はさらさらしていて、まったく落ち着きません。顔を拭った残り湯だって、湯桶を覗けば底を見通せます。これまでのような、濁った水ではないのです。

「…………」

 慣れません。

 全く、慣れる気がしません。

 リンネはなんだか憂鬱になりました。

 朝だというのに、もう疲れた気がします。


◇◇◇◆


 部屋に戻ると、エストレアが出掛ける支度をしていました。テーブルに出しっ放しになっていたカップや地図、方位磁針、その他なにに使うかわからない道具類が鞄にしまわれていきます。

「ああ、リンネ。悪いけど、メーラ起こしてくれ」

「はい」

「寝起き悪いから、気をつけろよ」

 気をつけろ。

 なにに気をつけたらいいのでしょう。

 よくわかりません。

 リンネは少し悩みました。しかし考えても答えは出ません。リンネは疑問を忘れることにして、メーラの所へ行きました。

 メーラは丸めたマントを抱え込み、毛布を頭から被って、うつぶせで寝ていました。くしゃくしゃになった撫子色の髪が、毛布の端の方から流れ出ています。

「メーラ様。朝です」

 声をかけてみましたが、答えはありません。毛布がメーラの寝息に合わせて、微かに膨らんだり萎んだりしています。

「メーラ様」

 もう一度、声をかけてみます。

「んー……」

「朝です。起きてください」

「んー……」

 もぞもぞと撫子色の頭が動きます。

 突っ伏していた顔が、少し上がりました。

 滝のような髪の間から、細く開いた夏空色の目が覗きました。

 目が合います。

 目が見開かれました。

 そして突然、メーラが跳び上がりました。

 弾かれたように跳んで──そして天井に頭をぶつけて、床に落ちました。

 大きな音がしました。

 部屋が揺れて、どこかから細かいゴミが落ちてきます。

 エストレアがこちらを振り返り、呆れた目で床に転がるメーラを見ました。

「い……ったぁ……」

「なにしてんだ、お前は」

「リンネちゃんがいるの、忘れてて……驚いちゃった」

「驚いたのはこっちなんだが。どうやったら、うつぶせのまま跳び上がるなんて、わけのわからん動きができるんだ?」

「びっくりした時って、こう、つい飛び退いちゃうじゃない」

「飛び退いたとは言わないと思うけどな、今の」

 エストレアは、まあいいや、と呟きました。

「怪我は?」

「平気」

「じゃあ、顔洗ってこい。支度が済み次第、出発する」

「はぁい」

 メーラはのそのそと浴室へ入っていきました。

 ぽかんとそれを見送るリンネを、エストレアが見下ろします。

「びっくりした?」

「はい」

「だろうな。──ツノビトってのは、ああいうもんなんだ。俺たちと比べて、運動能力が高いという人種的特徴がある」

「……はい」

「あー、つまりだな」エストレアは少し考えて、言い直しました。「ツノビトっていう人はみんな、身体が丈夫で、力が強い。足が速いし、高く跳べる。ツノビトはそういう特徴を共通して持ってるわけだ。そういう特定の人に共通する特徴を人種的特徴と言う。というか、そういう特徴ごとに人を分類したのが、人種ってもんなんだが──まあ、それは今はいいや」

 とにかく、とエストレアは言います。

「ツノビトってのは角がある人だからツノビトなんだが、この角のある人っていうのは、それ以外にも共通した特徴があるわけ。例えば背丈が人間よりも高くなるとか、夜目が利くとかな。運動能力の高さも、そういう特徴の一つなんだよ」

 ツノビトは、生まれながらに強き人と言われます。

 重たいものを動かすには、どうしたらいいのか。

 なによりも速く走るには、どうしたらいいのか。

 大きな力を受け流すには、どうしたらいいのか。

 大きな衝撃に耐えるには、どうしたらいいのか。

 自分の身体をどう使えば、望んだ結果を得られるのか。

 ツノビトは誰に教わる訳でもなく、それらを知っています。

 自分の身体というものを隅々まで知っていて、最も適した動かし方を、自然と理解しています。

 自分の身体の柔らかさや頑丈さ、弱さ強さを、生まれながらに知っているのです。

「どういうわけか、見た目はそんなに力強そうには見えないんだけどな。メーラだって、背こそ高いけど、腕やら足やらは細いだろ? 目に見えて筋肉があるって感じじゃない」

「はい」

「でも実際、あいつはとんでもなく力持ちだし、足は速いし、さっきみたいな訳のわからない動きも平気でやる」エストレアは浴室を指さしました。「あいつな、あんなふわふわしてるように見えて、戦いとなるととんでもなく強いんだぜ。並の連中ならあっという間になぎ倒してくれる」

 メーラの微笑む顔を思い出します。

 ふんわりしていて、優しそうで、争い事とは無縁そうな人です。

 本当に、そんなに強いのでしょうか。

「まあ、そのうちわかるよ」

 疑う心を見抜いたように、エストレアが笑います。

「いいか、リンネ。もし今後、なにか危ない状況に陥ったとしても、メーラが一緒なら慌てなくていい。あいつは絶対にお前を守ってくれる。そういう性格だし、それができる能力のあるやつだ。心配はいらない」

「はい」

 リンネは頷き──そして、ふと思い出したことを口にしました。

「メーラ様も、同じようなことを言っていました」

「うん?」

「エストレア様は頼りになる人だから、心配いらないと」

「そんなこと言ったの、あいつ。いつ?」

「昨日、お風呂場で」

「ふーん」

 エストレアはくしゃりと髪をかき回して、天井を見上げました。

 リンネも真似して見上げます。

 特別、目を引くものはありませんでした。

「なにしてるの、二人して天井見て」

 戻ってきたメーラが、二人を交互に見つめます。

「天井が壊れてないか確認してた」

「壊れちゃった?」

「いや、大丈夫そう」

「ああ、よかった」

「……自分の知らないところでさ」

「? うん」

「誰かが自分のことを褒めてたよって教えて貰えると、嬉しいよな」

「そうね。……え? なんの話?」

「なんでもない。気にするな」

「無茶言うわねえ。リンネちゃん、これ、なんの話?」

「聞くな」

「えー?」

「聞くなよ。──リンネも、言うなよ」

「はい」

「ちぇっ。二人だけで仲良くなっちゃって。ずるいわあ」

 メーラの物言いに、エストレアが笑います。

「拗ねるなよ」

「拗ねてませーん。ちょっと羨ましいだけですぅ」

「正直でよろしい」

 さて、とエストレアは手を叩きます。

「そろそろ出る準備をしよう」

「まだ早くない?」

「遅いよりは早いほうがいい。……ところで、リンネ」

「はい」

「竜って見たことあるか?」

 りゅう。

 知らない言葉です。

「いいえ」

「そうか」

 エストレアは笑いました。

 悪戯をする子供のような笑い方でした。

「運が悪ければ、見れるかもしれないぞ」

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