星杖の魔法使い 1


 その人は、街にある小さな宿屋に泊まっていました。

 若い男の人です。

 ちらほらと白髪の交じる、黒炭色の髪。

 眠たげに半ばまで閉じた、薄紫色の目。

 白に僅かな橙を混ぜた、黄味のある肌。

 女の子と同じ、大地の民の肌の色です。

 背丈は普通。メーラより少し低めです。

 痩せても太ってもいない、普通の体格。

 身体を包むのは、ぞろりと長い漆黒のローブ。

 傍らには、三連の星を宿した銀色の杖がありました。

 この人が、エストレア。

 女の子の新しい主人です。

 背もたれつきの椅子に深く腰掛けたエストレアは、メーラから受け取った首輪の鍵を手の中で弄びました。ふて腐れたような顔で、手の中のそれを見ています。それから、一緒に預かった手紙を開き、その内容を一瞥しました。

「──好き勝手言いやがって」

 エストレアはそうぼやいて、手紙を傍らのテーブルに放り出しました。

 薄紫の目が、女の子に向けられます。

「お前、名前は?」

 女の子は、質問の意味がわかりませんでした。

 奴隷には、名前はありません。区別をつけるための呼称がつけられることはありますが、それは主人が指示を出すためのものです。他人や新しい主人相手に名乗るためのものではありません。

 そして女の子には、そういう呼び名もつけられていませんでした。

 なので、女の子は正直に答えました。

「名前はありません」

「今までは、なんて呼ばれてたんだ?」

「なんとも呼ばれていません」

「…………」

 エストレアは頭を抱えました。

「じゃあ、とりあえずそれは置いといて……今まではどんな仕事を?」

「畑仕事と、掃除と裁縫と洗濯を」

「特技は?」

「ものを投げることです」

「遠くまで投げられるってこと?」

「それよりは、狙った場所に投げるほうが得意です」

「なるほど」

 エストレアはうーんと唸って、背中を反らしました。天井を見上げて、しばらく動きません。

「…………」

「…………」

「…………」

 沈黙に耐えかねたのでしょうか。

 隣の椅子に座ったメーラが、その肩を指先でつつきます。

 メーラはなぜか、部屋の中でもフードをすっぽり被っていて、相変わらず顔はよく見えません。ただ、その仕草からなんとなく、困惑しているらしいことはわかりました。

「なにしてるの?」

「困ってる」

 エストレアの顔が戻ってきます。

「よし、決めた」

「なにを?」

「名前。──リンネにしよう」

 メーラはうんうんと数回頷きました。

「いい名前ね」

「だろ?」

 エストレアは笑って、女の子に向き直りました。

「今日からお前はリンネだ。いいな?」

「はい」

 女の子が──リンネが頷くと、エストレアは優しく微笑みました。

「名前も決まったところで──リンネ」

「はい」

「お前、クビ」

 エストレアは、リンネの首輪を掴みました。

「奴隷なんか辞めちまえ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る