ある奴隷の話 2


 冬が終わり、春が来て、そしてそれが去ろうとしていた頃です。

 いつもはとても静かなお屋敷が、ある朝突然、騒がしくなりました。

 いつもは水を打ったように静かなお屋敷の中が、今日はざわざわしているのがわかります。

 ただならぬ気配に、女の子は不安になりました。

 こんなことは今までありませんでした。

 お屋敷はいつだって静かで、ともすれば誰もいないのではないかと勘違いするほどでした。少しざわつくことがあっても、それはほんの一時のことでした。

 こんな風に、朝からずっと騒がしいことなど、これまでありませんでした。

 女の奴隷のところへ行ってみると、彼女も困ったような顔をしています。

「なにかあった?」

「わからない」

 男の奴隷もやってきます。

「人がたくさん来てる」

「どうして?」

「わからない」

「旦那様は?」

「わからない」

「どうしたらいい?」

「どうしよう?」

「……」

「……」

「……」

 三人の奴隷はどうしたらいいかわからず、ただ薄暗い場所で顔を見合わせ、息を殺していました。人が来ているのなら、その前に姿を見せることは出来ません。それはこの屋敷の決まり事です。

 あたりは変わらず、どたばたしています。時々、誰かの声が聞こえて、その度に三人の奴隷は、より人の気配のない方に逃げていきました。

 なにもできないまま、時間が過ぎていきます。

 太陽は東の空から天頂へ移動し、晴れやかに輝いています。

 三人の奴隷は行き場をなくして、狭い物置部屋に隠れていました。窓の外をそおっと覗くと、たくさんの人が家を出たり入ったりしています。なんだか、家財を運び出している様に見えます。

 いったい、どうしたのでしょう。

 不安がっていると、がたがた音がして、物置部屋のドアが開きました。

「ああ、いた。探しましたよ」

 顔を見せたのは、魔法使いの弟子でした。普段は顔を合わせない相手です。合わせてはいけない相手です。三人の奴隷は驚き、戸惑い、そして俯きました。

 弟子はそんな三人の反応に構わず、

「ちょっと、来なさい」

 と言って三人の奴隷を連れ出しました。

 庭に面した広い部屋に連れて行かれます。

 そこではたくさんの人がなにやら作業をしていました。

 人前にでることを禁じられていた三人は、とても悪いことをしている気分になって、居心地が悪くてたまりませんでした。

 女の奴隷は泣きそうな顔でした。

 男の奴隷は不安そうでした。

 女の子がどんな顔をしていたかは、女の子にはわかりません。

 弟子は三人に向き直ると、えへん、と咳払いをしました。

「先生がご病気になられました」

 先生というのは、この家の主人である老いた魔法使いのことです。

「先生はお医者様がいらっしゃる街へ移ります。この家は引き払うことになりました。管理が出来ませんし、お医者様に掛かるには、お金が必要ですからね」

 弟子が言うには、今屋敷に来ている人たちは、家財を買い取ってくれる人なのだといいます。この人たちによって家の中の家財のほとんどが買い取られていきます。

「魔法を使うのに必要なものと、研究に必要なもの。あとは、生活に必要な最低限のもの以外、売却します。この家と土地も、売却する手はずが整っています」

「発言をお許しください」

 女の奴隷が、震える声で言いました。

「許します。なんですか?」

「私たちは、どうなるのでしょうか」

 弟子は困った顔になりました。

「私は見習いで、あなた方を所有していくだけの資金がありません。先生も、これからの治療を考えると、あなた方を所有し続けるのは無理があります」

 つまり、三人の奴隷もまた売却されるということです。

 これから先の生活に、奴隷たちは必要のないということです。

「今、あなた方の買い取り先を探しているところです。見つからない場合は、市場で──」

 弟子の話を聞きながら、女の子は運ばれていくテーブルを見ていました。

 飴色のテーブルは、かつてはお婆さん奴隷が、毎日布巾で丁寧に拭いていたものです。いつもつやつやで、顔が映り込むくらいでした。お婆さん奴隷がいなくなってからは、女の子が拭いていました。

 ──この机は旦那様のお気に入りだから。

 いつだったか、お婆さん奴隷はそう言っていました。

 だから、いっとう丁寧に磨くのよ、と。

 そうしたら、旦那様もお喜びになるからね、と。

 そう言って、しわしわの顔をもっとしわしわにして笑っていました。

 そんなことを、今、突然に思い出しました。

「買い手が見つかったら呼びますので」

 三人の奴隷は、部屋に戻されました。

 ぼろきれをため込んで作った寝床で、呼ばれる時を待ちます。

 不要なものになった三人にできることは、なにもありませんでした。



◇◇◇◆



 何日かして、三人の奴隷は再び弟子に呼ばれました。

 買い手が決まったという知らせでした。

 女の奴隷は、とある島の集落へ。

 男の奴隷は、とある商人の元へ。

 そして女の子は、とある魔法使いの元へ行くことへなりました。

「彼は、私の兄弟子に当たる人です。既に独り立ちして、今は各地を旅して回っていらっしゃいます」

 弟子は難しい顔になって言いました。

「実は、無理を言って引き取ってもらったのです。奴隷は不要だと言われたのですが、事情が事情ですので……」

 どうやら、いらないという相手に無理に売りつけたようです。いくら事情があるとはいえ、相手の気分は良くないでしょう。

 とはいえ、と弟子は言います。

「彼は非常に良き人です。少々理屈っぽくて、気難しいところはありますが……このことで不当な扱いをされるようなことはないと思います。ただ、そういう経緯だということは、覚えておいてください」

「はい」

「彼の言うことをよく聞いて、よく働いてくださいね」

「はい」

「では、荷物をまとめてください。もうすぐ迎えが来ます」

「はい」

 そう言われても、女の子には荷物なんてほとんどありません。毎日の着替えくらいのものです。それも数えるほどしかありません。適当な麻袋にまとめて放り込んだら、それでもう、準備は終わりました。

 麻袋を抱えて玄関に行くと、弟子と、知らない人がいました。

 白いマントの人でした。

 頭の先から足元まですっぽり覆い隠す、ミルク色のマントを被っています。フードを深く被って、口元も布で覆っていて、その顔をうかがい知る事は出来ません。ただ、ちらりと垣間見えた肌は、褐色でした。くるりとカールした撫子色の髪が一房、フードの下からこぼれ落ちています。

「こんにちは」

 マントの人は、女の子に向かってそう言いました。なんだかとっても可愛らしい声をしています。どうやら、女の人のようでした。

 てっきり男の人だと思っていた女の子は、ちょっと驚きました。弟子よりも頭一つ分背が高かったのと、新しい主人が男の人だと聞いていたので、そうだとばかり思っていたのです。

「私はメーラ。魔法使いエストレアの使いです。よろしくね?」

「はい。よろしくお願いします」

 エストレア。

 それが女の子を買い取った魔法使いの名前でした。

「小さいわねえ。何歳?」

「わかりません」

「あら……そうなの?」

「はい」

 メーラは弟子のほうを向きました。

「貴方は知らないの?」

「存じません」

「役に立たないわね」

「申し訳ありません」

「……エストに無茶な値段をふっかけたこと、私は許していないわよ」

「大変、申し訳ありません」

 弟子は深々と頭を下げたあと、ポケットから鍵を出してメーラに渡しました。頭に鎖を通した、小さな鍵です。

 その鍵は、女の子の首輪の鍵でした。

 奴隷の首輪の鍵は、奴隷の主人の証です。

 それを持つ人が、奴隷の主人になります。

 メーラが受け取ったことで、女の子の主人はメーラに変わりました。

「荷物はそれだけ?」

「はい」

「そう。それじゃあ、行きましょうか」

「はい」

 メーラに連れられて、女の子は屋敷を後にしました。

 屋敷の外に出るのは、買われてきたとき以来です。

 奴隷は、決められた場所の外には出ないのが当たり前です。なので、外にいると不思議な気分になります。

 なにか、とても悪いことをしているような。

 とんでもない間違いをしてしまったような。

 そんな、落ち着かない気分です。

 焦るような、慌てるような気分です。

 胸がどきどきして、息苦しくなります。

 嫌な汗が出て、身体が少し震えました。

 手足が自分のものではないような気がします。

 地面がふわふわとして、足元がはっきりしません。

 なにか、じわりと滲むようにして、わき上がるものがありました。

 それは、ひどく冷たく、怖ろしい──

「──どうしたの?」

 ついてこない女の子を、メーラが振り返ります。

 女の子ははっとして顔を上げました。

「いいえ。なんでもありません」

「そう?」

「はい」

 浮いているような、離れているような手足を動かして、メーラを追いかけます。

 メーラは背が高いので、ゆっくり歩いているのに、とても早く進んでいきます。小走りにならないと、すぐに置いてきぼりになってしまいそうでした。

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