「のろまなネズミのおはなし」

 事件から、数日が経ちました。

 リンネは本を手に、宿舎から外へ出ました。

 空は薄曇りで、灰色の雲の向こうからうっすらと太陽の光が届いています。

 風は冷たく、辺りは静かでした。

 建物の壁沿いに進み、図書館の方角へ向かいます。

 最近は寒さも緩んで、日も差すようになりました。

 積もっていた雪が、少し水気を持ち始めています。

 びしゃびしゃと水っぽい雪を踏みながら進んでいくと、やがて図書館の建物が見えてきました。

 重たい扉を押し開けて、中へ入ります。

 珍しく、司書の男はいませんでした。

 しかたなく、そのまま薄暗い図書館のなかを進みます。

 突き当たりのホールに、エストレアがいました。

 テーブルに地図を広げ、椅子に深く腰掛け、難しい顔でなにか考え込んでいます。

「エストレア様」

「うん? ああ、リンネ。どうした?」

「本の返却に来ました」

「そうか。どうだった?」

「なにがでしょうか」

「その本。読んでみて、どうだった?」

「…………」

 手にしている本は、昔話や童話を集めた本でした。

 色々な場所の、様々なお話が、たくさん載っています。

 勉強に行き詰まったリンネに、エストレアが勧めてくれた本でした。難しい言葉が少なくて、ややこしい文法もない本なので、リンネでも読むことが出来るはずだから、と。

 リンネはそれらを時間をかけて読みました。

 エストレアの言ったとおり、リンネでも時間をかければ読めるお話ばかりでした

 時々辞書を引いたり、何度も読み返してみたりしながら、リンネは全部を読みました。

 そして全部、よくわかりませんでした。

 読み終わっても、そういう話なのだな、としか思いません。

 こういうことがあって。

 こういうふうに話が進んで

 そして、こんなふうに終わった。

 それはわかります。

 でも、それだけです。

 特になにも思いません。

 そうなんだ、と思いますが、それだけです。

 リンネがそう言うと、エストレアはうーんと唸って、

「じゃあ、一番記憶に残ったのはどんな話だった?」

 と聞きました。

 リンネは少し考えて、

「パンケーキを焼こうとして失敗する話です」

 と答えました。

 のろまなネズミが、友達のネズミの誕生日にパンケーキを焼こうとするけれど、なんにも上手くいかない話です。

 とびきり美味しいパンケーキを焼こうと、のろまなねずみは張り切って準備をしますが、上手くいきません。

 材料集めも道具集めも上手くいかなくて、パンケーキを焼くのも上手くいかなくて、出来上がったのは焦げてぐちゃぐちゃの失敗作でした。

 それでも友達ネズミは喜んで、その失敗作を平らげます。

 少しも美味しくない失敗作を、おいしいよと言って食べるのです。

 それはもう、誰が見たって嘘でした。

 のろまなネズミも気付くくらい、明らかな嘘でした。

 それでも、のろまなネズミは、そんな友達ネズミの優しさに大泣きします。

 なんにもできないのろまなネズミを、それでも傷つけまいと嘘で守ってくれる友達ネズミの優しさに、泣くのです。

 最後は、今度は美味しく作るからねと約束して、話はおしまいです。

「ネズミは、友達が嘘を吐いたことを優しいと言っています」

「うん、そうだな」

「でも、そんなことを言ってもネズミがパンケーキを上手く焼けるようにはならないと思います」

「リンネはそう思ったわけだ」

「はい」

「じゃあ、リンネならどうする?」

 リンネは少し考え込みました。

「美味しくないというと思います」

「正直に言う?」

「はい」

「でも正直にそう言ったら、相手は傷ついてしまうかもしれない。それでも言うか?」

「はい」

「どうして?」

「のろまなネズミの目標は、美味しいパンケーキを焼くことです。それが出来ていないのなら、それは言うべきだと思います」

「そうか」

「言わない方がいいのでしょうか?」

 リンネの問いに、エストレアは天井を仰ぎました。

「うーん……」

 薄紫の目が、リンネを見て笑います。

「一つ、リンネは勘違いをしている」

「?」

「のろまなネズミの目標は、美味しいパンケーキではないんだよ」

「……よく、わかりません」

「パンケーキは、なんのために焼くんだ?」

「友達のネズミが、誕生日だからです」

「そうだな。誕生日のお祝いだ。──じゃあ、どうして誕生日を祝うんだと思う?」

「それは──」

 リンネは首を傾げました。

 リンネには、誕生日がありません。

 気付いたら、農場で働いていました。

 誕生日がないので、祝ったこともありません。

 だから、どうして祝うのかもわかりませんでした。

「──わかりません」

「誕生日っていうのはな、その人が生まれてきたことを祝う日なんだよ。その人が生まれてきたことと、今日まで生きてきたこと。それを感謝し、喜び、祝う。そしてこれから先の一年も、これまで通り無事に過ごせることを願う。そういう日なんだ」

「…………」

「大切なのは、そういう気持ちなんだ。この人が生まれてきてくれた、生きてきてくれた。そのことを喜ぶ気持ちを伝えるのが、誕生日のお祝いってもんだ。ケーキだのプレゼントだのは、それを伝えるための手段に過ぎない」

「…………」

「大切なのは、そういう気持ちが伝わっているかどうかなんだよ。美味しくなかろうが失敗作だろうが、気持ちが通じたから、友達ネズミは喜んだんだ。自分の誕生日を祝って貰えたことがなにより嬉しかったから、味なんか悪くたってどうでもよかったんだよ」

「…………」

 リンネは──

 リンネには、やっぱり、よくわかりません。

 その気持ちは、どこで通じたのでしょう。

 どうやって伝えたのでしょう。

 どうやって受け取ったのでしょう。

 渡したのは失敗したパンケーキだけです。

 あとは、そう。

 いくつかの言葉。

『美味しいパンケーキを贈りたかったのに、失敗しちゃったんだ』

『こんなの持ってお祝いになんて、行けないよ』

 そんな言葉だけです。

 それが、どうして。

 そういう気持ちを伝えたことになるのでしょう。

 リンネには、さっぱりわかりませんでした。

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