山麓の学舎

 大きな門の前でこちらを振り返ったメーラは、マフラーの向こうでにっこり笑いました。夏空色の目が、きゅっと細められます。

「無事に着いてよかったわ。途中でエストがどっか行っちゃった時は、どうなるかと思ったけど」

「悪かったって」

 エストレアはばつが悪そうな顔になりました。

「珍しいもんが生えてたから、つい」

「つい、で山の中に消えられたら困るのよ。この辺り、ヨーテも出るんでしょ?」

 ヨーテは、肉食の獣です。狼より更に一回り大きく、強い顎と鋭い牙を持っています。それでもって武装した人間も平気で襲う、危険な動物でした。

「そう、ユキヤマヨーテがいるんだよな。生息域が限られてる珍しいヨーテで……」

「その話はまた後で」

 メーラは脱線しかけた話をすぱっと元へ戻します。

「あのね、わかっているでしょうけど、危ないでしょ? 土地勘のない山で、ヨーテがいて、その上あなたは方向音痴」

「まあ……」

「別にね、見に行くなとは言ってないのよ。珍しいものがあって、よく見たいと思うのは別にいいの。でもそれならそれで、せめて一声かけてからにしてちょうだい」

「まあ、その、うん」

 エストレアはもごもごとよくわからない返事をしました。

「なあに?」

「確約が難しいな、と思って」

 メーラは、額を抑えました。

 頭痛を堪えるような顔です。

「そんなに難しいこと言ってるかしら……」

「状況によっては、そんなことしてる暇ないかもしれないだろ。動物とかだと、物音で逃げられるかもしれないし」

 それに──と言いかけたエストレアでしたが、メーラの顔を見て口を閉じました。気まずそうな顔で手を頭にやり、帽子を引き下げます。

「その、なんだ。気を付ける」

「アテにならない返事ねえ」

 メーラは肩をすくめました。

「それで」

 赤い目で辺りを見回していたノイエが、ぼそりと呟きました。

 黒い籠手をつけた右手で、口元を覆っていたマフラーを下ろします。

 普段から不機嫌そうな顔が、今は寒さのせいで更に険しくなっていました。

「連絡はしてあるんだな?」

「あるよ。途中で事故でも起きてたら届いてない可能性はあるけど」

「アテにならない……」

「二人して同じ事を言うなよ……」

 エストレアは苦いものを噛んだ顔で、扉の横に垂れていた紐を引っ張りました。

 頭上にあるベルが、がろんがろん、と騒がしい音を立てます。

「ああ、寒い」

 メーラが呟きます。

「まだ一応は、夏のはずよね」

「暦の上ではな。ただ、この街じゃ普通の暦は通用しない。ここには季節ってもんがほぼないからな」

「厳寒期と寒冷期しかないんだっけ。基本的にいつも寒いのね」

「そう。寒さが緩む時期と厳しい時期しかない。一年の大半を、雪に覆われる土地だ」

「そんな土地で、よく暮らせるわね」

「この土地でしか育たない薬草がいくつかあるからな。ほとんどの住民が、それを育てて出荷して生計を立ててる。それと地熱──地面の温度は高いんだ。だから地下が温かいし、掘れば湯が沸く」

「温泉ってやつね」

「そう。場所が場所だから人を呼べる程の名物じゃないらしいが、暮らす上では結構便利なんだそうだ」

「お湯が使い放題なのはいいわねえ。ここだと寒くて水仕事なんて出来そうにないし」

 そんな話をしていると、ぎいっと音を立てて、扉が細く開きました。

 隙間から、若い白服の神官が訝しげな顔を覗かせます。

「どちらさまでしょうか?」

「旅の魔法使いだ。神官ハルセに会いに来たんだが」

「ハルセ様に?」

「一応、しばらく前に手紙は出しておいたんだが……」

「確認致します。お待ちください」

 神官は引っ込み、扉は再び閉ざされました。

「入れてくれないんだあ……」

 恨めしげなメーラを見て、エストレアは苦笑します。

「ここは学校側の入り口だからな」

「ふうん?」

「神殿と違って、誰でも通すわけにはいかないんだよ。生徒の中には、貴族や富裕層の子も多い」

「なるほど。防犯上の理由ってやつね」

 メーラは門を見上げます。

「それにしても、こんな辺鄙な場所に貴族が通うような学校があるなんて。ここ、国境の近くでしょう? 大丈夫なの? 色々と」

「国境って言ったって、イーリー山脈だぞ。人が越えてくるようなことはまずない。グールメールがいるからな」

 イーリー山脈は未踏の霊峰です。

 その理由は、険しい地形、一年を通して峰を覆う万年雪の存在、変わりやすい天候など、色々とあります。しかしその中でも一番の理由として名前が挙がるのが、グールメールでした。

 グールメールは、神聖獣の一つです。

 神話に語られる、神々と縁深い獣です。

 彼らは、ある時は神聖なる神の使いとして、またあるときは竜以上の脅威として語られます。

 その力は強大で、人では決して敵わない。

 そう語られ、そして事実、彼らはその力で近づくものたちをなぎ払ってきました。

「普通、グールメールは群れたりしない。親離れをしたら、あとは繁殖の時を除いて一頭で生きていくものだ。それがどういうわけか、このイーリーの地では数十の群れを成している」

「理由はわからないの?」

「わからん。調べようがないからな」

「近づけないんじゃ、調べようもないかあ」

「そういうことだ」

 ふうん、とメーラは頷きます。

 あまり納得していない顔です。

「なんだよ」

「だって、不思議だもの。こんな辺鄙なところに学校があるのも、そこに貴族が通ってるのも。王都からずいぶん離れてるし、不便じゃない?」

「まあ、そうなんだが。ここはそもそも、図書館ありきの学校なんだよ。学校が出来たのは、図書館があったからなんだ」

「ふうん。じゃあ、その図書館はなんでこんなところにあるの?」

「それは──」

 エストレアがなにか言おうとしたのと、扉が開いたのはほとんど同時でした。

 先ほどの神官が、再び姿を現します。今度は、大きく扉を開けて。

「お待たせをして申し訳ありません。ハルセ様に確認が取れました。──どうぞ、お入りください」

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