片隅の町

 乗合馬車の終点は、山際の小さな町でした。

 広く緩やかな川と、急峻な山肌の間に挟まれた、なんだか肩身の狭そうな町です。決して広くはなく、豊かとも言えない土地で、石造りの家々が肩を寄せ合っています。

 乗合馬車を降りてまず目に入ったのは、ゆったりとした川の流れ。その向こうに広がる、大岩原──嵐の海のように鋭く波打つ岩の大地。そしてその向こう、地平の果てにそびえ立つ、万年雪を冠したイーリー山脈の姿。そこへ沈む真っ赤な夕日が眩しくて、リンネは目を細めました。

「リンネ」

 御者との話を切り上げて、エストレアがやってきます。

「大丈夫か? だいぶ揺れたけど、気分悪くなったりはしてない?」

「はい、大丈夫です」

「そうか」

 エストレアは近くにあった切り株に腰を下ろしました。だらりと足を投げだし、大きなあくびをします。目尻に浮いた涙を、指先で拭いました。

「──考えたんだけどな」

「はい」

「この鍵は、リンネが持っていた方がいいと思う」

 そう言って差し出されたのは、リンネの首輪の鍵でした。

 細い鎖が通された、小さな黒い鍵。

 それが目に入った途端、リンネの背中はむずむずし始めました。

「今後、リンネが旅を続けていった先で、首輪を外したいな、外してみようかな、って思う時が来るかもしれない。あるいは、外さないと危ない、なんて状況にならないとも言えない。でもそういう時、必ず近くに俺がいるとは限らないだろ?」

「はい……」

「そういうことを考えると、やっぱりこれはリンネの手元にあった方がいい。いざっていうときに、リンネが自分の意志で使える状態にあったほうがいいはずだ」

「……はい」

 リンネはまた、あの感覚に襲われました。

 息苦しさ。ざわざわとする胸。嫌な汗。

 じわりとわき上がる曖昧な恐怖感。

 はっきりとしないまま、靄のようにリンネの心に居座る、嫌な気分。

「リンネ?」

「あの……いえ」

 なんと説明したらいいのでしょう。

 そわそわとするばかりで、言葉が出てきません。

 この言いようにない不安感を伝えるには、どうしたらいいのでしょう。

 リンネは悩み──結局、どうしようもなくなって、諦めるしかできませんでした。

「なんでもありません」

「そうか?」

「はい」

 エストレアは僅かに目を細めて、リンネの顔をじっと見つめました。

 居心地が悪くて、お腹の辺りがすっと下がったような気がします。じわじわと、嫌な汗が背中を湿らせました。足がむずむずして、今にも走り出しそうになります。

 リンネはぎゅっと手を握って、それらを我慢しました。

「……まあ、いい」

 しばらくして、エストレアは軽く息をつきました。

「そういうわけで、これはリンネに渡しておく」

 手のひらに、小さな鍵が落とされます。

「なくさないようにな」

「……はい」

 絶対に触れることなどないはずだった、首輪の鍵。

 それが今、自分の手の中にあります。

 リンネは、心臓が止まったような気がしました。

 ひどく悪いことをしているような気がして、落ち着きません。叶うならば、今すぐエストレアに返したいくらいです。

 けれどそんなことをしたら、エストレアを困らせてしまうでしょう。それがなんとなくわかって、リンネはもう、返すことができませんでした。

 視線を鍵から引きはがして、蓋付きポケットの奥にしまいこみます。

 そうして見えない場所にしまい込んで、知らんぷりをします。

 リンネには、そうすることしかできませんでした。


◇◇◇◆


 地元のおばさんと交渉をしていたメーラが戻ってきます。

「泊まれる場所は、一ヶ所しかないそうよ」

「昔は三つあったはずだが」

「二つは、ずいぶん前に閉めちゃったって」

「そうか」

 エストレアは残念そうでした。

「じゃあ泊まるのはそこだな。あとは、道案内してくれるような奴がいたらいいんだが」

「それなんだけど──」

 メーラは頬に手を当てて、ふう、と息をつきました。

 いかにも困ったという仕草に、嫌な予感がしたのでしょう。エストレアは眉を寄せて、険しい表情になりました。

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