人を救うのは誰なのか

 エストレアはお茶を煎れてくれました。

「ちょっと高い茶葉使っちゃうか。メーラたちには内緒な」

「はい」

 煎れてくれたのは、鮮やかな緑色のお茶でした。

 湯気と一緒に、爽やかないい香りがふんわり広がります。

「ほい。熱いから気を付けろよ」

 リンネの隣に腰を下ろしたエストレアは、そう言ってリンネにカップを渡しました。

 並んで、お茶を飲みます。

 手元を見ると、首にかけた礼拝杖が目に入って、なんだか落ち着きません。

 むずむずするような。

 そわそわするような。

 首輪を外した時は、首回りがすかすかして落ち着きませんでしたが、そんなのはすっかりどこかへ行ってしまいました。

「…………」

 そういえば、エストレアはリンネが首輪を外したことについて、なにもいいませんでした。

 どうしてでしょう。

 リンネにはわかりません。

 ただ正直、リンネは聞かれなかったことにほっとしていました。

 きっと聞かれるだろう、と考えていたのです。

 外した理由だとか、きっかけだとか。そういうことを、

 実は、しっかり頭の中で考えていました。なんとかして一つにまとめて、言葉で説明しようと思っていました。

 でも、それはやっぱり、上手くまとまりません。

 ぼんやりしていて、曖昧で。

 さっきまでそこにあったのに、あっと思うともやもやと消えてしまって。

 そんなことを繰り返すばかりで、少しもまとまってくれませんでした。

 だから、聞かれなかったことにほっとしました。

 ちびちびと熱いお茶を飲んでいると、ふと、思い出したことがありました。

「エストレア様」

「んー?」

「人のための神ではない、というのは、どういうことですか?」

「うん?」

 エストレアは少し考えて、ああ、と頷きます。

「アリエラが言ったやつか」

「はい」

「よく覚えてたな」

「気になったので、覚えておきました」

「いいことだ。なにかを気にするのも、それをちゃんと知ろうとするのも、大切なことだぞ」

 エストレアはにこにこ笑いました。

「前に、神様というのはなんなのか説明したな」

「はい」

 神様というのは、今あるこの世界の全てを生み出した存在。

 前に、エストレアからそう教わりました。

「神様はこの世界の全てを創造された。そしてそれら全てを、今に至るまで守り支えている。この『全て』というのは、本当に全てなんだ。人だけじゃない。動物も、植物も。大地も空も海も含めた全部だ。わかるか?」

「はい」

「つまりな、神様は人のことも守っているけれど、同じくらい、他のものも守っている。そういう意味で、神様は人のための存在ではないんだ。人のためだけの存在ではない、と言った方がいいかな」

 エストレアはお茶を一口飲みました。

「ロニアはな、そうじゃないんだ。数多くの神々の中で、ロニアだけは例外」

「れいがい」

「原則から外れている、ということ。基本的に決まっているものから、外れた性質をもっている」

「はい」

「ロニアはな、救済女神と言われる。苦しんでいる人や、困っている人を助けてくれる。そういう神様だ」

「人を?」

「そう。人を助けてくれる。他の神様と違ってロニアだけは、人を──人だけを助けてくれる」

「人以外は、助けないのですか?」

「どうだろう。本当のところは、わからない。もしかしたら俺たちが知らないだけで、人以外も助けているのかもしれない。ただ神話では、ロニアは人々の祈りから生まれたとされている」

 エストレアは、古い神話の一説を語ってくれました。


 最も新しき女神よ。

 麗しき声を持ち、美しき器に御身を宿す。

 その歌声は、人々を昏き地より救い上げる。

 ロニアよ。情け深き慈しみの女神よ。

 あまたの祈りより生まれ出でた、希望の娘。

 あまたの願いより生まれ落ちた。救済の女神。

 その手は、全ての暗闇を打ち払い。

 その歩みは、全ての人々を幸福へ導く。


 ──ロニアは、そんな風に語られています。

 難しい言い回しでしたが、それでもなにを語っているのかはだいたいわかりました。

 その神は、救いの女神で。

 人を幸福に導いてくれる。 

 そんな存在を求めた人たちの、祈りと願いから生まれたのが、ロニアでした。

「人は、なにから助けて欲しかったんですか?」

「んー……色々、だろうなあ」

 人の悩みは、苦しみは、一つではありません。

 みんながみんな、同じ苦しみを抱えているわけでもありません。

 お腹が空いた。住む場所がない。病気が辛い。身体が不自由で辛い。誰かから攻撃さている。生活が貧しい。一人きりが辛い。物事が思い通りにならない。理解者がいない。将来が不安。どうしたらいいかわからない。なにをやっても上手くいかない。愛する人を喪った。大切なものを無くした。ひどく傷つけられた。

 その時々で、人は違う苦しみを抱えています。

 人それぞれに、違う苦しみを抱えています。

 苦しみ、そして行き詰まっています。

 そんな人たちの願い。

 この苦しみから解放して欲しい。

 この辛い日々から解放されたい。

 誰か。

 誰か。

 どうか。

 助けて。

 ──そんな願いを受けて生まれたのが、救済女神ロニアでした。

「人は、助けて貰えるのでしょうか」

「どうかな。ロニアにまつわる話はほとんど残ってないから、実際にどうなのかはわからない」

「エストレア様は、ロニア様に助けて頂いたことがありますか?」

「いいや、ないよ」

 エストレアは困った顔で笑いました。

「村が焼かれたときだって、助けてはくれなかった」

「ロニア様は、どうして助けてくれなかったのですか?」

「うーん……」

 いよいよ難しい顔になって、エストレアは黙り込みました。

 腕を組んで、動くことなく、じっと考え込んでいます。

「たぶん、だけどな」

 長い沈黙でした。

 お茶が少し冷めてしまうくらいの長い沈黙。

 聞いてはいけなかったかも、と不安になるくらいの間を開けてエストレアは再び口を開きました。

「俺たちが思ってる救済と、ロニアの救済は、違うものなんだよ」

「ちがうもの」

「そう。神の眼差しは、人のそれとは違う。人と精霊が同じ世界にいながら全く別の景色を見ているように、神もまた人とは違う景色を見て、物事を決めている」

「はい」

「俺たちは、救済というとその場で苦しみから解放されて、問題が全部解決して……みたいなことを想像する。嫌なことがぜーんぶ消えたら、それは幸せだろ?」

「はい」

「でも神は違うんだと思う。神の考える救済は、その場の出来事を解決することではないんだ。人の目から見ると、それは助けてくれなかった、という事になるけど、神様にとっては違う。神様にとって、あれは──」

 エストレアは少しだけ、言葉に詰まりました。

 それは一瞬で、もしかしたら気のせいだったかもしれません。

「あれは、神様にとっては、救済だったんだろう」


◇◇◇◆


 神様とはなんなのでしょう。

 リンネにはよくわかりません。

 この世界を作った存在で。

 人とは違う存在で。

 力を貸してくれることもあれば。

 助けてくれないこともある。

 そういう存在。

 きっと、とてもすごい存在なのだと思います。

 神様は敬うべき存在で。

 感謝を捧げるべき存在。

 エストレアがそう言うのだから、そうなのだと思います。

 でもリンネには、なにがどうすごいのかわかりません。

 だってリンネは、今まで一度だって、神様の存在を感じたことがないのです。

 その存在すら、つい最近まで知らなかったのです。

 だから、なにがすごいのかわかりません。

 リンネは、神様よりもエストレアたちのほうがずっとすごいと思います。

 困ったときに力を貸してくれたのも、危ないときに助けてくれたのも、神様ではありませんでした。

 そういうとき、リンネの近くにいてくれたのはエストレアであり、メーラであり、ノイエでした。

 だからリンネは、神様よりもエストレアたちの方がすごいと思います。

「エストレア様は、神様よりすごいと思います」

 正直にそう言うと、エストレアはむせました。

「なんだ、急に」

「私は、エストレア様にいつも助けて頂いています。だから、神様よりもすごいと思います」

「うーん、そういうことか」

 エストレアはちょっと困ったような、恥ずかしがるような顔になりました。

「それを受け入れると、傲慢だって神々に叱られそうだな」

「ごうまん」

「傲り高ぶること。えーと、そうだなあ。思い上がって、人を見下すことかな。そういうのはよくないことだから、神様に叱られるわけだ」

「はい」

「だからそういう時は、神様よりも、とか比べるようなことは言わなくていい」

 リンネは少し考えて、言い直しました。

「エストレア様は、すごい人です」

「うん。それでいい」

 エストレアは笑って言いました。

 なんだか妙に嬉しげで、リンネはそわそわします。

 嫌な気持ちではありません。

 ただ、落ち着きません。

「リンネは、ずいぶん変わったな」

「そうでしょうか」

「よく喋るようになった」

「……そうでしょうか?」

「だって最初の頃は、返事をするだけだったろ」

「はい」

「でも、色々聞いてくるようになったし、最近は自分の考えも言ってくるようになった」

 それは、他ならぬエストレアがそうするように言ったからです。 

 わからないことは聞く。

 意見があるなら言う。

 思ったことを言葉にする。

 そうするように言われて、そうしただけです。

 それを言うと、エストレアはうんと頷いて。

「そうだな。リンネは、俺が言ったとおりにしてる」

「はい」

「でもな? これって、言われてすぐに出来るようなことじゃないんだぞ? 意見を言うとか、質問をするってのは、簡単なようで難しいことだからな。そうだろ?」

「はい」

 リンネは素直に頷きました。

 考えたことを言葉にするのは、難しいです。

 考えというのは、とても曖昧で、はっきりしなくて、すぐに何処かへ行ってしまいます。たしかにそこにあったのに、まばたき一つでなくなってしまいます。捕まえようとするほどに、ふわふわと解けていってしまいます。

 そういうものを、見失わないように言葉に変えていくのは、確かに難しいことでした。

「俺はな、リンネは実は、とても頭がいいんじゃないかと思ってる」

「そうでしょうか」

「ものをよく覚えているし、難しいことも出来るようになっている。知らないことが多すぎるだけで、たぶんリンネはとても頭がいい」

 そうなのでしょうか。

 そうは思えません。

 だってリンネは、なんにも知らないのです。

 知らないことと、わからないことばかりです。

 考えるのも下手くそで、話についていくので精一杯です。

 頭がいいなんて事はないと思います。

 でもエストレアは違うようです。

「だから、実は少し楽しみなんだ」

「?」

「リンネのこれから」

「これから」

「どんな大人になるのかな、とか。どんな人生になるのかな、とか。そういうのが楽しみで、ついいろんな事を教えたくなる。リンネには、そういう能力があるよ」

 褒められているのでしょうか。

 リンネにはわかりません。

 今のことですら手一杯で、よくわからないのです。

 わからないことでいっぱいなのです。

 先の事なんて、わかりません。

 わかるのは、目の前にあるほんの少しのことだけ。

「私は、これからもエストレア様についていきます」

「ああ」

 エストレアは笑って頷きました。

「それでいい。今はまだ」

 その言葉の意味は、リンネにはわかりません。

 今は、まだ。

 だからリンネは頷きます。

「はい」

 そう言って頷くのが、今のリンネの全てでした。

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