五章⑦

 老女が楊家から持ってきた木箱の中には、父の画ではなく、春菊が以前清水城で描いた陰陽の画が入っていた。

 春菊は焦る。

 以前、知人が別の陰陽の画を雑に扱ったがために、大変な目に遭った。

 だとすれば、今回もまずいことが起こるのではないだろうか。


「触らない方がいいよ! その画は僕が描いたんだけど、扱いを間違えると何が起こるのか分からないんだ!」

「煩いわね! あんたなんかに指図されるいわれなんかない! こんな気色悪い画、こうしてやるわ!」


 左丞相の娘、郭巧玲は凄い剣幕で怒鳴り散らすと、細い指で黒い紙を摘み上げ、卓の上にひらりと落とした。

 そして果物と共に置いてあった包丁をおもむろに掴んで、画の真ん中を突き刺す。

 激しい衝撃音と使用人達の叫び声に驚き、春菊は固まる。


「や、やっちゃった……」


「巧玲よ、刃物で家具を傷つけてはならないと、いつも言っているではないか!」


 左丞相は娘の行動の本当の危険性に気がついていないようだ。

 しかも娘の凶行に気をとられ、陰陽の画に穴から大量の黒いもやが噴き上がるのに気が付くのが遅れた。


「な、何なの? このもやは」

「ひっ、濃厚な邪気が……、お嬢様、危険でございます!」

「近寄ってくる……っ!

「は、早く外に……! うごぉっ!?」


 三者が一様に目を見開き、この異様な光景を見つめている。

 黒い靄の量は先日の鶏蠱の時とは比ではないほどで、一瞬にして部屋の一角から中央付近まで到達してしまった。


 呆然としながら見ていると、次第に黒い靄は晴れ、ごろごろとした岩が数個姿を表す。それらはその場から動かない代わりに、だんだん大きくなる。

 その圧迫感たるや、さながら蒸篭せいろで蒸される饅頭のようだ。

 鶏蠱よりもましなところをあげるなら、素早く走り出さないあたりだろうか?


 だが、動かないからと言って、無害なわけではない。

 まず郭家の二名が床に倒れ、老女の方は腹部を抑えてうずくまった。

 室内の様々なところから悲鳴が聞こえるから、使用人達も無事ではないようだ。

 さっと見回してみれば、かろうじて立っている者もいる。

 人によって症状がまちまちなのかもしれない。


 老女はまだ意識がしっかりしているのか、厳しい目で春菊を見上げ、地をうような低音で詰問してくる。


「菜春菊……、貴女はこの画を自分で描いたとおっしゃったな? 普通の画ではない。蠱返しの術を、この画に仕込んだのか?」

「蠱返しってなんのこと……?」

「以前私が楊家に忍び込んだと確信し、この木箱に細工をし、他の木箱を選んでも、中身がすり替えられるようにしたでしょう? 可愛らしく振る舞っているが、これほど恐ろしい人間とあいまみえたのは初めてです」


 老女は春菊のことをとんでもない悪鬼か何かのように言う。


 だけど、春菊は流れに任せて行動していただけだ。

 左丞相家の犯罪行為を確かめられそうだったから、居座って、色々と見て聞いていたに過ぎない。

 だからこれは事故のようなものだ。

 左丞相とその娘とその護衛の間で、情報の行き違いが起こり、石蠱の予想出来なかった動きも加わって、とんでもなく混沌とした状況になった。

 実際春菊は自分の行動に後悔しているくらいだ。


「そんな細工なんかしないよ! 僕はただ、画を描くのが好きで……、ついつい何でも画を描いてしまう。ただそれだけなんだ。ちなみに蠱が取りついた物を描くのも、す、好きだよ」

「……なんたる狂気。これが陽の気のなせるわざなのか。先代が陽の気を持つ女には気をつけろと言い続けていたのがようやく分かった……。うぐっ……ぐぁぁあ!!」

「おばあさん!!」


 老女の腹は不自然にぼこぼことうごめいている。

 みるからに痛そうなこの症状は、石蠱につかれた者のそれでしかない。

 だけど、彼女には聞かなきゃいけないことがある。


「……おばあさん、苦しいだろうけど、教えてほしい。返しと言ったよね。それって、君がこの画に描かれているものが、蠱だと、すぐに理解したからそう思ったってことだ。だって、普通なら、この画を見たならお金持ちの庭園の風景を描いたと思うでしょ?」

「ぐうぅ……腹の痛みが……」

「おばあさんが、清水城犯人なんじゃないの? そうとしか考えられない」


 そう言い放ったものの、単独でやったわけではないだろうとも思う。

 内部に共犯関係にある者がいるように思えてならない。


(石に憑いていた蠱を作ったのはこの人か、もしくは全く違う人か……。首謀者的な人たちがいる可能性だってあるよね。郭家の人たちがやっぱり怪しいけど)


 色々考えてしまうが何も行動に移せない。

 この部屋において、春菊はたった一人の異分子なのだ。おかしな行動をしたなら、捕まえられて監禁されることだってありえる。

 どうしたものかと、右往左往する……。


 そうこうしているうちに、郭家の使用人の中で、石蠱の難を逃れたもの達がぽつぽつと話しだした。


「主人とお嬢様、老鄧はどうなさったのだ?」

「よくは分からない。ただ、老鄧が楊家から持ってきた画から毒煙のようなものが部屋中に広がったのだけは分かる」

「楊家に騙されたのか? 最悪じゃないか」


 彼等の見当違いな会話に、春菊は慌てふためく。


「全然違うよ! この人たちは僕の部屋から僕の父上の画と間違って、僕の画を盗んで来ちゃったんだ。だから、えーと……。とにかく、楊家は何も関係ないよっ。寧ろ泥棒に入られた被害者なんだ!」


 舌を噛みそうになりながらも、誤解されないように説明を試みる。

 しかし、郭家の使用人達は春菊を冷めた目つきで見るだけだ。


 このまま話は平行線を辿るかに思われたが、狡猾そうな顔立ちの男がすっと彼の主人達のそばを通り過ぎ、戸口から出ようとする。


「巻き添えをくらって罪に問われるのなんざ御免だ。左丞相のことだ、俺たちの誰かまたは全員に罪を着せて、自分達だけは逃げおおせるくらいのことはやりそうだからな」


 助ける気はないのかと思いはするが、もしかすると芋蔓式に左丞相の最も重い罪が炙り出されるかもしれないのだ。

 だから、この使用人の判断を咎めることは出来ない。


「……自分の人生なんだから、好きにするといいよ」


「言われなくてもそうするさ」


 男が出て行くと、顔色を変えた使用人達が次々に後を追う。

 絶対にここに取り残されたくないと、明確な意思を感じる行動だ。いろんな意味で危険だと勘付いているのかもしれない。

 ついに春菊と左丞相、郭巧玲、老鄧の四人だけとなり、春菊は急に他三名の生命に対しての責任を感じ始めた。


「うぅ……。こう言うの苦手だなぁ。でもこのままは良くないし。旧市街はすぐそばだから、やっぱりあの子に頼った方がいいかな」


 春菊は急いで残りの胡麻団子を頬に詰め込んでから、郭家を飛び出した。


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