二章⑦
春菊と天佑、天佑の従者の三人で再び憂炎の殿舎へと戻る。
しかし、建物まであと少しという所で目的地から人が騒ぐ声が聞こえてきた。
「––––いい加減にしてくれないか。何度言えば分かる? 俺はもう平気だと言っているだろう。放っておいてくれ」
「信じられません! さっきまで虫の息だったではありませんか!? 腹部も異様なありさまで……」
「今の俺を見ろ。弱っているように見えるか?」
「いえ、そんなことはありませんが……」
声の主は憂炎のようだ。だが、さっきよりもずっと声に張りがあり、若々しく響く。
春菊と天佑は頷き合い、憂炎がいるらしき方向へと急ぐ。
「憂炎ー!!」
「憂炎! 戻って来ましたよ!」
二人で声をかければ、殿舎の入り口付近でたむろする一団の中でひときわ背の高い男が勢いよく振り返る。
ただ、先ほどの苦しみようなど嘘のように顔色が良く見えるし、目の動きや表情の変化が健常者のそれだ。背筋も真っ直ぐに伸びていて、育ちが良さそうな雰囲気に変わっている。
しかしながら、目の下の
彼は春菊と天佑を交互に見た後、口を開く。
「ちょうどお前達を探しに行こうとしていたんだが、戻って来てくれて助かった。少し前に腹の痛みが無くなったんだが、何かやったのか?」
「あ、うん! 憂炎が言っていた御水園の画を描いてきたよ。天佑の体調が良くなったから、憂炎はどうかなーと思って、確認したくて戻って来たんだ」
「見ての通り、俺の肉体は元のほどほどの健康を取り戻した。お前のお陰だ、菜春菊」
「うへへへへ」
「お前の描いた画を見せてみろ。というか、もう帰るには遅すぎる頃合いだな。お前も天佑も今宵は俺の殿舎にでも泊まっていくといい」
「いいの?」
世間知らずの春菊ではあるが、一国の天子の殿舎に宿泊するのは、いくら本人の誘いがあったとしてもまずいのではないかと思ってしまう。血のつながりのある天佑はまだしも、春菊は一般市民でしかないのだ。
天佑もその辺に考えが至ったのか、止めに入る。
「憂炎。この画家は幼く、狸じみて見えても一応は女子です。妃でもない女を殿舎に宿泊させるのでは、いらぬ憶測を招くのではないのですか?」
「馬鹿らしい。憶測でも噂でも勝手にさせておけばいいだろう」
「……菜春菊が殺される可能性もあるわけですが」
「えぇ……っ!? そんなの嫌だよ」
「この女が易々と殺されるように見えるか? 神通力を持っているんだぞ。殺されそうになったなら、自分で何とかするだろう」
春菊は間抜け面で憂炎を見上げる。
蠱術によって殺されかけていたから、弱々しい人だと思っていたのだが、案外色々気が付いていたようだ。
そして神通力の有無に気がつけるということは、憂炎もまた、道士や神仙に近い存在なのかもしれない。
女官や宦官達が春菊に対して驚きを
憂炎は春菊を適当な場所で手放し、最奥の椅子にどかりと腰を下す。
春菊がぼんやりとその様子を見ていると、彼は卓の中央に乗った籠から果物を手に取った。
そのままがぶりと齧り付くのをみるに、よほど腹が減っているのだろう。
「……皮くらい剥きますが?」
春菊達の後から入室してきた天佑が、呆れたように憂炎に声をかける。
「お前にそんなことをさせるわけにはいかない」
「それこそ無駄な気遣いです」
「口
「うん、分かった」
春菊は果物の汁がこぼれないような場所に、さっき描いた画を広げる。
画に視線を落とした憂炎は一瞬だけ意外そうな表情をし、姿勢を正す。
「……夜闇と、岩々を照らす月光……? いや、普通の見方では真価がわからないな。これは陽と陰が混在した画なのだな」
「君には分かるんだね」
他人から自分の画の印象を聞くのは、なかなか興味深いものだ。
憂炎の口から他にどんな言葉が飛び出すのだろうか?
とてもわくわくする。
しかし、懸念がないわけでもない。静水城で描いた画は全て皇帝である憂炎のものになるのだと聞いた。
出来ることならこの”陰陽の画”は持ち帰って、自分で保管したいが、可能なのだろうか?
「ねぇ、憂炎。この画は僕が持ち帰ってもいい? 他の人が持ち続けるには危険なんじゃないかと思うんだ。僕の勘に過ぎないんだけど……」
「持ち帰っていいに決まっている。というか、頼むから持ち帰ってくれ。こんな物騒なものを静水城に置いておいたら、この画の扱いを誤る者がきっと出てくる。城の者や俺にどんな災いが降りかかるか分かったものじゃない」
「やっぱりこの画って、そんな危険なのかぁー」
憂炎に言われてから、改めて自分が描いた画を観察してみる。
神通力を用いて描いた画は、自分で思うのもあれだが、なかなか見栄えが良い。
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