二章⑥
夜闇は深まり、紙はすでに邪気に染まっている。
その境目は夜目がきく春菊にも判別しづらい。
紙の右上に一閃、二閃……と白色の線を走らせる。
素早くも緻密に、そして急ぎつつもあくまでも丁寧に、庭の闇を日差しで照らすような気持ちで風景を描き出す。
腕を、手首を、振るごとに作画にのめり込む。
しだいに自分の意思での作画なのか、それとも”陽の気”の導きなのか、よく分からなくなる……、御水園で最も目立つ石の作画に取り掛かると、ぐっと筆に重みがのった。
「ここに潜んでいるんだ……」
抵抗を無視し、思い切りよく筆を動かす。
すると、地鳴りのような、人間の叫びのような、不気味な怪音が地面から鳴り響きだした。
これを描ききれたなら、きっと、この庭に平和が訪れるはずだ。
体内の神通力がどんどん失われていく。
しかも早春の夜中だというのに、自分の額からは大量の汗が流れる。
二刻ほど辛い状態に耐え、ようやく石に取り憑いたものの方が根負けしてくれた。
軽くなった筆を素早く動かし、最後まで描ききる。
画に囚われていた春菊の意識も現実に引き戻され、下から男二人の声がはっきりと聞こえてくるようになった。
「––––天佑様! 本当にお身体は大丈夫なのですか!? 安静にした方がいいのでは?」
「もう痛みはありません。苦しくもありません。それよりも……」
「貴方様に何かあったら、私は皇太后様に顔向け出来ません!」
天佑と彼の従者が話しているようだが、従者がこれほど
春菊がいない時はいつもこんな感じのやり取りをしているのだろうか?
「はぁ……。誰に聞かれるとも知れぬ場所で、悪い憶測を生むようなことを口走るとは……。なんと
「どうぞ好きなだけ殴ってくださいませ! 本望でございますので!」
「だから、変な憶測を生むようなことを口走るなと言っているでしょう」
「も、申し訳ございません!」
どうやら春菊が作画に奮闘している間に、天佑の従者が戻ってきて、庭園の中央付近で苦しむ天佑を見つけてくれたようだ。
やや放心状態のまま彼等の会話に耳を傾けていると、天佑の声が平常時のそれに戻っている。春菊の画により、邪気が封じられたと考えていいかもしれない。
こんなところから黙って彼等の様子を観察するのも飽きてしまい、春菊は二人に声をかける。
「おぉーい! 天佑、お腹の具合はどうー?」
「菜春菊!? いつの間に木登りなどしていたのですか?」
「君が腹痛でうずくまった後すぐに、君を放置してこの木に登ったよぉー!」
「放置ですか……」
「何かまずかったかな?」
「いいえ、何でもありませんよ。それよりも、貴女は木の上で何をなさっていたのです?」
「解蠱するための画を描いたんだよ! たぶん、そのおかげで君の腹を治せたし、邪気も封じることが出来たと思う」
「なるほど! そういうことでしたか。感謝しますよ、菜春菊」
「いいんだよ! 今からそっちに行くから待っててね」
春菊は登った時とほぼ同じルートで欅の木をするすると下り、天佑達のところまで戻る。
「不思議なものですね。貴女の画一枚で痛みが消えるとは……。何かが腹の中で
「良かった。天佑まで体調が悪くなってしまったから、すごく焦ったよ」
「感謝しますよ、本当に」
「君には美味しい物をたくさん食べさせてもらっているから、たまには役立っておかないと!」
「やれやれ……。義理堅いというかなんというか」
「うへへ」
「貴女さえよければ、私にその画を見せてください。とても興味がありますので」
真面目な顔で画を要求する天佑に、たった今描き上がったばかりの画を渡す。
灯籠の光によって、黒色の背景に白色のみで描かれた庭の風景がくっきりと照らし出される。
御水園が崑崙山の風景を模しているからか、改めて見てみると、仙人達が暮らす
掛け軸にするには暗すぎるが、これはこれで悪くはない。
「味わい深い画ですね。私にこの画を売ってもらうことは可能ですか?」
「えーとね、実は僕、自分で描いた”陰陽の画”も自分の元に置いておいているんだよ。この画が普通の人間が持ってても大丈夫なのかどうか、良くわからないからさ」
「……それは残念です。私の理想世界を描いているようにも思えますので、是非私の寝所に飾りたかったのですが」
「ごめんよ」
本当に落胆した様子を見せるので、だんだん気まずくなってくる。
春菊は話題を逸らすため、さっきまで蠱に苦しんでいた人物の名前を上げてみる。
「憂炎の容体はどうなったのかな? あの人の解蠱にも成功しているかどうか、確かめたいよ」
「私も気になります。今から行ってみましょう!」
「うん!」
憂炎も御水園の蠱に取り憑かれたと考えられるが、春菊の画で良くなったかどうかは、本人に会ってみるまでは分からない。
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