四章⑤
「––––––春菊……。つい数日前に、『もうあたしの家に来ない方が良い』って伝えたばかりなのに、また来ちゃったわけ?」
朝一で知人の蠱術師、羅雹華宅を訪れた春菊は、彼女にもの凄く呆れた顔をされてしまった。
数日前に明確に拒否されたのだから、流石にもう少し時間を空ける必要があったかもしれない。だけど、蠱に関しては雹華の他に相談出来る相手がいなくて、彼女の元に来るしかなかった。
だからここで気圧されてしまうわけにはいかない。
「うぅ……。だってさぁ……。聞いてよぉ」
春菊は半分眠ったままの頭で、昨日起きた奇妙な出来事をぐだぐだと説明する。
きっと羅雹華のことだから、この出来事に関心を示すはずだ。
「ふぅん、なるほどね? つまり、画から出た黒いもやが気になって仕方なくて、ぼんやり眺めてたってわけか。純粋な好奇心もここまでくると邪悪に感じられるものね」
「それって、僕の事?」
「他に誰が居るっていうのよ」
「うぅ……、だってあんなの初めて見たんだもん。細かくなった紙から黒いもやもやがふわーて、地面に落ちてって、鶏の形になったの! あんまりびっくりしたから、楊家の屋敷に帰った後に、ついついあの現象を画にしてみたんだ!」
「お前って画が絡むとただの狂人よね」
「狂人?」
「……こんなこと言いたくないけど、出会った頃のお前からはあまり狂気は感じられなかった。何度も変人扱いされているうちに、心の底では人間が嫌いになってきているんじゃないの?」
「そんなことないよ。……もしかして、それが君が僕と縁を切ろうと思った最も大きな理由なの?」
「別に……。一番大きな理由は、お前に私の大切な蠱を消されたからよ」
「ほんと、ごめん……。とりあえず僕の画を見てよ」
「何なのよ、もう」
楊家の屋敷から持って来た軸箱から、一幅の掛け軸を取り出す。
最初は春菊の行動を呆れながら見ていた雹華だったが、視線はしっかりと春菊の手元にある。しかものろのろと軸棒を動かす春菊に
「へぇ。相変わらず腕前は確かね。このもやの濃い部分から薄い部分への変化の繊細さを筆と墨だけで描けるだなんて、達人としか言いようがない……」
「自分でもあの時の雰囲気をちょっとは出せたかなーって思ってる!」
「まぁ、お前の作画への情熱の所為で、あの男はああなったんだけどね」
「うん? ……ええええ!?」
雹華が振り返った先に、戸が半分ほど開いていて、その先の部屋の様子が見えた。
そこには大人の男が一人、平たい板の上に横たわっていた。
春菊はその人物が着ている深衣の柄に見覚えがあった。
蘇華文……なんだろうか。
昨日春菊の前で鶏の鳴き声を披露し、どこかに駆け去ったので気になっていたけれど、何故雹華の家に彼が運び込まれて居るのか?
「蘇華文!? なんで雹華の家に居るの!? い、生きてる……?」
「旧市街の薬師に眠らされているだけよ。順を追って話したほうが良さそうね」
「う……うん」
「……昨夜遅くに知人が運んで来たの。どいつもこいつもあたしの家を何だと思ってるのかしらね、全く、迷惑ったらないわ–––––」
呆れた口調で雹華が話すには、昨日旧市街ではちょっとした騒ぎが起こったらしい。
蘇華文は鶏鬼と化し、新市街の
もちろん鶏の鳴き声を絶えず発しながらである……。
そのようなおかしな人間を、この界隈の自警団が放っておくはずがなく、手荒に捕獲された後に、薬で眠らされたようだ。
そして、蘇華文の身柄は蠱の専門家である雹華にひっそりと渡された。
春菊は雹華の口からことの成り行きを聞き、顔を青くさせる。
色々な事故が重なったとはいえ、そこまでの騒ぎになるとは思いもよらなかった。
「……何かごめんよ。僕の不注意の所為だよね」
「お前の不注意と無自覚な根性の悪さもそうだけど、私も関わったことだから、強く批難出来ないわ」
「うぅ……。それで、ええと。蘇華文の体とか、心とかは大丈夫なの?」
「あの男の名は蘇華文なのね。鶏蠱は使用を失敗すると、行使に関与した者に帰ったりもすることがあるのだけど、蘇華文は鶏蠱を使用して悪事を働いたことがあったのかしら?」
「ええ……? 親しくはないから全然わからないよ。僕は二度鶏蠱を陰陽画に描いてみたけど、昨日破かれちゃったのは、たぶん最近描いたものだと思……、あれ? どっちだっけ?」
ちゃんと画を確認出来ていたなら、鶏の描き方の違いで、一度目か二度目か判別できたと思うが、華文の行動に衝撃を受けすぎて、陰陽の画を良く見ていない。
雹華が何を気にしているのかは分からないけれど、記憶が不確かだから、曖昧なことしか言えない。
「ふーん。あの男は蠱術師には見えないから、誰か他の人間にでも頼んだのかしらね。まぁ、そんなことはどうでもいいわ。こいつは解蠱しておく。蠱を操るのも、蠱にかかった人間を直すのも、蠱術師の仕事だもの」
「うん。あのさ、もし何かがわかったら僕にも教えてくれないかな? 僕が描いた画によって、華文に何が起きたのか気になるんだ。出来れば治し方とかも聞いておきたいな」
「そうねぇ……、もしお前がこの掛け軸をくれるなら、蘇華文を研究した成果を教えてあげてもいいわ」
「本当!? 掛け軸はもちろん雹華にあげるよ! そのつもりで持ってきたし」
「ありがとね。それと、……これ言っていいのか分からないのだけど」
「何かな?」
雹華は少し声を低める。これは彼女が真面目な話をするときの癖だ。
「お前、自分が特殊な効果を生む画を描けることを誰にも知られない方がいいわよ。……いつだったか小耳に挟んだのだけど、一昔前に有名な画家がいて、皇帝? 皇太后? にとても危険な任務を与えられてしまったみたいなの。それこそ、自分の命をかけないといけないようなくらいの……ね。十分気をつけなさい。上流階級の人間は、他人の犠牲を何とも思わないのよ」
「そんな人がいたんだ。ちょっと怖くなってきた」
「発言に気をつければいいだけよ」
雹華の話が本当なのかどうかは分からないけれど、陰陽の画のことは、誰彼構わず言うのはよした方がいいかもしれない。
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