後宮の臨時画家は陰陽を描く

@29daruma

序章

序章① 都で評判の画家

 菜春菊さい しゅんぎくは水を多く含んだ筆を宣紙の上に滑らす。

 墨は薄いながらも確かな存在感のある色合い。

 だからこの一筆には神経を研ぎ澄まさねばならない。


 うまくいった、と思ったのもつかの間。


 薄墨に染まった箇所が不自然ににじみ、紙の一方向へと流れていく。

 それだけにとどまらず、渦を描くようにして紙全体に広がり、せっかく描いた画が台無しとなってしまった。

 どんよりとした色合いは、まるでにわか雨が降る直前のような不快感のある光景。春菊は酷く落胆する。


「まだ駄目なんだ……。今回は長いなぁ」


 高価な三双紙が一枚無駄になったのも精神的にきついものがある。


 春菊が墨の扱いを間違えたわけではない。

 墨に異変が起きているのだ。

 墨自体が意志を持つようにして、勝手に動く。

 慣れている春菊でなければ、まるで怪奇現象のように見えることだろう。

 

 しかし、いつもそうなるかというと、そういうわけでもない。特殊な状況下にある時だけだ。


 そこら中を漂う邪気だ。邪気が何故か墨に影響を与えている。

 濃度の高いそれが周囲に漂う時、紙に付着した墨が不可思議な模様を描き出す。


 趣味で山水画を楽しんでいるだけならば、この状況に呆れつつも墨が落ち着くまでの間おとなしく待っていられたかもしれない。

 しかし、不幸なことに春菊は書画を売り、得た金で暮らしている。

 墨で描くものがこうまで汚れてしまうのでは画を売ることは出来ず、早晩金が尽きてしまうだろう。


 そして、こういう時に限って次々に依頼が入るのも春菊の焦りに拍車をかけている。


「どうしたらいんだよ。このままじゃ、お金が無くなって、この宿を出て行かなきゃならないじゃないかー」


 自分の生活が心配だし、それ以上に山水画を描けないこと自体が本当につまらない。

 頭を押さえてうなっていると、今最も聞きたくない声のうちの一つが聞こえてきた。


「春菊! 春菊はいるかい!?」

「い、いるよ!」


 部屋の扉口に現れたのは、この宿の女主人である毛姐姐もう ねえねえだ。

 真っ黒な髪を頑丈そうな紐で縛り上げ、ふんぞりかえる姿は実に凛々しい。


 薄茶色の髪をぼさぼさのままにし、大きさの合わない男物の道袍を適当に着た春菊と比べると、別の生き物に見える。

 そんな毛姐姐は何故か頬を染め、外の方に顎を向けている。


「あんたにあのお方が会いに来たよ」

「いつものって、もしかして楊天佑よう てんゆう!?」

「そうさ」

「あの人が来たら追い返してって、言ったのに!」


 春菊がほおを膨らませて抗議すると、毛姐姐は太ましい眉を吊り上げまくしたてた。


「楊家の人間を粗雑に扱えるわけがないだろう!! あんたなんかよりもよっぽど価値のあるお方だよ!!」

「そこまで言わなくたっていいじゃん……」

「ふん! しかししゃくだね。あんたのような幼いわらしに天佑様が毎日のようにお通いになるなんてさ。まさか幼女趣味じゃあないだろうね」


 春菊と毛姐姐が話している間に、一人の男が室内に入って来てしまった。

 扇で口元を覆っていながらも整いすぎた容姿は隠すことが出来ず、この部屋の内装からかなり浮いている。


「わわっ! 楊天佑だ!」


「菜春菊、貴女は一体どういうおつもりなんです?」


 まるで女性のように丁寧な喋り方をする。

 あまりにも麗しい見た目の所為でたまに性別を混乱したりもするけれど、間違いなく男である。

 

 手入れの行き届いた長髪は美しく縛り上げられており、形の良いあごや通った鼻筋、切長の目、どこをとっても見応え充分。しかも名家の若き当主でもあるらしく、ここ白都はくとではたいそうもてているらしい。

 それを証明するかのように、楊天佑の斜め後ろにたたずむ毛姐姐は天佑の後頭部を食い入るように凝視している。


 そんな彼女の恋心に気づくでもなく、天佑は優雅な手つきで扇をたたみ、その先を春菊に向ける。


「その慌てよう。さてはまだあれを描き終えてはいないようですね」

「あー、ごめんよ。今ちょっとさー……」

「私の依頼品を優先するようにと、多めに前金を渡したはずですよ?」

「そうなんだけど、えへへ……。急に、不器用になりすぎてうまく筆が握れくて、画が? みたいになるんだよねー」


 なんと言って誤魔化せばいいのか分からず、春菊は変な笑みを顔にはりつける。


「画家でありながらまともに筆を握れぬとは、困ったことではありませんか。……おや? その裏返しになっている紙に何か描かれていいますか?」

「い、いや。これは違うんだよ!」

「見せてみなさい」

「駄目駄目駄目!!」


 今天佑の要求に応じるわけにはいかない。

 この画は彼の依頼で着手したものに間違いはないが、墨が暴走するとかいう珍妙な状況を知られでもしたら、あらかじめ受け取った代金の返金を求められるかもしれない。

 春菊は自分の体を紙の上に倒し、天佑の目から隠してしまう。


「なんて小賢こざかしい真似を! そこの太ましい女、春菊を紙の上から退かしなさい!」

「ええ、もちろん。喜んで!」


 二人からの引っ張られたり押されたりと、手荒い扱いに耐えていると、宿の表側から何かが激しく割れる音と、野太い怒鳴り声が聞こえてきた。


「ったく、またあんたに客が来たみたいだね!」


 毛姐姐はいまいましげに春菊を一瞥いちべつし、外へと出ていく。

 その一連の言動により、春菊も誰が訪れたのか察しがついた。


「もしかして、蘇華文そ かぶんが来たのかな? いつでも酔っ払ってるから嫌になるよ」


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