序章②

 外から男の怒鳴り声が聞こえる。

 宿の主人である毛姐姐もうねえねえは荒々しい声に一つ舌打ちし、部屋の外へと出て行く。

 春菊もそれに続こうとしたが、楊天佑よう てんゆうに阻まれる。


「お待ちなさい! 貴女は者を相手するよりも私のために山水画を仕上げることを優先すべきです」

「君はそうしてほしいんだろうけど、僕は今満足行くような描けなくなっているって言ったじゃないか」

「貴女の腕であれば多少下手になったとて、夜がけるまでの間にそれなりの画を一枚、二枚仕上げるくらいは出来るでしょう?」

「……うううっ」


 なんてしつこい男だろうか。思わずうめき声をあげる。 

 邪気の所為で簡単な画ですらまともに描き上がらない状態なのに、無茶を言われても困る。

 もし無理矢理画を仕上げたとしても、邪気の影響を受けた画を他人が所持したら、何らかのわざわいが所持者に降りかかるかもしれないのだ。

 そんな危険極まりない物を天佑に渡すわけにはいかない。


 春菊が説明しようかどうか悩んでいるうちに、部屋の戸が派手に倒れた。

 ぎょっとしてそちらを向くと、毛姐姐が戸の上に倒れていた。


「わっ、毛姐姐大丈夫?」

「つぅ……。やってくれるじゃないか」

「婆は引っ込んでな」

「私はまだ二十七歳だよ! あんたと大して変わらないだろう!」

「んなこたぁ、どうだっていい! おい、菜春菊!!」

「あー、你好ニーハオ


 春菊の部屋に入って来たのは、予想通り蘇華文そ かぶんだった。

 赤ら顔で白髪混じりの乱れた髪。しかも酷く姿勢が悪い。

 容姿だけで判断するなら、ただのならず者である。


 しかしこう見えてこの男、以前は圭国の政治の中心である静水城にて画院画家をしていた経歴を持つ。

 画院画家がどれだけ凄いかというと、画家として一国の文化を背負っていくような、画家としての最上位の存在なのだ。

 自分一人の満足、顧客一人の満足の為だけに描くような、市井の画家とは全く違う。


 蘇華文がそこで雇われていたのが事実なら、素晴らしい作画技術の持ち主で間違いはない。

 

 立派な経歴を持っているのなら、画院画家ではなくなった後も堂々と画家としての活動を続けていればいいのに、華文は何故か春菊に因縁いんねんをつけてくる。

 『お前の所為で俺に仕事が回ってこない』だの、『子供なんかに真の芸術など理解出来ているはずがない』だの、勝手な決めつけをするので相手をするのがわずらわしい。


 だけども、今日は蘇華文が来てくれて正直助かった。

 下品を嫌う天佑は野蛮な振る舞いの蘇華文を嫌い、さっさと立ち去ってくれるかもしれない。

 春菊は毛姐姐を助け起こしながら、華文に話しかける。


「ごほんごほん。やぁ華文。本日は快晴であるな! さぞかし貴殿の筆も捗っていることだろう」

「うるせぇ。……お前、また俺の仕事を横取りしやがっただろう!」

「仕事の横取りだって? ごめんよ君が何言っているのか分からないや」

「いいか、よく聞けよ! 今月に入ってからもう三度も依頼主からの裏切りにあった! 俺の依頼人がお前に鞍替くらがえしてるんだぞ! これで腹を立てるなという方が無理があるだろう!」

「そんな! 言いがかりだよ。だって…………。そういえば昨日山水画を一枚頼みに来た人がいたなぁ。華文の名前を出しながら、やっぱり僕の方に頼みたいと言っていたような、言っていなかったような」

「お前……、意図的に俺から依頼人を奪ってるだろう!」

「同業者から依頼人を奪うわけないよ!」


 というか、今は依頼を貰っても全然嬉しくない。

 画がまともに仕上がらないという、画家にとって深刻な悩みを抱えているっていうのに、依頼の数だけ増えたって焦るだけだ。


 だけど蘇華文がこれほどまで、画の依頼を欲しているのなら、春菊にも考えがある。

 彼の前歴は画院画家なのだ。

 であれば、大体の人間が満足するような画は間違いなく描けるはず。


「じゃあさ、僕のところに来ている依頼のうち一件を君に任せるよ。これならいいでしょ?」

「俺を馬鹿にするな!」


 どうやら春菊の提案は華文の癇に障かんにさわってしまったらしい。

 赤ら顔をさらに染め上げ、こちらに向かって突進してくる。

 彼が暴力を振るおうとしているのだと察した春菊は悲鳴を上げて逃げようとする。

 しかし、じょろりと長い衣の裾に足を取られ、みっともなく床に転がる。

 数発殴られることを覚悟する春菊ではあったが、目の前に突如として桃の花が広がり、瞬きをする。


 よく見るとそれは扇子に描かれた画だった。

 それが小気味良い音を立てて閉じられ、春菊はようやく天佑に庇われたのに気がついた。


「なんてお下品な……。私の前でいさかいごとは控えていただけませんか。とても不快です」


「え、おま……。いえ、貴方様はまさか! 天佑様でございますか?」

「……おや? 貴方の顔を静水城の画院内で見た覚えがありますね」

「まさか、覚えてくださっていたとは!! その通りでございます、私は以前画院で働かせていただいておりました! 私にとっての最高傑作をいつか貴方様に献上できればと日夜にちや夢見ておったのです!」


 春菊は自分の目を疑う。

 あれくれ者にしか見えない男が、床に膝をつき、組んだ両腕の間に頭を伏せている。天佑に対して敬意を払うため、礼の姿勢をとっているのだ。

 彼にとっての天佑とは、そこまで敬意を示したくなるような存在なのだろうか?


「ふむ。なかなか結構な夢ではありませんか。そうですね……貴方が今腰に下げている箱……、画が入っているのでしょう? おそらく自分自身で描いたものと推測する」

「ええ、ええ。その通りでございます!」

「では、それを見せていただくとしましょう。画院に採用された程の腕なのですから、何かしら私の心の琴線に触れるかもしれません」

「もちろん気に入っていただけるはずです! 天佑様に喜んで献上いたします!」

 

 華文の顔は未だかつて見たこともないほどに輝き、木箱の中から掛け軸を取り出す手つきも極めて丁寧だ。

 広げられた画を一目見て、春菊は思わず「おお……」と声を上げる。

 素直に良い出来栄えだと思えたのだ。


 画に描かれていたのは、墨一色で描かれた三本の竹だった。

 竹表面の筆致ひっちは荒々しくかすれ、その勢いの良さに竹の成長の速さを思わす。

 葉の鋭さからは竹の若々しさが、そして墨の濃淡の違いからは夏の日差しの強さが、ありありと目に浮かぶ。

 この男の画を見るのは初めてなのだが、その辺にいる画家ではけっして太刀打ち出来ないような魅力があった。


 しかし、この竹の画を献上された天佑は扇子で自らの口元を隠し、白けたようなため息をついた。

 天佑は掛け軸を丸めぬままに華文に投げ返した。

 硬い紙が床に落ちる虚しい音が部屋に響き、春菊はその紙を見た後に天佑の顔の顔を見上げる。美しすぎるその顔が、今はとても恐ろしい。


「あ……ああ。俺の、最高傑作が……」

「”俗”っぽいのですよ」

「俗……ですと?」

「貴方の竹の画は万人受けするでしょう。ですが、こんな画は見飽きているんです」

「そんな……、俺は、俺はただ……、どこに飾られても映える。そのような画を描いただけでございまして!」

「このような画は、成り上がりの商人等が買い漁る量産品にすぎません。菜春菊の方が上流階級受けすると思いますよ」


「えええぇ!?」


 優秀な画家の画をこき下ろした直後に褒められても迷惑だ。

 春菊は華文の憎しみのこもった眼差しから慌てて目を逸らした。


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