四章②
画院入り口に、上等な布質の深衣を着た人物が立っていた。
良く見ればそれは圭国皇帝、朱憂炎であった。
そういえばと思い出す。
彼もまた芸術分野への関心が高いようで、時折画院に訪れると説明を受けていたのだった。
しかしながら、春菊が画院に務めるようになってから彼が訪れるのは初めてだったはず。呆気に取られるなと言う方が無理がある。
雑然とした画院内に彼の姿があるのは違和感が凄い。
春菊は口を開けっぱなしのまま、のろっと片手を上げる。
声を出すより早く、入口近くの卓を使用していた画家が大きな声で「憂炎様
がいらっしゃっておられる!」と叫ぶ。
一瞬だけしん……と静まり返った後、がたがたと家具を乱雑に扱う音があちらこちらから鳴り響く。
十数人もの画家達が椅子や
これは確か、叩頭と呼ばれる姿勢だっただろうか?
側に居た雨桐も同様の姿勢をとり、三度も床に額を擦り付ける。
春菊はそれを見て、ようやく自分も同じ姿勢をとる必要があるのだと気がつき、野生の蛙のようにびたんと床に座る。だが、実行は出来なかった。
ずかずかと室内に踏み入って来た憂炎に首の辺りの布を掴まれ、そのまま椅子に戻されたからだ。
久しぶりに見る憂炎は先日より幾分か体調がましなようだ。
健康な人間と比べるとまだ顔色が優れないものの、死の気配はもうない。
長い前髪からのぞく目は鋭く、酷く機嫌が悪そうに見える。
しかし、春菊は一度長々と話をした経験から、彼のこの表情が不機嫌なわけではないと知っている。
「菜春菊、おとなしく作業を続けていろ。お前の画を見に来たんだ」
「君に礼の姿勢をとらないといけないかなーと、思ったから床に座ったんだよ」
「今のが礼? こんなところで鶏の真似でも始めるのかと阻止したが、あれで礼のつもりだったとはな」
「鶏?」
「得意だと聞いたが?」
「得意だとは思う! けどさー、何で君が知っているの?」
春菊と憂炎が離している間に、雨桐がさりげなく距離を取り、そそくさと入口から出て行く。
憂炎はそれをちらりと見遣ってから、春菊の卓の前の席にどかりと腰掛ける。
「……感じの悪い奴だ」
「え、雨桐が?」
「……」
「用事があるんだと思うよ?」
「そうか」
確かに逃げたようにも見えたけれど、彼女は皇太后付きの女官なので、他に何か仕事があるだけだろう。だけども、雨桐について殆ど知らないのでこれ以上雨桐の印象が良くなる言葉も湧いてこない。憂炎はそのまま何も話さなくなり、春菊も黙って画の練習の続きをすることにする。
他の画家達も自分達の作業を再開し、さっきよりも控えめな物音ながらも日常に戻っていく。
そうして一刻ほどの時が流れ、春菊が二枚目の旧市街の画を描き終わると、憂炎が先ほどの続きらしき話を口にした。
「––––天佑が朝、昨夜のお前の蛮行とあいつの元婚約者について話していた。大笑いしながらな」
「天佑はあんまり笑わない人だよ。大笑いするところなんて、想像も難しいや」
「あれほど直情的な男はなかなか居ない」
「憂炎の前ではそうなんだ? この国の皇帝の前では一番上品に振る舞わなきゃならないと思ってたなー」
「俺とあいつは対等だ。変に作った態度など無用」
口元だけで微笑む姿から、彼等が長年かけて積み上げたであろう信頼関係がうかがえる。春菊は家族関係が崩壊状態どころか消失状態なので、少しだけ羨ましく感じられる。
白都に来てから、濃い人間関係を作ろうと努力したことはある。
似たような身の上の羅雹華となら、家族や友達になれるかと思ったのだ。しかし、その彼女からも改めて拒絶されてしまった。色々思い出すと胸のあたりがちくちくとしてくる。
何でこんなに人間関係は壊れやすいんだろう。自分では考えがまとまらないから、誰かに教えてほしいくらいだ。
こんな微妙な質問は誰にも言えないでいるけれども……。
人と話しながら自分の心の痛みにゆっくり目を向けることは
「ところでお前、変な依頼を受けたそうだな? 風伯と雨師……だったか」
「う、うんっ」
「何だ?」
「別に何でもないよ! それより、憂炎は風伯と雨師に会ったことある? この国で一番偉いなら、他の人とは違う経験をしていそう」
「あるぞ。あたり前だろ」
「ええええ!?」
駄目元で聞いただけなのに、想定外の返事をもらってしまった。
春菊は俄然興味が湧いてきて、彼の方に身を乗り出す。
「どんな姿をしているの? やっぱりおじさん? お爺さん?」
「俺は言葉で表現するのは苦手なんだ。お前の筆を貸してみろ。今から紙に描いてやる」
「わーい! 楽しみだなぁ」
春菊は憂炎が画を描きやすいように、自分の椅子を彼に譲る。
改めて室内を見回して見れば、他の画家達は卓や梯子にいそいそと登って、憂炎が今から描こうとしている画を見ようとしている。
近づく勇気はないものの、好奇心には勝てないのかもしれない。
憂炎は画家達の奇行には慣れているのか、どこ吹く風といった体で筆を握る。
見つめているのは春菊が二回目に描いた旧市街の落書き。
それをどうするつもりかと、黙ったまま見守っていると、紙の空白––––ちょうど紙の上方あたりに筆を走らせる。
深衣から露出する腕は痛々しいあざや鱗に覆われているが、筋肉などには問題がないようで、するすると迷い無く動く。
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