三章⑧

 春菊は旧市街でばったり知人と遭遇した。

 蠱術師、羅雹華ら ひょうかといい、春菊が白都に来たばかりだった頃、頻繁に世話を焼いてくれた、いわば恩人だ。

 その彼女と共に居るのは上流階級と思わしき女性二人。

 二人のうち若い方は、まるで春菊を知っているかのような口振りで話しかけてくる。

 自分は会ったことが無いけれど、楊家の屋敷周辺で目撃されたことでもあるのだろうか。でも、見たことがある程度では自分が楊家で家庭教師的なことをしているとは分からないはずだ。何故彼女は春菊のことを詳しく知っているのか。


 記憶を辿るために、改めて彼女の容貌を観察してみる。

 歳の頃は二十代前後。綺麗に結い上げられた髪は一切乱れがなく、身にまとう襦裙もちゃんと手入れされているのか目立った皺は無い。

 全てが整っているのに、顔だけが異様だ。

 顔立ちは整ってはいる。しかし眼球はぬらぬらと輝き、ひたりと春菊を見つめる。

 彼女の眼力の強さだけで、その場に縫い止められてしまいそうだ。


 この人は何故初めて会うはずの春菊に強い感情を向けてくるのだろうか?

 こんなふうに見つめられたら、過去にこの人に対して許されざる悪さでもしたんじゃ無いかと錯覚してしまう。


 春菊は黙っているわけにもいかず、彼女との会話を試みる。


「ええと、君は誰なのかな? 僕を知っているようだけど」

「…………貴女が楊家で暮らすようになってから、天佑様はだんだんおかしくなった」

「おーい。僕の質問、聞こえた?」

「以前はあれだけ優美な立ち居振る舞い、品のある言葉遣いをされていたのに、庶民の暮らしぶりに関心を寄せ、庶民しか食さないような駄菓子を購入された。信じられない。士大夫として、上級官吏として、そして結婚相手として全てが完璧だったのに……、きっと貴女の所為でおかしくなった。絶対に貴女の所為だ。山里に暮らす狸みたいに愛らしい見た目で、騙しているのね。あの方の人となりを崩したのは貴女に違いないんだわ」

「えーと、君は天佑の知り合いの人だったんだね!」

「っ!! 天佑様を気安く呼び捨てにするな!」

「え、でも。本人には許されてるよ?」

「貴女の所為だって言っているの。私があんな小汚い男と結婚するはめになるなんて。本当だったら天佑様と幸せに暮らせたはずだったのに」


 いきなり金切り声を上げだしたので、春菊は一歩後ずさる。

 精神状態が普通ではないように思われるが、こんなところをふらついていても大丈夫なんだろうか? 何か悪いものに引っ張られてしまいそうに危うい。

 どうしたらいいのかと途方に暮れていると、少し離れたところに立っていた老女が若い女性に話しかけた。


「巧玲お嬢様、もうその辺で……。そろそろ夕刻となりますゆえ、帰宅いたしましょう。貴女様も知ってのとおり、旧市街で夜を迎えますと、大事なお体に病魔が入り込みます」


 巧玲と呼ばれた女性は老婆の言葉はちゃんと耳に入るようで、こくりと頷く。

 

「こんな薄気味が悪い場所はすぐに出ていくわよ。貴女、ただで済むと思わないでちょうだい」

「分かった。またね」


 春菊は戸惑いつつも小さく手を振る。

 すると、その態度が気に入らなかったのか、若い女性はつかつかと寄って来たかと思うと、包袱風呂敷をぶん回して春菊を打った。

 痛くはないが、女性の気性の荒さには驚くばかりだ。


「私は左丞相の娘なの、貴女に舐めた口をきかれるような立場なんかじゃない!」


 捨て台詞のような言葉を喚き散らし、巧玲は足速にその場を立ち去って行った。老女の方は春菊に「空き家に忍び込むのは感心しない」などと釘を刺してから、彼女の後を追って行く。


 春菊は嵐のような二人を呆然と見送る。

 あの人たちは何だったんだろうか? 老婆が口にした巧玲という名前は、昨日天佑から聞いたばかりだ。

 ということは、巧玲は天佑の元婚約者ということになるが……、ただの同居人である春菊にいちゃもんをつけるのはかなりずれている気がする。

 

「大丈夫?」


 あほ面で突っ立ったままの春菊に、雹華が声をかけてくる。

 怪我の心配をしてくれるくらいには、春菊に対する憎しみが和らいでいるんだろうか。


「全然痛くはなかったよ。ただびっくりしただけ」

「あの人はあたしの蠱でお前と新たな婚約者を殺してほしいと依頼しに来たの」

「ええええええ!? 僕は巧玲とは初対面なんだよ! それなのに、そんなに恨まれてるの!?」

「男絡みの女の嫉妬って怖いから、仕方がないんじゃない? 出来るだけ浅い傷で乗り切るしかないわ」

「ん? 君も知っての通り、僕に蠱はきかないよ」

「ええ。このあたしがあれだけやっても殺せなかったくらいだもの。どれだけ努力しても無理でしょうね」

「じゃあなんで引き受けたの?」

「殺しまでは引き受けていないわ。というか、あたしはお前を殺せないし、もう一方は危険すぎるる相手だから、ちょっかいをかけたくない。だけど、私にも上流階級との付き合いを大切にしなければならないから、蠱術を使ってみせてあげるだけよ」

「変なの」

「変で結構。っていうか、お前、ちゃんとあたしが面倒みてあげていたこと覚えてるわよね?」

「もちろん覚えているよ!」

「家に泊めて、飯まで食わせてあげたんだから、今恩返ししてくれない?」


 雹華はたちの悪い笑みを浮かべている。

 こういう表情をするとき、彼女は決まって春菊を困らせるようなことを言い出すのだ。


「春菊、あたしが丹精込めて育て上げた鶏を受け取ってくれるわよね?」


 雹華はそう言うと、嫣然えんぜんと微笑むのだった。


 


 


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