二章③

 憂炎は春菊と話した後、従者等によって彼の寝所に運ばれることとなった。

 どうしたものかと右往左往する春菊だったが、憂炎の従者から『憂炎様の命令を聞いただろう。御水園へ行け』と言われ、素直に殿舎の出口へと向かう。


 しかし、出口付近で女官達が大騒ぎしていたため、二の足を踏む。

 このような時は様子を伺った方が良いのだと、天佑の屋敷で嫌というほど学んだ。


 通路を曲がる前に出口の方を覗いてみると、頭に思い浮かべたばかりの天佑その人がそこにいた。


「天佑様! お戻り下さったのですね!」

「憂炎様は先ほど、どうしても外に出ると、宦官達の静止を押し切るなどをなさったのですよ」

「もう戻られましたから、ご安心を!」


 女達よりも頭一つ以上背丈の高い天佑とその従者が、それぞれ蒸篭せいろや茶器の乗っかった盆を携え、入り口付近で足を止めている。

 天佑は普段筆や扇子よりも重い物など持たないと豪語しているくせに、清水城内で蒸篭を運ぶのは問題ないらしい。


「……全く貴女達ときたら……。訪問するたびに取り囲まれるのでは、行動し辛くてかないません。憂炎は今、寝所にいらっしゃるのですか?」

「憂炎様は先ほど運び込まれまして……、今はどこにいらっしゃるのかしら?」

「さぁ……?」


 女官達の受け答えは主君に対するものとは思えぬほどぞんざいだ。

 春菊は彼女達に代わって憂炎の現状を伝えるため、仕方がなく彼等の方に近づく。


「憂炎なら寝所に運ばれたよ!」

「菜春菊!?」


 天佑は春菊が殿舎に居るのがよほど意外なのか、目を見開いている。


「何故あなたがここに居るのです? もしや忍び込んで……?」

「嫌だなぁ。僕みたいにのんびり暮らしてる画家が、こんなに大勢の人が居る建物に忍び込めるわけないじゃん」

「では何故?」

「すぐそこで憂炎と出会ったんだ。体調が悪そうにしててさ、手を貸した方がいいのかなーって思った。そしたら、あの人、僕が画院に雇われたのを天佑に聞いていたみたいで、招き入れてもらったの」

「そういえば、確かに先ほど憂炎に貴女のことをお話しましたね……」

「憂炎から例のやばいやつの発生源を教えてもらったよ。僕がそれを画で封じれたなら、憂炎の体調は良くなると思うんだ」

「……不明点は多々ありますが、憂炎が良くなるのでしたら、彼の従兄として大変助かります。でも貴女、紙や筆などはお持ちではないようですね?」

「あ! そうだった……」

「ふぅ……。貴女という人はうっかり者ですね。……女官達、この画家に文房四宝を渡してください」


 天佑は女官達に向かって、春菊が画を描くのに必要な道具の用意を命ずる。

 一瞬動揺する様子を見せた女官達だったが、天佑に頼られるのが嬉しいのか、競うようにして通路を駆けて行く。


 それにしても、彼女達は憂炎にはとても冷ややかに見えたのに、天佑には協力的だ。皇帝とその従兄弟なら、丁重に扱うべきは憂炎の方ではないかと思うけれど、新参者の春菊にはその辺の事情が良く分からない。


(皇太后も天佑の話ばかりして、自分の実の息子である憂炎については一切話さなかったなよなぁ。単純に僕が着てた深衣が、天佑のお下がりだったからって理由だけなのかもしれないけど、ちょっと気になるなー。普通の母親ってそういう感じなのかな?)


 柱の鮮やかな模様を見ながら考え事をしていると、視界の端に蒸篭がにゅっと出て来た。


「わっ!? 蒸篭が……」

「女官達が筆や紙を持って来るまでの間に、私は憂炎の様子を見てきます。貴女はこれでも食べていなさい」

「へ?」


 天佑からの差し入れは嬉しいものだが、これは春菊の為に持ってきたのではないだろう。

 戸惑いながら天佑の顔を見上げる。


「憂炎の為に用意させたのです。体調が悪くても飲茶やむちゃくらいは平気だろうと、思いましたので。でも憂炎の体調が思わしくなく、従者によって寝所に運ばれたのでしたら、持って行っても無駄になるだけでしょう」

「本当に食べちゃっていいの?」

「昼から何も食べていないのでしょう? 」

「ありがとう! ちょうどお腹が空いてたんだ!」

「私の屋敷に戻る頃には日付が変わっているでしょうしね」

「うんうん。これ食べたらすぐに池に調査しに行くよ!」

「……私も一緒に行きます。貴女がどのように邪気を封じるのか、とても興味がありますから」

「分かった。君の用事が終わったら一緒に行こう!」

「ええ」


 天佑は従者が持つ茶器などを近くの机に置き、静々と通路の先へと進んで行った。


(えーと、あのお茶も飲んでいいってことなのかな? 天佑って、上流階級の人なのに、妙に優しいなぁ)


 壁に寄りかかって、蒸篭の中に入った点心を頬張る。

 しっとりとした皮はほんのりと甘く、中に入った海老のあんは旨味が感じられる。具材に多少歯応えが残っているのも素晴らしい。

 生ぬるい温度でももの凄く美味しく感じられ、春菊は次から次へと口の中に放り込む。

 入り口付近に居る女官や中性的な男性達から呆れたように見られるけれど、この件が終わればもう会うこともないだろうから、どうとでも思えばいい。


 天佑が戻るまでの間に女官から紙・筆・硯・墨を持って来てもらい、準備万端で殿舎の外へと出る。


 時刻は既に深夜帯に差し掛かっているだろうか?

 月は雲に隠れ、吊灯籠の灯りがあってもなお、足元すら確認しづらいほどに闇が濃い。

 


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