二章②

 殿舎の一室に、猿の画が飾られてある。

 前足と後ろ足が一本ずつ欠損しているようだが、これは何を意味しているのだろうか。

 特殊な猿であるのには間違いないものの、今にも紙から外に飛び出しそうな躍動感や獰猛どうもうな表情、そして本物の猿を彷彿ほうふつとさせる毛並み。

 描く画家が違えば下品にもなりそうな画題だというのに、皇帝の住まう殿舎にあって少しも違和感がない。

 間違いなく傑作と言っていい作品だ。


 春菊は多くの父親の画を見たが、この猿の画は飛び抜けた出来栄えに思える。

 きっと父は皇帝に献上する画を描くため、相当気合を入れたに違いない。


「すごいなぁ……」


 春菊が父の画に見入っている間に、憂炎は付き人らしき男達に支えられ、最奥の豪奢ごうしゃな椅子に崩れるようにして腰を下ろす。


「菜……青梗ちんげん。あいつの所為だ……。良い画を描くものだと気を許したばかりに、……何度も何度もこんな苦しむはめに……くそっ、つくづく面倒臭い爺だ」

「へ?」


 うめくようにして呟かれたのは随分と不穏な父への恨み言だ。

 何がそんなに気に入らないのだろうか。

 春菊は憂炎にのろのろと近づき、彼の苦し気な顔をのぞき込む。

 すると、憂炎は野生動物じみた動きで逆側を向く。


「……役割は果たすつもりだ……。早々に死ななければな」


 何を言っているのかさっぱり分からない。

 父である菜青梗に対して呪詛じゅそのような言葉を吐いているところから、あまり関係はよくなかったと想像出来る。


 それにしても、近くで見る彼の首から下は酷いものだった。

 朱色の深衣の合わせ目から露出した肌には赤や青紫色に爛れた痕ただれたあとがあり、若干のように見える箇所もある。


(肌が凄いことになってる! 腹の調子が悪いって聞いたけど、肌にも影響が出ているのかな? それとも他の原因でこうなっている?)


 次から次へと疑問が湧いてくるけれど、憂炎は相当体調が悪そうだから、心の内に踏み込むような質問は出来ない。

 それに、ついさっき春菊自身が皇太后付きの女官を傷つけてしまったのもあり、人に優しくしたい気分だ。


 憂炎は円卓にあごを乗せ、目を閉じている。

 そうしていると楽なのかもしれないが、何となく犬っぽくも見え、一国の皇帝としての威厳はあまり感じられない。


「……侍医を……、呼んで来てくれ」

「わ、分かった! この建物は初めて入るから、侍医がどこに居るか全然分からないけれど、いろんな人に聞いたら分かるよね!」

「いや……、お前に……頼むわけないだろ」

「あれ? そうなんだ」


 春菊ではなく、憂炎に付き添っている男達に命じているようだ。

 二名いるうちの顔が整っている方が、春菊を一瞥いちべつした後にうやうやしく拱手し退室する。

 彼が侍医を呼ぶ役割を、そして残った方が護衛的な役割を、それぞれ担うのだろう。

 

––––それにしても……。


「ねぇ、憂炎はさっき僕に話があると言っていたね。それって体調が悪くても伝えた方がいいことなのかな?」


 憂炎が画院で聞いた通りの容体なのだとしたら、いつ気を失ってもおかしくはない。

 意思疎通出来る間に話したいことがあるのなら、話しておいてもらいたい。


 憂炎は薄らと目を開き、こちらを向く。

 燭台の明かりのお陰で彼の瞳がよく見える。琥珀色とも金色ともつかぬ美しい色合いをしている。

 おそらく燭台の光の所為ばかりではなく、元々の色合いが特殊だからなんだろう。

 この色を使って花鳥図を描けたなら、きっと他人に売るのも勿体無いくらいの宝物になるに違いない。

 そろりと彼の目に手を伸ばしかけるが、室内に居る憂炎の護衛に咳払いされ、サッと後ろに引っ込める。

 まずいまずい。疑わしいことをしてしまった。


(それにしても綺麗な瞳だなぁ。時間が出来たら、似た色の絵具を作れるような顔料を探してみたいなぁ)


 自分の創作のことでいっぱいになった思考は、憂炎の声で現実に引き戻された。


「––––お前は……、仙術で邪気をどうにか出来るらしいな? 本当なのか?」

「うん。仙術なのかどうかは分からないけれど、邪気の発生源さえ解ったなら、封じれるかなって思うよ。そもそも、静水城に画家として働きに来たのは、都に邪気が漏れすぎてたから、どうにかしたいって思ったからなんだ! 邪気が多すぎると画を描く環境として最低最悪になるからね」

「まずいな……、市中にも……漏れ出してるのか」

「かなりの量が漏れてるかもね。あのさ、憂炎。提案があるんだ」

「何だ?」

「僕は父上に比べたら半人前の画家だけど、邪気の扱いには結構自信があるんだ。君が邪気の発生源を知っているなら、対応出来るかも」


 自分の胸を叩いて春菊が主張すると、少しばかり憂炎の表情が緩んだ。


「後宮の御水園……、そこに行ってみてくれ」

「御水園って、後宮の中央にある庭だよね?」

「あぁ、そこから邪気が……発生している。そこに踏み入った者は全員が……、俺と同じ症状になっている。その中には死んだ奴も……」

「行ってみるね」

「一人で平気……か?」

「僕って邪気に強いんだよ。女なのに”陽”の気を持ってるみたいだから、悪きものに侵食されずに済むみたい」

「そうか……」

「じゃあ僕、御水園に行ってくるね」

「ああ」


 会話をしている間に、付き人の一人が侍医を見つけてきた。

 憂炎は付き人等に付き添われ、入って来た時とは別の扉へと向かって行った。

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