五章⑨

 羅家の屋敷に辿り着いた春菊は額の汗を拭う。

 最近は広い静水城内の移動でだいぶ体力がついてきていると思っていたけれど、早歩きするとしんどくなる。


 少し気持ちが落ち着いたからか、嫌なことを一つ思い出した。

 この家には今、蘇華文が居るんだった。

 彼は雹華によって解蠱された後、廃人のように大人しくなったらしいけれど、本当だろうか?


 春菊と会ったなら、また前までのように喧嘩腰で接してくるんじゃないだろうか?

 それを思うと少し憂鬱になる……。


「今はそんなこと気にしている場合でもないかぁ」


 たとえ言い争いになったとしても、郭家の現状を考えたならここでもたもたしているわけにもいかない。

 意を決して羅家の屋敷に踏み入る。

 それなりに広い敷地の中、住居として使用している建物の戸口を開くと、ふわりと美味しそうな香りが漂う。


晩上好こんばんはー!! 雹華いるー?」


 軽い口調で挨拶すれば、奥の方からのそのそとした足音が聞こえてきた。

 この足音は雹華のものではないなと警戒していると、案の定姿を現したのは華文の方だった。

 春菊はついつい「うげっ」と言ってしまった。


 しかしながら、華文には以前のような攻撃的な雰囲気はない。

 春菊の顔を見てもぼんやりとした表情のままで、「お前か。晩上好」と口にする。

 この男からまともな挨拶を返されたのが初めてなので、春菊は本当に本人なのかと疑う。

 というか、もう廃人のようでもない。

 心の衰弱が回復してきたのだろうか?


羅小姐羅さんに用が会って来たのか?」

「あ、うん」


 戸惑いつつ頷くと、華文は建物の奥を指差す。


「あの人なら、自分の部屋で書き物をしているぞ。暫くは出てこないだろうから、お前が部屋に行けばいい」

「ええっ!? い、行くけども」


 この家について勝手知ったるような口ぶりにも、もやっとする。

 しかし、ここで長々と待たされずに済んだのは有り難くはある。


 春菊はもう華文については考えないようにして、早足で暗い通路を進んでいく。


 雹華の私室の前で、彼女に声をかけてから入室すると、春菊が通路を歩く足音が聞こえたのか、可愛らしい顔がこちらを向いていた。

 不機嫌な感情を隠そうともしないあたり、いつも通りの彼女だ。


「こんな刻限にうちに来るだなんて、珍しいじゃない」

「大変なことが起こっちゃったんだ」


 羅家の屋敷は全体的に質素な家具が使用されているが、この部屋だけは年季の入った螺鈿細工らでんざいく、模様の美しい絹、天鵞絨てんがじゅうなどでまとめられているから、かなり豪華な内装となっている。

 しかしながら、天井やら床にはいくつもの籠が置いてあり、その一つ一つに正体不明な生き物が詰め込まれている。

 以前彼女に聞いた話では、彼等は実験動物らしいが、体調管理は良いようで、元気良く飛び跳ねたりなどしている。


「緊急を要するの?」

「うん……」


 動物達の不気味な鳴き声に負けないように、春菊は大きめな声でさっきの珍事について話す。


 春菊が説明を終えると、雹華はわざとらしいため息をつく。


「またなの? お前の画ってどうしようもなくが悪いわね」

「老鄧は僕の画が破れた時に起こる現象のことを、”蠱返し”と呼んでいた。蠱術の中にそんなのがあるってこと?」

「そうね…………。私を育ててくれた人から名称だけは聞いたことはあるわ。ただ、お前の場合は気の種類が”陽”なのよね。だから、画が破れた時に起きているのは、蠱術の括りにはならないように思う」

「じゃあ、何が起きているの?」

「ただの個人的な考察になるけれど、蠱がお前の画の中に一時的に閉じ込められるんだと思う。だから、画に損傷が加えられたなら、画の拘束能力が失われ、蠱が解き放たれてしまうんだわ」

「そうなのか。うぅ……む」


 雹華は頬杖を付きながら考察した後、かったるそうに立ち上がった。


「さて、郭家に行くわよ」

「解蠱してくれるってこと?」

「ええ。あの家には散々無茶なことを頼まれ、困らされたりもしたけれど、羅家が苦しい時に支援してくれたりもしたって聞いたわ。羅家が郭家から受けた恩をまとめて返し、施術代金の代わりとして縁を切ってしまうとしましょう」

「うんっ! それがいいよ。今から行こう」

「それにしても、郭家も嫌な役割を押し付けられたものね。あの人たちは特別な力がない代わりに蠱術師なんていう怪し気な者達と関わっていたから、上の連中に付け込まれてしまったのかしら」

「上の連中?」

「こっちの話。ねぇ、お前。りょう家とは浅い付き合いにとどめておくのをおすすめするわ。お前だって、魑魅魍魎ちみもうりょう蔓延はびこる政界の連中や、煩わしい老害どもになんて関わりたくはないでしょう?」

「それはそうだよ。そんなのに関わるくらいなら、もっと作画に時間を使ったほうがずっといいと思う!」


 はっきりと告げると、雹華は少し安心したように微笑む。

 彼女の話す内容から考察すると、先日の後宮の事件については、皇帝家の誰かが主犯となっていそうな感じだ。だけと、深く突き止めようと手当たり次第に事情を聞き回りでもしようものなら、あっさりと画院から存在を抹消され、白都で画家を続けるのも難しくなるんだろう。

 雹華と一緒に旧市街の暗い街路を歩きながら、ぼんやりと考えを巡らす。

 道は来る時と同様に人外の気配が濃いけれど、やっぱり人間達の方がずっと怖い。


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