三章②

 春菊が楊家の屋敷に居候させてもらうようになってから一ヶ月経つ。

 その間一度も画材の買い足しに行かなかったにもかかわらず、ほぼ毎日画を描き続けていたため、ついに手持ちの紙が無くなってしまった。

 

 ちなみに紙は画家をやっていく上で無くてはならないものだが、白都においてはかなりの高額で、常に悩みの種になっていたりする。

 麻や樹皮から作成された紙は驚くほどに高く、使用済みの紙を溶かし再び成形したようなものでも、気軽に買える値段ではない。


 だから春菊の場合、画の依頼がひっきりなしにくるにも関わらず、画を売った金の大半が画材に消えてしまう……。楊家の屋敷に住むようになる前までは、紙を買うために食費を削ることだって頻繁にあった。


 そんな春菊にとって、最近の安定した収入––––楊家の家庭教師と静水城での画家としての収入––––はかなり有難いものだ。

 住居を提供されているのも大きい。

 春菊は有り金全て好きなだけ使っていいことに気がつき、もちろん遠慮なく画材に注ぎ込むことにした。


 画院での仕事が終わった後、昨日天佑てんゆうから受け取った給料を手に、大街繁華街の商店へと駆け込む。

 ここは質の良い画材を安く取り扱っている店で、店主も優しく面倒見が良い。

 崑崙山から白都に移住してきた春菊は自分の仕事に必要なものの揃え方も分かっていなかったけれど、ここの店主に色々と教えてもらったおかげで(ほとんど後継人のように面倒をみてもらった)、なんとか暮らしていけるようになった。

 だから当然のように懐いている。


 店の棚に置かれていた紙を思いつくままに購入した後、そのまま店の椅子に座って店主と話し込む。

 久しぶりに会うこともあって、話したいことが山ほどあるのだ。

 しかし、とある人物が入店したことで高揚した気分が台無しになった。


「……っ、そこのがきは、菜春菊じゃねーかよ。ちっ!」

「あ、蘇華文だ……」


 蘇華文というのは元は画院で働いていたが、今は士大夫や一般庶民向けの画を描いて生活している画家だ。

 前までは春菊と似たような立場だったため好敵手と見なされ、ことあるごとにいちゃもんをつけられていた。

 しかしながら、春菊の能力を目の当たりにしてからは、怖がられ避けられていた。だから今日もまた、顔を青くしてこの店を出ていくだろうと想像したのだが、どういうわけか出口付近でもたもたしている。

 一体この男は何をしたいのだろうか?

 そんな所にいられては春菊も店を出て行けないから、だんだん気まずくなってくる。


「あのさぁ、華文。僕は店を出て行くから、君はゆっくりここでお買い物をして行くといいよ」

「画材にしか用がねーなら、さっさと出て行って別の店に行くに決まってんだろ!」

「えーと、何が言いたいの?」

「お前の顔を見たら、お前に画の依頼をすべきなんじゃねーかと思い至った! 今はそう考えちまった自分自身への苛立ちと戦ってるんだ!」

「依頼だって!? 君が? 僕に!?」


 天地がひっくり返ってもあり得なさそうな言葉を耳にし、春菊は目を丸くする。

 しかも驚いたことに、依頼しようかどうか迷っているだけでなく、依頼しようと思った自分自身への憎しみが湧き出しているらしいので、救いようがない。


 春菊は遠い目をしながら、華文に対してごく当たり前の解答をする。


「悪いんだけど、他を当たってほしいよ。そんなに嫌々依頼してくる人のために何を描いたらいいんだよ……」

「そんな言い方ねーだろ! この俺が散々描いても駄目だった画題なんだぞ! 挑戦してみようって気はねーのか!?」

「うわぁ……」


 怖がられていても気分が悪かったけれど、肩を組んでくるような発言をされても何とも気色が悪い。いや、避けられていた方がずっとましだとすら思う。

 店主は面倒ごとに巻き込まれたくないのか、帳面を眺めるふりをし始めた。ここは春菊だけで切り抜けるしかなさそうだ。


「じゃあ、画題だけでも聞いて行こうかなぁー。描けるかどうか試してみて、無理そうなら断ることにするよ」

「そうか! まぁ、俺が必要としているよりも、親父の上司が欲しがっているんだけどな!」

「ふーん、そうなのかぁ」

「木版印刷の原画に出来るような画が必要なんだがよ、”荒れた田畑でほくそ笑む風伯と雨師”を一つの紙に描かなきゃなんねーんだ。お前にとっても難しい画題だろう!?」

「風伯と雨師を描かなきゃならないの? たしかに難しいね〜」


 風伯と雨師とはそれぞれ風の神様と雨の神様のことである。

 彼らが揃って描かれる時は、台風を連想させる画になるのだけれど、あんまり良くない種類の笑みを浮かべさせるなんて、依頼主側の悪意を感じずにはいられない。


「難しくても、お前なら何とかなるんじゃないか!? 親父の上司というのが血も涙もない上級官吏なんだ! 質の良い原画を渡せなければ、親父の首が文字通り飛ぶかもしれないんだぞ! 可哀想だと思わないか!?」

「そりゃ可哀想に決まってるよ! でもさー」


 木版印刷用の原画ということは、大量に印刷された後に、多くの人に配られたりするんじゃないだろうか?

 考えすぎかもしれないけれど、あまり良い使われ方をされないような気がする。


「お前は一度自分で描いてみると言ったんだ! 約束は守れよな!」

「そうだった。しょうがない、試しに自分で描いてみるよ」


 春菊が渋々頷いたところで、店の戸が外側から開いた。


「––––ただいま帰りました。おや? あなた達は……」

「あ! 副院長!」


 入って来たのは画院の副院長である鄭浩然てい こうぜんだった。

 『ただいま帰りました』と言っていたが、ここが彼の住まいなのだろうか?


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る