一章 楊家の屋敷

一章① 楊家の屋敷

 春菊がよう家の屋敷に居候いそうろうさせてもらってから、早くも二週間経つ。

 楊家は白都でも有名な士大夫の屋敷というだけあって、敷地面積が非常に広い。

 家屋には上質な家具や調度品、装飾品などが風水を意識して配置されており、春菊は楊家の使用人達から、警戒されているのか、汚したり位置を変えたりしてはならないときつく言われている。

 春菊のような粗雑な人間には、生活しにくいことこの上ない。

 しかし風水の効果が出ているからなのか、屋敷全体の”気”の流れは悪くなく、山水画はかなりに仕上がりになるようになった。


 この好機を逃すまいと春菊は精力的に作画に取り組み、天佑からの依頼品や他の依頼主からの依頼品を一気に書き上げ、納品してしまった。


 ここ数日は天佑に山水画を教えるなどしながら過ごしていたのだが、木版印刷物の挿絵の依頼などの大型の依頼を受けたことで、呑気のんきに暮らしてばかりもいられなくなった。

 そろそろこの不自由な状況を何とかした方がいいかもしれない。


 楊家の屋敷は”気”の流れが都の他の場所よりもましではあるけれど、安定しているわけではない。

 それに、いつかはこの屋敷を出て行かなければならない。

 白都に邪気が溢れてしまっている元凶に誰も対処してくれないのなら、自分が根本的な状況の解決を目指すべきだろう。

 春菊は仕方がなしに重い腰をあげることにした。


 しかし、大したことが出来るわけではない。

 白都のあらゆる場所に出かけ、山水画を描いてみるだけだ。


 ただそれだけの活動ではあるが、やってみると墨の濃淡で邪気の濃い方向などは判明した。

 邪気がより濃いと思わしき方向へ進みながら画を描き……など地道な作業をしていくうちに、辿り着いたのは静水城だったのだ。

 この中で何か事件が起きていたとしても、春菊には入ることすら出来ない。

 何かの間違いであってほしいと、別の場所からまた邪気を辿る。

 しかし都のどの方角から画を描いて行っても、やはり静水城に来てしまう。

 やはりここに問題があるのは間違いなさそうだ。


 静水城は圭国を統治する一族の居城にして政治、外交の中心だ。

 一般人である春菊は入るどころか、近くを彷徨うろついているだけで不審者としてひっ捕えられ、罰せられてしまう。


 春菊は楊家の屋敷に帰ってきてから、立派な中庭にある東屋あずまやによじ登り、静水城を眺める。


「どう考えても、あそこから邪気が溢れ出ているんだよなぁ。たぶん城の中ではやばい事とかが起こってると思うから、なんとかしてあげたいなー」


 静水城内にあると思われる邪気の発生源を封じられたなら、春菊の山水画は落ち着きを取り戻せるはずなのだが、静水城内に入ることがとてつもなく難易度が高い。  誰かが”気”の流れが悪化しているのに気が付き、対処してくれるのをのんびりと待つしかないのだろうか?


「静水城の風水師さんは、ちゃんと働いてるのかなー?」

「……何をごちゃごちゃと独り言を言っているのです?」


 よく通る声が小道の方から聞こえてきたので、視線を向けると、楊天佑が眉をひそめて春菊を見ていた。


 本日の天佑はものすごく美しい。神々しいほどだ。

 着ている深衣の鮮やかな瑠璃るり色が特に素晴らしく、画の配色の参考になる。


「やぁ、天佑。この東屋は登りやすくて最高だね!」

「登りやすいですって? 貴女という人は……、全く」


 天佑が少し機嫌の悪そうな表情でこちらに歩いてくるので、春菊は東屋の屋根から飛び降りて、自分からも彼に近寄って行く。


「菜春菊……、貴女の画は間違いなく素晴らしい作品です。しかし、貴女自身からは知性も品性も感じられません。立ち居振る舞い、装い、そして言葉遣い。改善した方が良いところばかりですね」

「そんなこと言われても、都に来るまでは山で自由に暮らしてきたし、あまり勉強してないから、改善の仕方が全く分からないや」

「困ったものです。静水城で飼われている猿の方がよっぽど優雅に振る舞えるでしょう」

「そうかも……。ていうか、えーと……。もしかして君は僕がこの屋敷の客人としてふさわしくないから、出て行ってほしいと言いいたいの?」

「そうではありません。貴女を師として山水画を学んでいるのに、出て行ってほしいわけがないでしょう? 私が言いたいのは、この屋敷で働く者たちが貴女に対して戸惑っているということです。私の大切な客人として、丁寧な対応をしたくとも、当の貴女ときたら、まるで辺境地に住む蛮族のようなのですから……。というか、そもそも何故男子のようなよそおいなのですか?」

「これはねぇ、何年も前に父上が僕のために用意してくれたものなんだ。これを着ていたらもしかしたらまた父に会えるかもって思ってるんだけど、全然会えないから、そろそろ考えを改めるべきなのかも」

「思い入れがあるから着続けていたわけですね」

「そうなるのかな」


 天佑は春菊が自分の道袍を掴んだり引っ張ったりするのを、静かに見つめた後、長い指でそばに生えていた桃の枝を折った。

 そしてその枝を春菊に押し付けてくる。


「天佑?」

「正直勿体無いと思いますよ。貴女は顔の造作が整っていますから、華やかな色彩の襦袍を着て薄化粧をするだけでもとても美しく見えるのではないかと思うのです」

「別に美しくなくてもいいと思うけどね」

「何故この家が庭に大金をかけているか分かりますか? 屋敷の内装に拘っているか、そして何故貴女の絵を飾るのか」

「散財が好きなんだろうね」

「体面を良く保ちたいんです。この国では科挙試験が実施されるようになってから、一般人でも官僚となれるようになりました。そのため、上流階級の者かそうでないかについては”雅”か”俗”かで分類されるのですよ」

「つまり、上流階級な天佑は”雅”だし、君に関わっている僕も、”雅”っぽくないと駄目ってこと?」

「お分かりいただけたようで、嬉しい限りです」


 あまりの面倒臭さに気が遠くなってきた。

 しかしながら、この屋敷で長期間天佑の世話になっているのも事実。

 彼を取り巻く環境のただ一点の曇りとならぬように、ふわふわな襦袍を着るくらいの努力はすべきなのかもしれない。

 春菊は仕方がなしに、頷いたのだった。


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