三章④
春菊は画材屋から帰宅した後、買って来た紙類を棚や木箱にしまい、初めての紙に試し描きをするなどして一人の時間を満喫する。
紙と筆と墨、そして自分の頭に思い浮かぶ風景。
意識するのはそれだけだ。
数刻ほどの間、集中していたのだが、にわかに屋敷の中庭が騒がしくなったことで我に返る。
いつの間にか辺りは暗くなっていて、月明かりだけが春菊の手元を照らしていた。
静かな私室の中だからこそ、外の音が妙にはっきり聞こえる。
耳に届く会話は天佑と使用人のもののようだ。
「––––天佑様!? 随分とお早いお帰りで」
「夕餉を私の私室に用意してください」
「お一人分でよろしいのですか?」
「そうですが?」
この屋敷の主人である天佑の声と、出迎える使用人達の会話だ。
彼等の声を聞きながら、春菊は首を傾げる。
(今朝静水城に出勤する前に、たしか天佑は今日の夜、婚約者と一緒に夕食をとる予定って言ってたような? 予定が変わったのかな? もう出かける予定がないなら、今からちょっと話に行ってみよう)
話したいのは先ほど蘇華文から頼まれた画についてだ。
その依頼は華文本人と同じ様に、『試してみたけれど、自分には描けなかった』と言って断ればいい。
しかし、画自体については別の画家に描かれなくなるわけではない。春菊が駄目なら、他の誰かに依頼が回されるだろう。
だから一度天佑にこの件を伝え、彼がどのように考えるかを聞いてみたくなったのだ。
春菊は私室から中庭に出て、天佑の私室がある北の建物に入る。
すると、天佑と従者はまだ通路に立ったままで、二人揃って春菊の方を向いた。
「二人ともお帰りー! 今から話せるかな?」
「……今宵は月が美しいというのに、貴女ときたらどたばたと……。
天佑は相変わらずの調子で小言を口にし、閉じた扇を自分の肩に当てる。
今日はどうやらがちがちに上流階級風の態度を決め込みたいらしい。もしくは、本日はそのように振る舞う必要があったのかもしれない。
「ごめんよ。天佑にとっては婚約者に会えた特別な日だったのにね」
「婚約者……はもう関係ありませんよ。あの方とは破談になりましたから」
「人の幸せな話っていいものだなぁ。……ん? 破談?」
「ええ。もう
「それって郭巧玲さんにとって天佑は相応しい男じゃないから、振られてしまったってこと?」
「……」
誤解があってはいけないと春菊なりの解釈を伝えてみれば、天佑の麗しい目元がひくりと動く。
「腹の立つ言い方をしますね。でもまー、そう思ってもらってもいいですよ。一方的に破談を告げられた感じでしたしね。家柄的に楊家に相応しい女性でしたけど、
だんだん彼の上品な話し方が崩れていく。
普段人目を気にする彼だから、きっと春菊が居るところでは澄ました態度を貫きたいんだろう。だけど、会話の端々に若干の感情が見え隠れしている(ような気がする)。
「ねぇ、天佑」
「なんなんですか?」
「悲しかったら思い切り泣くとすっきりするよ! 女に捨てられた男は悲しいものだって聞いたことあるから!」
天佑は手に持つ扇をぽろりと落とし、彼の従者は
「泣くわけなくないですか?」
「ん? だって、好きな人と結婚出来なくなっちゃったんだよね? それってやっぱり悲しいと思うんだよ」
「巧玲は良く出来た令嬢ではありますが、好きだと思ったことなど一切ない。むしろ、向こうの気持ちが重くてうんざりしていたくらいです」
「!!」
「正直言ってせいせいしました。今宵の月がとりわけ美しいと思うくらいにね」
「なんか崑崙山で聞いてた人間の男女の”婚約”と結構違うみたいだ」
「愛だの恋だの言っていたら、足元すくわれますから」
本音を話したことを恥じているのか、天佑は大きくため息をつく。
そのまま床に腰を下ろしてしまったところから察するに、破談に関する会話は精神的に疲れる内容だったのだろう。
「何か用があったからここに来たのでしょう? そろそろ本題を話してください」
「あ……、うん! 蘇華文を覚えている?」
「勿論覚えていますよ。もしかして、また彼に言いがかりを付けられたのですか?」
「今日は言いがかりを付けられてないよ。それどころか、僕に画を描いてほしいって依頼されちゃったんだ。彼にしては態度がいい方だとは思ったよ!」
「あの方が貴女に画を依頼したんですか? あれだけ対抗心を剥き出しにしていたのに?」
「そうそう!」
「少々怪しく思えます」
「んー、画院の副院長にも相談してみたら、蘇華文が指定した画題は、”香洛の台風被害が酷かった理由は今の政治が良くない所為”って意味が込められているのではないかと言っていたよ」
「あぁ、つまり春菊さんは風刺画を依頼されたということなんですね」
「そういう画って風刺画って呼ばれているんだね。初めて知ったなぁ」
ちらりと天佑を見下ろしてみると、冷たい表情のためか、その美顔が殊更美しく見えた。
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