6 正しい列車

 後部座席に横たわり陵司は天井をみつめていた。車の振動が心地よく、眠れそうで眠れない。明かりの灯った夜の街がさかさまに車窓を通りすぎていく。

 問題なかったように思えた体調は、まったく無事ではなかった。渕村との通話を終えて立ちあがろうとした途端、強烈な頭痛に襲われた。全身が筋肉痛になったかのように強張り、目に映る光景がぐるぐると渦を描いた。友兎の肩を借りて半ば引きずられるようにして公園をでた。

 道々、夢の中で体験したことを友兎に話して聞かせた。「へえ」「ふうん」ろくに興味のなさそうな相槌を友兎はくりかえし、最後に「おつかれさまっす」とだけ言った。

 二日酔いのような気分を味わいながら、陵司はぼんやりしていた。車窓から射しこむ夜の街の光が天井に踊るのをみつめていた。これでもう思い残すことはない。なにも考える必要はない。

 ――あいつがロマンチストだったから、だな。

 不意に、父の声がした。いつの間にか陵司は瞼を閉じていた。闇の中でロマンチストという言葉だけがエコーしていた。

(なにがだ?)

 なにを指してロマンチストなのか。記憶を失った磯貝のため、世間の目からすれば不倫行為の手助けになるのもかかわらず稔里との逢瀬を手筈したことはロマンチストと呼べるかもしれない。

 しかし、磯貝の死のきっかけとなったのはネックレスを拾ったことだ。それ自体は衝動的な行動に過ぎない。悪意はなかったにせよ、結果的に人を死に至らしめた者をロマンチストと呼ぶのは不自然だ。

(ロマンチスト……)

 人が人をロマンチストと呼ぶのはどんなときか。

 情熱的な行動をしたときか。そうかもしれない。だがそれよりも、揶揄やゆとして使うことのほうが多いのではないか。あいつはなにか勘違いをしている、本当のことをわかってない。そんなことを皮肉として表現したいときにこそ「ロマンチスト」という言葉を使う。いかにも父らしい言い方だ。

 暗い階段を下りていく。スライドドアの把手に手をかけ、力を込めて引く。ゆっくりと音もなくドアが開いていく。部屋に入ると、そこは夏の海だった。

 波打ち際で坊主頭の少年たちが砂を掘っている。無心に遊ぶ兄弟を、幼かった陵司がみつめている。ビーチパラソルの下にいる稔里が静かに涙を流し、その様子に気づいた柾木が憮然としている。

 ――もし、あの子が生きていたら。

 悪夢の中で母になったとき、かすかな心の声を聞いた気がした。

 母は、磯貝の子をみごもったのではないか。陵司にしてみれば父親違いの兄となるかもしれなかったその人は、この世に生を受けることができなかった。流産したのか、姿をくらませた磯貝に絶望して中絶したのか、それはわからない。砂浜で遊ぶ兄弟を目にし、もし産まれていたなら陵司と兄弟になっていたかもしれないと稔里は想像して涙した。その心のうちを悟って柾木は憮然とするしかなかったのだろう。

 ――稔里さんを応援してほしいからだよ。

 長い話の終わりに蛍吾が口にした言葉を思いだす。

 稔里の立場からしてみれば、磯貝足帆はどんな人間だったか。愛した男だろう。すべてを捨て、たとえ遠い地の果てに二人だけで逃げても構わないと覚悟した相手だった。

 だが、磯貝は消えた。追手にみつかったと知るや、稔里だけを残して姿を消した。いや、稔里だけではない。そのとき稔里の身体の中にあったもうひとつの命も捨てた。精神的不安から流産したのだとしても、稔里にしてみれば磯貝に我が子を殺されたのと同じだ。

 稔里は磯貝に愛想が尽きていたのではないか。駆け落ちの後もずっとネックレスを持っていたことからして多少の未練はあっただろう。それでも入り江で磯貝に再会すると、ネックレスを突き返した。記憶のない磯貝はとまどっただろう。受けとろうとしないネックレスを稔里は憤然として海へ投げ捨てた。

 ――母親じゃなく、一人の人間として稔里さんを受け容れてほしい。

 この言葉にこそ、稔里は激昂げっこうしたのではないか。

 磯貝から稔里の心はとっくに離れていた。それにもかかわらず蛍吾は一方的に邪推した。母ではなく一人の女として受け容れよう。そんな体の良い言葉を口にして、勝手に他人の心を決めつけるロマンチストでしかなかった。

 稔里はずっと疎外感を抱えていたのではないか。夫を愛し、息子を愛した。しかし柾木はずっと妻の心を量りかねていた。許すべきものなど無い者を許し、理解したつもりで態度に迷っていた。ほんのわずかな距離を埋めることができないまま親子は広すぎる家で日々を過ごした。記憶はあれど心を通わせあうすべのない幽霊のように。

(俺、いま)

 陵司は瞼を開いた。

 かすかに車が揺れている。頬に後部座席のシートが密着して汗ばんでいる。

(なに考えてた?)

 吐き気を覚え、陵司は唾を呑みこんだ。思いだせない。なんだったろうか。おかしなことを考えていた。また屋上屋を架すような仮定の話か。今日はそんなつまらないことばかりにふりまわされた日だった。いや、待て。大切な気づきがあったように思う。なにかがわかった。なにか心残りがあったはずだ。なんだったろうか。考えを巡らせた末に陵司はようやくそれを頭の中にみつけた。

「なあ」陵司は天井に呼びかけた。

「渕村さん、なんで謝ってたんだろうな」

「はあ?」

 呆れたような調子で友兎は返事をした。

「いや、蛍吾さんを死なせたの、悔やんでいたのはわかる。ただ、それなら謝る相手は凜さんだろ? 俺は蛍吾さんの知り合いだったからかな」

 もしくは電話の相手が誰なのかわからないくらい意識が危ういのか。陵司が思いを巡らせていると、前の座席から吐き捨てるような調子の声がした。

「……馬鹿なんすか?」

 座面に後ろ手をついて、陵司は起きあがろうとした。途端に頭痛が走り、また寝転がった。

「誰が馬鹿だ」

「あんたすよ。渕村さん、間違いなくあんたに謝ってたんすよ」

「なんで」

 そんなん決まってるじゃないすか。いらついた声で友兎は告げた。

「陵司さんのお父さんが自殺するの、止められなかったからっすよ」

 ふっと重力の向きが変わったような気がした。

 それはある意味、正解だった。車窓の風景が静止している。車が停まったのだと陵司は気づいた。

「駅、着きましたよ」

「起きたくねえ」

「あれ、列車じゃないすか。ちょうど来るみたいっすよ」

「今の俺に走れなんて残酷なこと誰も言わないよな」

「走れ」

 陵司は起きあがった。頭痛がした。忌々しいことに、さっきよりも痛みが引いていた。無理をすれば走れなくもないと身体で感じた。

「ほら、走れ」

「うるせえ」

 ナップサックを肩にかけ、重い身体を引きずるようにして陵司は車から降りた。運転席の横を通り過ぎざま、窓をノックする。怪訝な顔をして友兎が窓を下げた。

「ありがとな」

「早く行ったほうがいいっすよ」

「そうだな」

 雪が降っていた。暗闇に無数の白い粒が落ちてきては、駐車場の濡れたアスファルトに融けて消えていく。陵司は走りだした。すぐに息が荒くなった。足も重い。

 駅舎に飛びこんでも、待合室には誰の姿もなかった。息苦しさにマスクを外した。乗換駅までの切符を買い、ホームにでる。

 陵司は跨線橋に向かった。反対側のホームに行かなければならない。足をピストンのように上下に動かし、階段を駆けあがる。息が束の間、暗がりを白く染めては薄れて消えていく。

(あれは、)

 夜が来ていた。遠くから列車のライトが近づいてくる。

(正しい列車だろうか)

 いつしか足をとめていた。一番線と二番線、その中間で立ちどまる。跨線橋の窓から列車の屋根を見下ろしていた陵司は、やがて踵を返した。とぼとぼと階段を下りる。

 駅舎をでる。見覚えのある軽ワゴン車が駐まっていた。ハンドルに両腕をかけた友兎が眠るように顔をうつむけていた。フロントガラスをこつこつと陵司が叩くと、友兎は顔を上げた。口元はマスクで覆われ、細めた目からはなんの感情も読みとれなかった。

 陵司は助手席のドアを開けた。ナップサックを後部座席へ放り投げる。

「行きますか」友兎が言った。

「ああ」陵司は短く返事をした。

 エンジンの音がした。助手席に腰を下ろすと同時に陵司は我に返った顔をして「病院だぞ」と言った。

「わかってるっす」

 目を細めて友兎が言った。笑っていることがはっきりとわかる細め方だった。車を大きくターンさせ、車道にでる。速度を上げるにつれ、フロントガラスに塵のような雪が降りかかっては後ろへ流れ去っていった。

 陵司は迷っていた。あの人になにを言えばいいのか。恨みつらみをぶつけるべきか、それとも許しの言葉を口にすればいいのか。なにが真実でどこまで幻だったのか確かめるべきか。それともただ老いた手を握りしめればいいのか。

 マスクに息がこもって熱い。頭痛がする。ぞくぞくと悪寒がして、考えはなにひとつまとまらない。眠りに落ちないよう陵司は目を凝らした。陽が沈み、暗いとばりに覆われた郷里の街をただ一心にみつめた。


〈了〉

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おまえも犯人だ 小田牧央 @longfish801

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