7 一人の人間として
二十五年前――母が命を落とした日。
その日は遅くまで寝ていた。ベッドで右へ左へ転がっては、覚醒と浅い眠りとの間を行き来した。階段を下りたのは昼近くだったろう。みんな似たようなものだった。誰かがそう決めて示しあわせたわけでもないのに、そろって寝坊した。
イチゴジャムを塗ったトーストと麦茶だけの朝食を陵司は一人で準備した。焦げたトーストの熱さを指先に感じながら、角っこに齧りつこうと口を開けた。キッチンに蛍吾が入ってきたのはそのときだった。まだ寝間着姿で髪もぼさぼさだった。
トースターに陵司がセットした食パンが焼けるのを待ちながら、蛍吾は眠そうに目をしばたいた。昨夜は暑さで眠れなかったという。物置に小さい扇風機があったかも。陵司の言葉に、まだ頭がまわらないのか蛍吾は目を細めたままうなずいた。
わざわざ一緒に食べ始めなければならないほど気兼ねすべき仲ではなかった。先にトーストを食べ終えた陵司は、冷蔵庫からマーガリンをとってきた蛍吾になにか話しかけようとした。夜空を埋めつくすかのように咲いた大輪の花火が瞼の裏に蘇り、鎖の先から垂れる赤い宝石が
「そういや、あれって」
「あれって?」
「ネックレス、凜ちゃんの」
マーガリンを塗っていた蛍吾の手の動きが止まった。あれなあと言いかけたきり、唇をへの字にする。
昨夕、河川敷の花火大会にでかける前のことだった。リビングで蛍吾が浴衣姿の凜となにか言い争いをしていた。いつも温厚な蛍吾が狼狽し、強い言葉を使っていることに陵司はぎょっとした。
凜の首に銀色の鎖があった。やや黒に近い赤色の、小指の爪ほどもない小さな宝石が四方から金属の爪で固定されている。朝顔模様の浴衣を着た凜はネックレスのおかげか大人びて見えた。
きれぎれの言葉をつなぎあわせると、凜はネックレスを外すよう説得されているらしいとわかった。やがて柾木もリビングに来て、二人の言い争いを黙ってみつめていた。仲裁しないのかと陵司は気になったが、父の目つきが鋭いことに気づき、黙っていることにした。
先に折れたのは凜のほうだった。この日、柾木と蛍吾は廿六木荘に残り、凜と陵司は稔里の運転する車で会場まで連れていってもらった。事前に約束していたとおり慎太と落ちあい、三人で夜店を巡ったり花火を眺めたりした。
廿六木荘に帰ってくると、柾木と蛍吾はリビングで酒を酌み交わしていた。ローテーブルにあのネックレスがあり、慌てたように柾木がそれをつかんでジーンズのポケットに入れた。凜の目から隠したというより、一緒に帰ってきた稔里の目から隠したように陵司には思えた。
寝る前、洗面所で歯を磨いていると凜が入ってきた。リビングでの喧嘩はなんだったのか訊いてみたが、なにも知らないと凜は首を左右にふり、唇を尖らせた。
――可愛いから、着けてみたかっただけなのに。
近所の小学生から廃品回収の報せを受けた。それを機に戸田間家では不用品の整理をすることになり、凜も手伝った。贈答用の海苔を詰めていたと思しき平たい缶にネックレスは他の雑多な文房具と一緒に入っていた。宝石の粒が小さく高価な物には見えない。母親のものかと思って確かめたが、覚えがないという。
押し黙ったまま蛍吾は朝食を終えた。扇風機は陵司が部屋まで運ぶつもりだったが、それは悪いと蛍吾は断った。扇風機の正確な場所を陵司は覚えておらず、それなら二人で物置部屋へ行こうと蛍吾は提案した。
身だしなみを整えるべく、蛍吾はキッチンをでていった。陵司がリビングでテレビを眺めていると、ポロシャツに着替えた蛍吾がやってきた。
陵司を先頭に二人で階段を下り、薄暗い物置部屋に入った。壁のスイッチを手探りし、裸電球が灯った。
「陵司くん、もう高校生だよね」
蛍吾が口を開いた。「一応」質問の意図をつかめず、陵司は寝呆けたような返事をした。
「磯貝さんのこと、聞いたことある? いそがい、たるほ」
「昔の小説家、じゃなく?」
まさか『一千一秒物語』の作者のことではないだろう。目で卓上扇風機を探しながら陵司は言った。
「ちがうね。漁師だった。見習いのままだったかなあ」
卓上扇風機はいちばん上の棚にあった。陵司が動くよりも先に、蛍吾が脚立をみつけた。床に広げ、一段目を踏む。
「足に、船の帆と書くんだ」
立ち尽くしたまま陵司は蛍吾の後ろ姿を見上げていた。自分が代わったほうが良いかとも思った。蛍吾は平均よりやや背が低く、逆に陵司は平均よりやや背が高い。二人の差は十センチ近くあるだろう。そんな心配をよそに蛍吾は慎重に手を伸ばし、片手で扇風機をぶらさげると、ゆっくりと脚立を後ろ足で下りてきた。
陵司は物置部屋を見渡した。この部屋に来ることはほとんど無い。蒸し暑く、埃っぽい。
「そこ座ったら?」
扇風機を持っていないほうの手で、蛍吾が部屋の隅を指さした。古ぼけたウィンザーチェアがあった。長い話になりそうな予感があり、陵司は素直に従うことにした。
「まあ、なんとなく漁師っぽい名前だよね」
「名字が磯貝だし」
陵司の言葉が、蛍吾の耳には入らなかったかのようだった。床に扇風機を置くと蛍吾は脚立に腰を下ろした。まるで重労働の直後のような長い溜め息を吐き、手の平をこすりあわせながら頭を揺らす。
「こんなこと僕から話すのは正直まずいけど……もう陵司くんも高校生だしね」
君のお母さんは駆け落ちしたことがあったんだよ。そう切りだした蛍吾の言葉が、陵司にはドラマや小説のあらすじを説明しているようにしか聞こえなかった。
「駆け落ちって、あれですか、結婚に反対されて親元から逃げだす。でも、父さんは見合い結婚だって」
一瞬遅れて陵司は混乱を自覚した。そうじゃない、母が駆け落ちした相手が磯貝足帆だ。
「あのネックレスはね、稔里さんが磯貝さんから贈られたものだったんだ。駆け落ちして、横浜で暮らしていた頃だろうね」
騒動が起きたのは稔里が二十三歳のときだった。高校卒業後は九竜家で家事手伝いをしていた。海の家のアルバイトで接客した磯貝と知りあい、交際が始まった。
「そのころ僕は高校生でね、たまに会うと稔里さんの口からノロケ話をよく聞かされたよ。友達との約束だとか嘘を吐いて、こっそりデートしてたわけさ。そういえば、僕が
陵司はうなずいた。八日乳市の北部にある中高一貫校だ。仏教系の組織が設立母体らしい。
「僕がいた頃はまだ男子校でね、今じゃ考えられないくらい校内暴力がひどい時期だった。授業をサボったり妨害したりは当たり前だったし、他の高校の不良と乱闘した連中もいた。先生のほうも竹刀をふるったり、僕はひ弱だったから不良にも先生にも目をつけられないよう必死だったなあ……それはともかく、磯貝さんも同じ学校にいたんだよ」
遠くを眺める目をしていた蛍吾が、悪寒でもしたかのように頭を左右にふると言葉を続けた。
「年が四つも違うから、向こうは僕のことなんて知らなかっただろうけどね。学校ではちょっとした有名人だった。硬派な人で……つまり、女の子にあまり興味がなくて一匹狼なタイプ。何度か見かけたけど、たしかにカッコいい人だった。菅原文太に似てたかな、右側の眉に切り傷みたいな跡があってね」
「喧嘩かなにかで?」
「そういう噂があったね、本当のところはわからないけど」
蛍吾は、磯貝足帆が高校三年生になる前に中退した事情を説明した。漁師をしていた父親が居酒屋で他の客を暴行し、重傷を負わせた。過去にも類似の暴力事件を起こしており、傷害罪で実刑判決を受けた。高校中退は家計を支えるためだった。二十一歳になったとき、磯貝は稔里と出会った。
「稔里さん、もう二十歳を過ぎてたんだから隠さなくても良さそうなものだけど、そういう家庭事情の相手だったから黛三さんに反対されると思ったんだろうね。でも、人の口に戸は立てられない」
それまでも稔里の縁談話は多かった。見合いをしたことも一度や二度ではなかったという。
「黛三さんがどういうつもりだったか、本当のところ僕は知らないよ。でも、どうしたって黛三さんの仕事つながりの人になるよね。取引先の重役の息子とか、政治家秘書とか。昭和の価値観が色濃かった頃だから、親に勧められるまま知らない男と結婚するなんて珍しいことじゃなかった。ただ、稔里さんはそんなタイプじゃなかったんだ。政略結婚みたいなものだと思うと我慢ならなかったんだろうね」
二人が駆け落ちを決行したのは出会いからわずか半年後、クリスマスの朝のことだった。
「あの頃は噂話をさんざん聞いたよ。駅で二人が特急列車に乗るところを目撃した人がいてね、方向からして大阪の親戚のところへ行ったんだとみんな思った。後でわかったけど、それは稔里さんが仕掛けた罠だったんだよ。本当は途中で折り返して、横浜に住んでいる高校時代の後輩を頼ったらしい」
黛三は興信所に失踪人捜しを依頼した。大阪での調査が空振りに終わり、調査員たちは二人の友人関係を洗った。年が明けて二月上旬、稔里がみつかった。稔里の後輩で、大学に通うため一人暮らしをしていたアパートに同居していた。翌日の夕方、興信所から連絡を受けた九竜志摩子が横浜へ足を運んだ。アパートを訪れ、玄関先で稔里と対面した。
後からわかったことだが、磯貝足帆は川崎市内のドヤ街に潜んでいた。ほとぼりが冷めてから同棲するつもりで、アパートにはときどき顔を見せる程度だった。偶然にも母娘の対面中に磯貝は姿を現した。居場所をつかまれたと即座に悟ったのだろう、踵を返すと磯貝は一言も残さず遁走した。
追いかけようとした稔里を、後ろから志摩子が腕をつかんで必死にとりすがったという。志摩子の説得を受けて稔里は八日乳市に帰った。終わってみれば、わずか一ヶ月半にも満たない逃避行だった。
「磯貝さんはどうなったんですか」陵司は当然の質問をした。
「戻ってこなかった」
蛍吾の座っている脚立が軋んだ。硬いものに亀裂が入ったような音だった。
「え? でも、興信所の人が探したんじゃ」
「探さなかったんだ。黛三さんにしてみれば、稔里さんに帰ってきてもらえればそれで充分だからね」
「磯貝さんの家の人は心配しなかったの?」
「興信所に依頼できるほどお金がなかったのかなあ。磯貝さんのお父さんは駆け落ち騒ぎの頃には刑期を務め終えててね、人伝てに聞くかぎりではだいぶ荒れた家だったらしいよ」
蛍吾が言葉にしなかったことを、陵司は悟った。磯貝足帆は帰りたくなかったのかもしれない。稔里と駆け落ちしたのはただ愛情のためだけでなく、家という束縛から逃げるためだったのか。
「稔里さんが結婚したのはそれから三年くらい後だったかな。廿六木荘を新居にして、そして君が生まれた。あの頃は本当によく、ここへ遊びに来たなあ。
妃楼は蛍吾の妻の名前だ。甘いものでも頬張ったかのように蛍吾は笑みを浮かべた。だが不意に、砂粒を嚙んだような表情へ変わった。
「新しい元号になった年だったね、磯貝さんが帰ってきたのは」
部屋の明かりが急に暗くなったように感じ、陵司は天井際近くの採光窓を見上げた。細長い窓のため見づらいが曇っているらしい。リビングにいたときは晴れていたはずだが、雨でも降ってくるのだろうか。
「本当に驚いた。磯貝さんから家に電話がかかってきてね。声だけじゃ信じられなくて、イタズラか詐欺かと思ったよ。喫茶店で顔を合わせて、やつれていたけど本当に磯貝さんだった。高校時代の友達を頼って僕の連絡先を調べたって言ってたな。あの眉の傷もあったし、そうそう、ちょっと片足を引きずってた」
ざわざわと胸が騒ぐのを陵司は感じた。筆で「平成」と書かれた色紙を、後に総理大臣となった男が掲げる光景が瞼の裏に浮かんだ。たしかにあの頃、この家にはなにかがあった。
とりたてて具体的ななにかがあったわけではなかった。父はぶっきらぼうで、母は忙しそうにしていた。沈黙が増えた。食卓を囲むときの目と目のやりとりが変わった。大人たちが子供になにかを隠そうとする特有の雰囲気があった。
陵司の記憶に深く刻まれている光景がある。家族で海水浴にでかけた。その気になればいつでも歩いていける近所の海だ。陵司がまだ小学生の頃は夏になると家族でそんなことをしたものだった。
海の家の周囲にビーチパラソルが並んでいた。パラソルの下には簡単なテーブルが設えてあった。かき氷を食べ終え、世間話を交わす両親に飽きた陵司はテーブルを離れ、砂浜のほうへ足を向けた。
兄弟らしき坊主頭の子供たちがいた。兄のほうが砂を
声をかけようかと陵司は思った。自分もくわわりたい、一緒に砂遊びをしたいと感じた。
無理だった。元号が新しくなったあの年、陵司はたしか十歳だった。兄のほうは陵司と同じくらいの年齢に見えたが、灼けた肌に汗を浮かべて黙々と砂を運ぶ姿が恐ろしく感じられた。踵を返し、陵司はビーチパラソルのほうへ戻った。
異変があった。母が泣いていた。わんわんと声をあげていたわけではない。ただ静かに海をみつめていた。海をみつめながら涙をこぼしていた。頬を雫が滑り落ちるのに気づかないのか、じっと動かない。なにか美しすぎるものを目にしてしまったかのように涙をこぼしている。
その隣、ビールジョッキを片手にした父がいた。妻の涙に気づいていないのか、気づいているがあえて無視しているのか、あらぬほうをみつめている。ビールの苦さを生まれて初めて知ったとでも言いたげな憮然とした顔をしている。
記憶はそこで途切れている。たったそれだけの意味のわからない光景を、その後も何度か陵司は思い返した。一緒に遊んでほしいと声をかけることさえできない人見知りの息子に母が落胆した。初めのうちはそう思いこんでいた。
やがて気づいた。息子に落胆したことが原因なら、父の憮然とした顔の説明がつかない。涙を流す妻にどうしたのかと声をかけるくらいはするだろう。
理由はわからないが、父と母は喧嘩をしたのだろう。軽い口喧嘩でもして険悪な雰囲気になった。そう思うようになった。ただ、あれだけの短い時間で稔里はなぜ涙を流すほど動揺したのか想像もつかなかった。いま、蛍吾から話を聞くこの瞬間までは。
「記憶喪失になった。そう磯貝さんは言っていたよ。東京の、たしか有楽町でお巡りさんに保護されたんだって。路地に倒れているところを保護されたときは服が破れて怪我もしていて、ひどいありさまだったらしい。誰かと喧嘩でもして、頭を打ったせいで記憶喪失になったのかなあ。初めのうちは日本語さえ片言で、中国かどこかからの密航者と間違われそうになったんだとか。身元を保証できるものが無くて、生活にはそうとう苦労した口ぶりだった」
いったん蛍吾が言葉を切ると、耳に馴染んだ波音に混じって違う音がした。雨が降り始めたらしい。
「船に乗っている光景が夢にでてきたり、魚の種類とか料理とか知識があったり、なんとなく自分が漁師だったことだけは悟っていたらしいね。けっきょく自分が誰なのかわからないまま十年以上も過ぎて、ある朝なんの前触れもなく名前や故郷のことを思いだしたんだってさ」
「蛍吾さんに会おうとしたのはどうしてですか?」
「頼まれたんだよ、稔里さんに会わせてくれって」
思いがけない答えに陵司は息を吞んだ。口を開いたが、続けてなにを訊くべきかわからなかった。その様子を察したのか、蛍吾は言葉を続けた。
「わかると思うけど、この辺りの町で磯貝さんはお尋ね者みたいな存在だった。いや、駆け落ちから十年以上も過ぎて記憶が褪せていたし、表では九竜家のことを悪く言わなくても裏で磯貝さんの肩を持つ人もいたけどね。とにかく、磯貝さんはこの家にひょっこり顔を出してはいけない存在だってことをわかっていた。柾木さんと結婚したことも、君という一人息子がいることも、とっくに知っていたよ。それで稔里さんとこっそり会うための段取りを僕に頼んできたわけ」
「……で、蛍吾さんはどうしたんですか」
「どうしたと思う?」
唇の端を歪ませ、蛍吾は微笑んだ。それは陵司がこれまで戸田間蛍吾と過ごしてきて、生まれて初めて目にした表情だった。気の弱い、優しいおじさん。気の強い娘に手こずりながらも成長ぶりを見守る父親。人畜無害としか思ってこなかった相手が今、肉の仮面を脱ぎかけた気がした。
「僕は頼みを引き受けた」
「どうして」
「稔里さんが決めることだと思ったから。僕はただの連絡役、横から口を挟む立場じゃない」
「でも、」
陵司は目の前にいる大人をみつめた。なにかをあきらめたような疲れた表情をしていた。不意に凜の顔が浮かんだ。昨夜、川原の遊歩道で花火を眺めていたときのことだった。長く顔を上げているのに疲れ、気まぐれに横を見た。どん、と音がした。慎太と会話する凜の横顔が花火の光に照らされた。
(この人は傍観者だったんだ)
見知らぬ誰かの声が頭の中に響いた気がした。
「とにかく」陵司が言葉を続けられないのを悟ったのか、蛍吾は口を開いた。
「僕は稔里さんに会って、磯貝さんの状況や想いを説明した。稔里さんは、直接会って話をしたいと言った。江栗自然公園って今はすっかり憩いの場になってるけど、あの頃はまだ公園になる前、なんの整備もされてない見捨てられたような場所だったんだよ。あそこなら人目につかないと思ってね、時間と場所を磯貝さんに伝えた」
陵司にも覚えがあった。崖から飛び込みをした中学生が命を落としたり、迷いこんだ観光客が足を滑らせて怪我をしたといった事件があり、学校で何度も注意喚起がされた。
「実を言うとね、こっそり見てたんだ」
「母さんと磯貝さんが会うのを?」
「自分のやってることが後ろめたくてね。事情はどうあれ、不倫の手助けみたいなものじゃないか。後悔して、だけど今さらやめようとも言えなくて、それでこっそり遠くから覗いたわけ」
密会場所は入り江だった。波と崖に挟まれた岩の上を渡り歩かなければたどりつけない。そこから少し離れた岩陰に蛍吾は先回りして身を潜ませていた。八月上旬、お盆を迎える直前だった。ぎらぎらとした陽射しが波に反射していた。不思議に思えるほど海風がぴたりと止んだ。額を汗が流れる不快さをこらえながら蛍吾は待った。
「なにを話してるのか、ほとんど聞こえなかったんだよね」
後頭部を掻いて蛍吾ははにかんだ。
「隠れていた場所が遠すぎたし、二人も小声だったから。ただ、そのうち稔里さんが興奮してきたのがわかった。急に立ちあがって、なにか手にしているものをいきなり波に向かって放り投げたんだ」
赤い光が放物線を描いた。空の青と海の青との境い目に吸いこまれていく。
「磯貝さんも立って、二人はしばらく言いあってた。それから稔里さんは急に駆けだしたんだ。磯貝さんは肩をつかもうとしたけど途中で手を止めた。暴力をふるいたくなかったんだろうな。稔里さんの後を追いかけて、一緒に入り江からでていった」
雨の音が強くなった気がした。ふりかえって窓を見上げた蛍吾が、やがて視線を戻した。
「稔里さんが投げ捨てたのがあのネックレスだよ。稔里さんに訊いたわけじゃないけど、まあ事情はなんとなく想像つくよね。駆け落ちしたとき磯貝さんが稔里さんにネックレスを贈った。磯貝さんが失踪して、結婚しても稔里さんはそれを捨てることができなかった。ネックレスをあの場に持っていったのは、見せれば記憶が蘇ると思ったんじゃないかな」
「あれ? それってつまり、母さんのことは思いだせてなかったんですか」
「ぼんやりした感じだったらしいよ。恋人がいたこと、駆け落ちしたことは覚えてるんだけど、顔や名前になるとどうしても思いだせない。稔里さんのことはまわりの人から教えられて知ったんだってさ」
置き去りにしたことがトラウマになったのだろうか。陵司は想像した。手に手をとって遠い地へ逃げ落ちながら、横浜のアパートに恋人を一人だけ置き去りにした。そのことの後ろめたさが記憶の回復を阻んだのか。
「人の心って不思議だね。喫茶店で会ったときも言ってたな、自分はまるで幽霊みたいだって」
「幽霊ですか」
記憶のない幽霊。大きな喪失を抱え、人生の長い時間を虚ろに過ごしてきた男。なにを失ったのか知るために磯貝足帆は帰ってきたのかもしれない。
「母さんが海に投げたネックレス、蛍吾さんが拾ったんですね」
そうでなければ話がつながらない。陵司の問いに、蛍吾はこくりとうなずいた。
「ひょっとすると僕は、人を殺したのかもしれない」
独り言めいた口調だった。唐突な話の飛びように陵司が口ごもっていると、安心させるように蛍吾は笑みを浮かべた。
「もちろん本当に殺したわけじゃなくて、事故を起こすきっかけを作ってしまった感じだけど」
「事故って、磯貝さんになにかあったんですか?」
「消えてしまったんだよ。稔里さんと会った日を最後にまた磯貝さんはいなくなった。家に帰らなかったし、この町で誰か姿を見かけたという話も聞かない」
この部屋が薄暗いせいだろうか、陵司は気味の悪さを覚えた。地方の漁村にふらりと姿を現し、蜃気楼のようにまた消えてしまった男。
「僕はてっきり、稔里さんと会っても記憶が戻らないことに気落ちして関東に戻ったんだろうくらいに思ってた。九竜家がなにかしたんじゃないかって変な噂が流れたなあ。その前の年に黛三さんが亡くなって、みんな口が緩んでいたせいかな。それで志摩子さんが霊能力者を呼んでね」
陵司は面食らった。テレビの心霊番組やホラー漫画でしかお目にかからない言葉が突然でてきたことにとまどった。
「本当にいるの、そんな人?」
「僕も詳しくは知らないけど、志摩子さんの実家から紹介されたらしいよ」
志摩子の旧姓は宇祖里だ。昭和の初めに宇祖里協同組合が設立された。その設立母体となった、鍛冶職を中心とする職能集団の長を代々務めてきた家だという。志摩子と結婚したとき黛三はまだ政治活動に身を染めていなかったが、後に組合が票田となった事実からして思惑は初めからあったのかもしれない。
「稔里さんや九竜家の人から聞いた話だけどね、三十代くらいの見た目は普通の女の人だったらしいよ。名前は忘れたけど、ちょっとお坊さんっぽい響きだったな。あの日、磯貝さんが稔里さんに会いにいくところを見かけた人がいてね。それで海岸沿いを調べて、あの入り江に来たとたんにその霊能力者の人、波にざぶざぶ入っていった。数珠とか念仏とか、そんなの無しでただ目をじっとつぶっていたかと思ったら、もうこの人は死んでいますって言ったらしい」
パフォーマンスくさいな、と陵司は思った。九竜家が悪い噂を封じるべく、磯貝は死んだと演出するため自称霊能力者にそのような「霊視」を頼んだのではないか。
だが、蛍吾が続けた言葉に陵司は思わず息を呑んだ。
「なにか海に落としたものを探していたんだろうって言うんだ」
「え? でも、ネックレスのことは……」
「稔里さんと磯貝さん、そして僕しか知らなかっただろうね。霊能力者の人も、なにを探していたのかまではわからなったみたい。磯貝さんは元漁師だけど、喫茶店で会ったとき片方の足をひきずってた。だんだん潮が満ちてくる時間帯だったし、たしかに油断して溺れることはあるかもしれない」
ようやく陵司は理解した。稔里が海に投げ捨てたネックレスは蛍吾が回収していた。恐らく磯貝は蛍吾が立ち去った後で入り江に戻ってきたのだろう。とっくに波の下から消えているとは知らないままネックレスを探し続けた。照りつける陽射しに意識がもうろうとしたのか、波に足をすくわれ転んで岩に頭を打ちでもしたのか。霊能力者の言葉を信用するなら、そうして磯貝は命を落とした。
「稔里さんは最後まで、磯貝さんは生きてるって言い続けてた。あれはきっと僕と同じで、ネックレスを探していて溺れ死んだなんて信じたくなかったんだろうな。自分が殺したように思えてしまうから」
「そもそも蛍吾さんはどうしてネックレスを拾ったんですか」
「正直、そのときは深く考えてなかった。後で稔里さんに返そうと思っているうちに磯貝さんが姿を消して騒ぎになって、霊能力者がやってきて。僕はすっかり怖くなって、かといって捨てることもできないままネックレスを押し入れに仕舞いこんだわけさ」
「昨晩はそういう話を父さんとしてたんですか」
「まあね。ああ、もちろん柾木さんだって稔里さんに駆け落ちした過去があったことくらい初めから知ってたよ。承知の上で結婚したのさ」
ぱん、と乾いた音を立てて蛍吾がひとつ手を叩いた。長い話はこれでおしまい、という合図のつもりだったらしい。軽く呻きをあげて立ちあがると、蛍吾は脚立を手にとって畳んだ。
「あの、蛍吾さん」
陵司も腰を上げた。脚立を棚へ戻す蛍吾の背中へ声をかける。
「どうして話してくれたんですか」
――こんなこと僕から話すのは正直まずいけど。
初めのほうで蛍吾が口にした言葉の意味を、陵司は遅まきながら理解した。たしかにまずいことだ。母親に駆け落ちした過去があっただの不倫まがいの行為に協力しただの、よその家の息子相手に話すことではない。こんな埃臭い部屋で話をしたのも他の者たちに聞かれたくなかったからだろう。
「稔里さんを応援してほしいからだよ」
戸口のほうへ向かいながら、蛍吾はなんでもないことのような口調で言った。
「今、君は複雑な気分だと思う。稔里さんに嫌な感情を覚えたかもしれない。でも、わかってほしいんだ。大人になればいろんなことがある。迷って、間違った選択をすることもある。なんて自分は馬鹿なことしたんだろうって後悔もする。だけど、選んだ道が正しいかどうかなんて、後になって思い返してみなければわからないことが多いんだ」
急に蛍吾がふりかえった。背中を追っていた陵司は、部屋の真ん中で至近距離で向かいあった。
「母親じゃなく、一人の人間として稔里さんを受け容れてほしい」
できるよね? 肩に蛍吾の手が置かれた。陵司は真正面にいる一人の大人の顔をみつめた。
瞬間、室内が青白く照らされた。
巨大な怪物の内臓がうごめくかのような雷鳴が轟いた。薄暗い物置部屋に眠る雑多な品々が、かすかに振動していた。
今のは近かったね。蛍吾が胸を撫でおろしながら言った。「そうですね」恐怖をまぎらわそうと、陵司は努めて明るい声で応じた。
蛍吾が背を向ける。スライドドアのほうへ向かって歩きだす。その背中を追いながら、陵司は首を傾げていた。さっきのはなんだったのだろう。恐らく稲光が差しこんだとき、偶然できた影がそれらしく見えただけのことだろうけれど。
だが、確かに感じた。青白い光に室内が照らされたあのとき、蛍吾のすぐ隣に黒い人影が立っていた。三人目の誰かが蛍吾をみつめているように感じた。
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