6 帰還不能点

 巨大な壁掛けテレビが点灯していた。カメラの角度が悪いらしく、ノートパソコンのキーボードらしきものが逆さに映っている。

「始めたばかりです」

 友兎がふりむき、それだけを告げると視線をテレビの画面へ戻した。

「遅れてすまん」

 陵司はモッズコートを脱ぎ、一人掛けのソファに腰を下ろした。暖房が効いているはずだが、まだ身体が冷えているせいか寒い。コートを膝掛け代わりにした。

 誰かが角度を調整したらしい。カメラが回転し、老婆の姿が映った。

 どこかの私室だ。奥に襖があるから和室だろう。高齢の女性が肘掛け椅子に座っている。椅子の傍らにベッドがあった。

 老女は無言でカメラをみつめている。白髪が七分ほどのゴマ塩頭で、短く刈ってある。肌には無数の皺が刻まれ、染みが浮かんでいる。落ち窪んだ目を細めたまま動かない。背もたれから背を離し、肘掛けに体重を預けるようにしている。

 厚手のカーディガンを羽織っている。その下に入院患者のようなゆったりしたガウンを着ている。袖の先から痩せた手が伸び、手の甲にぷっくりと血管が浮いている。

(――誰だ?)

 どこかで会った人物だろうか。胸騒ぎがして、陵司は画面から顔を背けたくなった。知りたくないことをこれから知らされる。そんな直感がした。

 いたたまれない時間が過ぎていった。どこかから秒針の音が聞こえてくるような、あるいは時間が凍りついてしまったかのような。依然として老女に動きはない。表情には喜びも悲しみもない。ただ当惑だけがある。状況を理解できず、目の前を通り過ぎていく大きな流れをただ呆然とみつめている。

 ほら、おばあちゃん。若い声がした。画面の端から十代半ばと思しき少女が現れた。

 椅子の傍らに腰を屈め、老女の手を握る。もう片方の手で老女の腕を撫でながら声をかけ続ける。ほら、映ってるよ。昔のこと訊きたいんだって。名前は言える?

(そうか)

 痴呆症なのだろう。促されても老女はろくに反応せず、ただ宙をみつめていた。

(いや、待て)

 このお婆さんは事件の関係者なのか? たしか、次に会う予定だった者は。

 友兎が陵司のほうに顔を向けた。なにも言わずに首を左右にふってみせる。顔の下半分がマスクで覆われていても「これはダメっすね」という表情が読みとれた。

「すみません、一度切ります」

 少女の声がした。老女から離れ画面に近づいてきたかと思うと、唐突に映像が暗転した。

「あれが」陵司はためらいながら言った。

「渕村さんか?」

「そっすよ」当然だという顔をして友兎はうなずいた。

「事件のとき、四十代くらいじゃなかったか」

「今年で六十七歳と聞いてます」

 六十代か。陵司は胸のうちで独り言ちた。医療が進歩したのか、食生活や労働環境が変化したからか、最近は還暦を過ぎたくらいでは年寄りに見えない者が多い。さっきの渕村は九十歳くらいの高齢者にしか見えなかった。個人差があるにせよ、そういうものだろうか。痴呆症を患うとそこまで見た目が変わるものだろうか。

「ごめんなさい」

 画面に変化があった。渕村に寄り添っていた少女が大映しになった。丸顔にショートボブがよく似合う。化粧気がなく、襟元のゆったりしたトレーナーを着ている。さっきまで昼寝してましたと言わんばかりの恰好だ。渕村が話せるなら自分が映るつもりはなかったからかもしれない。

「今日は調子が悪いみたいです。また別の日で良いですか?」

「あ、すんません」

 友兎が口を挟んだ。遅れて参加した陵司を紹介する。少女のほうも自己紹介を始めた。

浜風千逢はまかぜ ちあといいます」

 県内の短期大学に通っているという。話を伺っても構わないかと友兎が頼むと「私にですかあ?」と目を丸くした。

「ウーン、おばあちゃんは好きだけど、昔のことあんまり聞いたことないし……あ、ちゃんと言うと、おばあちゃんじゃないですね」

 渕村徳恵は一度も結婚しなかった。千逢は、徳恵の姉の孫にあたる。千逢が小学校にあがる頃から同居しているという。

「興信所のお仕事ってプライベートなこと扱うじゃないですか。私が興味本位で訊いても口が固くって。良いことなんて無かったって、いつもそればっかり」

 陵司は落胆した。慎太や凛とオンライン会議で話したとき、凜は仮説を唱えていた。志摩子が渕村になにか調査を依頼したのではないかと。この様子では渕村にそれを訊くことはできそうにない。

 ひょっとすると飯芝も、もう志摩子は亡くなったとはいえ九竜家の内部事情だからと口が固いのかもしれない。二人が集まりに参加した理由を友兎がまだ確認できていないのも、そんな事情からか。

「廿六木荘での事件のことは?」

「聞いたことないなー。私まだ生まれてなかったし――ちょっと待って」

 あんまり関係ないことですけど。そう予防線を張ってから千逢は話し始めた。

 徳恵との同居が始まったばかりの頃だった。この地方のテレビ局が制作した番組で十年前の罵賀新線踏切事故について報道していた。廿六木荘での事件と同じ日に起きた、踏切で立ち往生した乗用車に列車が衝突した事故だ。二十三年前の大事件と言われて八日乳市民の大半が思いだすのはこちらのほうだろう。

「カーラジオで踏切事故のニュースを聞いたって言ってました。それって、廿六木荘へ向かうときじゃないですか?」

「時間的にはそうですね」

 それまでせわしなく話していた千逢が不意に動きをとめた。記憶の中の光景をみつめているのか、遠い目つきになる。

「たしか私あのとき、たくさん人が死んじゃったんだね、みたいなこと言ったんです。そしたら、しかたないねって」

 言葉を途切らせると、千逢はうつむいた。「しかたないねって」ふっと短く息を吐き、それから顔を上げた。笑顔だ。だが、どこか無理のある寂し気な笑顔だった。

「その言い方が悲しくてショックでした」

 まあ、私がちっちゃすぎただけって話ですけどね! 気恥ずかしさを誤魔化すように千逢は手の平を顔の前でふった。

 友兎が納得したようにうなずくと、陵司のほうを向いた。おまえはなにか訊くことがないのか、という顔だ。

「車の話がでましたが」

 急にバトンタッチされたせいだろうか、考えるより先に口先から言葉がこぼれた。

「徳恵さんは運転しながら眠気覚ましにガムを、噛んだりは……」

 語尾が弱まっていく。なにを言ってるんだ、俺は。陵司は頭を抱えたくなった。

「どうかなあ? 同居してからはおばあちゃん、ほとんど車の運転しなくなったから」

 とまどった表情を浮かべながら千逢は答えた。友兎も小首を傾げている。当然だろう、さっきの悪夢のことを知らない二人にはまったく意味不明の質問だ。

「失礼ですが、」

 頭をひねった末に陵司はその質問を口にした。事件と直接関わりはないとわかっていたが、どうしても気になった。

「痴呆の症状はいつから」

「ボケてるんじゃないみたいですよ」

 からっとした口調で千逢は答えた。

「統合失調症? というらしいです」

 千逢に徳恵が話してくれたことがあった。十代前半のとき発症したという。幻聴、すなわち存在しない音をたびたび耳にするようになった。日常生活に差しさわりがあるほどではなく、当時の経済事情もあって治療を受けなかった。五十代から徐々に症状が悪化し、還暦を迎える前に退職した。家族の説得を受け、同居を始めてからは精神科医の診察や薬物治療を受けているという。

「遺伝しやすい病気だから気をつけろって言われました。変な気持ちになったり、おかしなものを視たり聴いたりしたら私に相談しなさいって」

 物真似のつもりなのか、後半はしゃがれた声で言った。「おかしな目で見られるから、よその家とか絶対に言うなって」少女の口調はあっけらかんとしており、なにも心配していないようだった。

「徳恵おばあちゃん、普段はおしゃべりくらいならできるんですよ。話しかければ答えてくれるって感じで、自分からはあまりしゃべらないですけど。そうそう、散歩してて、見えない人とずっと話してることもありました。薬の効き目が悪くって、ひょっとすると別の病気かもしれないってお医者さんもこぼすくらいで。今日は朝から不機嫌そうだなとは思ってたんですけど」

「あと、ひとつ」陵司は人差し指を立てた。

「おかしなことを訊くようだが、徳恵さんの両親はなんの職業を?」

「え? さあ」

 徳恵の両親は亡くなっており、親しくつきあっている親戚もいないと千逢は説明した。「役に立たなくてごめんなさい」と笑顔で頭を下げた。

「恩陀さん」

 オンライン会議が終了すると、友兎に呼びかけられた。

「休んだほうがいいんじゃないすか?」

 眉間に皺を寄せているのは不機嫌なのではなく、心配しているらしい。

「そうかもな」

 陵司は額に手をあてた。熱があるように感じる。気のせいではなく、確実に怠い。

「顔、洗ってくる」

 ソファから立ちあがった。ふらつかないようにするのが一苦労だった。


 刺すように冷たい水を頬に浴びせる。蛇口をひねって水を止めてから、陵司はフェイスタオルを持ってくるのを忘れたことに気づいた。しかたなくハンカチで顔を拭く。

 洗面所をでる。ふと思いつき、スマートフォンをとりだした。立っているのが怠く、階段の上り口に腰を下ろす。「統合失調症」と入力し、ネットを検索する。いくつかサイトの記述を拾い読みした。

 精神疾患のひとつで、原因は完全には解明されていない。遺伝だけではなく環境も発症原因となる。たとえば肥満は遺伝も関係するが、食生活や運動習慣といった環境面も影響するのと同じだ。平均して百人に約一人は発症するというから珍しい病ではない。

 妄想や幻覚といった陽性症状と、倦怠感や解離症状といった陰性症状の二種類がある。陵司の脳裏に、凍りついたように動かない老女の姿が思い浮かんだ。あれは陰性症状ということか。

 スマートフォンを内ポケットに戻す。リビングに戻ろう。ここは寒い。コートをソファに置き去りにしてきてしまった。

 就寝前のように頭が重い。瞼を細めると、怯えた目をした老女の顔が思い浮かんだ。誰かに似ている気がした。会話を交わしたことがあると思った。夢の中で会った渕村徳恵と同じ顔ではなかったか。

 あまりにも顔つきが変わってしまっている。そもそも夢の記憶はあいまいだ。体調不良のせいで似ていると思いこんだだけか。仮に顔が同じだとして、どうなる。初めの夢はともかくそれ以降の夢は現実には起きなかったことだ。いったいなんの意味がある。

 意味はある。二十三年前の事件のとき、陵司は渕村徳恵と顔を合わせた覚えがない。夢と現実の顔が一致するはずがない。もし一致するなら、ありえないことが起きているということだ。

 悪寒がした。陵司は階段に座りこんだままだった。寒い。コートはどこだ。頭がぐらぐら揺れているように感じる。眠い。眠いはずだが、眠れない。あれだけ夢をみたのに疲労ばかり蓄積している。

(ひょっとして)

 体調が悪化しているのは、悪夢のせいなのか?

 あの夢をみるたび症状がひどくなってきている。このままだとどうなるのか。探偵に負け続け、夢の中で自殺し続けたなら。

(死ぬのか)

 低い音がした。ハッと目が覚めたようになり、陵司は音の方向を探した。

 玄関ブザーの音だ。新しい住人が装置を一新したのだろう。陵司が住んでいた頃とは音が違っていた。

 熱が少し引いたように感じる。階段に座ったまま少しだけ眠ったのかもしれない。陵司は身を起こした。肉体労働を丸一日していたように手足が重い。

 廊下を進もうとして足が滑った。いや、膝が崩れたのか。とにかく壁にぶつかった。肩が痛い。

(死ぬのか)

 さっきも同じことを考えたなと陵司は気づいた。足の裏が冷たい。そういえばスリッパを履いていない。リビングに置き忘れたか。高い波長の音がしている。玄関ブザーにしてはおかしな音だなと思ってから勘違いに気づいた。耳鳴りだ。

 ――磯貝がいなくなったとき、

 誰かの声が脳裏に響いた。

 ――奥様は霊能力者を呼びました。

 これは飯芝の声か。夢の中、裏庭の崖で言われた。霊能力者が必要なのは俺だな。そう自嘲すると同時に、喉の奥から発作的な息が突きあげ陵司は肩を揺らしながら笑った。

 ――磯貝足帆のことは、覚えてますか。

 いそがい、たるほ。

(たるほ……)

 足帆。

 ――足に、船の帆と書くんだ。

 後ろ姿があった。一番上の棚にある卓上扇風機へ慎重に手を伸ばそうとしている。白いポロシャツを着た戸田間蛍吾が、扇風機を片手にぶらさげ、ゆっくりと脚立を下りてくる。

 陵司は物置部屋を見渡した。この部屋に来ることはほとんどない。蒸し暑く、埃っぽい。

 ――そこ座ったら?

 扇風機を持っていないほうの手で、蛍吾が部屋の隅を指さした。古ぼけたウィンザーチェアがあった。長い話になりそうな予感があり、陵司は素直に従うことにした。

 ――まあ、なんとなく漁師っぽい名前だよね。

 ブザー音が鳴った。

(思いだした)

 今度こそ間違いなく玄関ブザーの音だった。訪問者が焦れたのか、長く鳴っている。

(思いだせた)

 思考を白熱させながら、陵司はまるでロボットのように手足を自動的に動かしていた。聞いた。たしかに聞いた。あれは二年前のことだった。戸田間蛍吾から、磯貝足帆という人物のことを聞かされた。なぜ思いだせなかったのだろう、こんな重要なことを。

 タイミングが悪すぎたのかもしれない。誰だって同じことを経験したなら忘れるよう努めただろう。母親を喪ったその当日に、かつて母親が駆け落ちした男のことを知らされたのだから。

 はいはい、と独り言をこぼしながら陵司は廊下を歩いた。奇妙な感覚があった。突然蘇った記憶を咀嚼している自分がまるで他人事のように感じられた。身体を動かしている自分、記憶を遡っている自分、そしてその自分たちを眺めている自分がいた。

 おかしい、こんなに長い廊下だったろうか。時間が間延びしているように感じる。頭の隅っこでサイレンが赤い光を発しながら回転していた。さっきまでなにを考えていただろう。夢の中の渕村と、テレビ画面に映る年老いた渕村がもし同じ顔だったら。同じ顔だったら、どうなるんだったか。

 玄関扉のレバーをつかむ。押しさげる。押しさげたまま引く。地面が細かく揺れている気がする。足元を見下ろし、陵司は自分が靴下のままで三和土たたきを踏んでいることに気づいた。

 顔を上げる。扉の隙間から、白いマスクをした老人の顔が覗いた。

(こいつは)

 陵司は悟った。現実と幻想の境界が破れたことを。

「こんにちは」

 老人は背広姿だった。薄く笑みを浮かべ、腕にコートをかけている。

「すまないが、ここに二乃理友兎という者が来て――」

「飯芝さんですね」

 見知らぬ相手に名前を呼ばれ、老人はまばたきをした。それから合点したように頭をゆっくり上下に揺らした。

「そうか、陵司くんか……うん、確かに柾木さんの面影がある」

 マスクで顔半分が覆われていても、長い歳月が皺を刻み髪を白く染めても、そこにいるのは間違いなく飯芝令だった。悪夢の中で幾度となく顔を合わせた相手だった。人が人の存在を認めるのは顔の特徴でも身なりでもなく、たたずまいなのだと陵司は知った。

「訊きたいことがある。ふちむら、渕村徳恵は――」

 嵐のような眠気とマグマのような興奮が頭の中で渦巻くのを耐えながら陵司は口を開いた。

「渕村徳恵は、だったのか」

 ひくりと飯芝は片頬を歪ませた。驚愕したようにも、冷笑を浮かべたようにも見えた。

 その反応だけで陵司には充分だった。ぷつりと緊張の糸が途切れた。ぐるりと壁が、天井が、玄関扉が回転する。ヤバイと思いながら後ろへ下がった陵司は上がり框に足をひっかけ尻もちをついた。起きあがろうとする。だが、上下左右がよくわからない。

「恩陀さん?」

 長い廊下の奥に友兎の姿があった。こちらへ駆けてくる。なにをそんなに慌てているんだ。そう不思議に思うと同時に見るものすべてがモノクロームに転じた。暗闇に包まれ、陵司は意識を失った。

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