5 勝ってどうなる
寒い。陵司は身を震わせた。
地面へ倒れこみそうになるのを唸り声をあげてこらえる。荒々しい波の音が聞こえた。冷たい風が吹きつけ、陵司はモッズコートの前をあわせた。自分で自分の身を抱きしめる。冬眠中のリスのように背中を丸めながらガチガチと歯を打ち鳴らす。
見当識が戻らない。俺はなにをしているんだ。思考の混乱とひどい悪寒のダブルパンチに翻弄されながら陵司は周囲を見渡した。目の前には崖があり、岩肌がなだらかなカープを描いて海へ続いている。
手から白いものが落ちた。マスクだ。風に飛んでいくそれを陵司は慌てて追いかけた。なんとか捕まえる。
(夢だ)
また、あの悪夢をみていた。
(三度目か)
凛と慎太との会話を終えた後、陵司は気分の悪さを覚えた。吐きそうで吐けないようなもどかしさがして、散歩にでかけることにした。二度目の悪夢のとき飯芝と柾木が会話していた裏庭の崖に足を運んだ。灰色の海を眺めるうち眠気を覚えたのは記憶がある。どうやら短い夢をみたらしい。
驚いた。さすがに立ったまま眠ったのは生まれて初めてだ。頭がくらくらする。こんなところで寝ていたら凍え死ぬかもしれない。いや、崖から転げ落ちるのが先か。
(なんなんだ、これは)
二度あることは三度あるとは言うが。これほど複雑な筋書きの夢を立て続けにみることなどあるだろうか。蛍吾を殴り殺す場面から始まり、またもや同じ結末を迎えた。リビングで探偵に糾弾された夢の中の父は、警察が到着する前に寝室の窓から身を投げた。
玄関を目指して陵司は歩きだした。早くリビングに戻って温まりたい。
(本当に父さんは)
母の死に関わっているのか。まさか夢の中に、オンライン会議で凜が打ち明けた話がでてくるとは思わなかった。
それは奇跡的な偶然だった。二十三年前、高校生となった九竜慎太はクラスメイトの家へ遊びにでかけた。同じクラスで仲良くなった男子ばかり数人でレンタルビデオのホラー映画を鑑賞した。怖がっているのを悟られまいと強がりあい、ときどきスナック菓子を齧る音がする以外は静かな時間が続いた。映画が終わり、緊張しきった雰囲気を和らげようとした誰かがホームビデオのテープをみつけて再生した。ほとんどの者が映像を無視して雑談を交わしていたが、見覚えのある光景に慎太は注意を惹きつけられた。
八ミリビデオテープにメモ書きされた日付は、恩陀稔里が転落死した日付と一致した。友人に頼んで慎太はそれをVHSテープにダビングしてもらい、十数年後にDVDへダビングした。慎太と凜が共用しているノートパソコンにはDVDドライブが無く、HDDレコーダーで再生するしかなかった。
それは短い映像だった。慎太の友人は水上バイクを撮影していたのだろう。座った姿勢で乗れるランナバウトタイプのもので、沖を右から左へ疾走する姿をカメラが追っていく。空はやや曇っているが、穏やかな海だ。
バイクが旋回し、まばゆく波飛沫がきらめいた。カメラの動きがとまったとき、手前の左隅に男女の姿が現れた。
二人は突堤に向かいあって立っていた。男は後ろ姿だが、陵司には容易に見分けられた。家で父は年がら年中いつも同じジーンズを履いていた。頬骨のカーブに懐かしさを覚えた。右手になにか持っているのだろうか、腕を曲げているが映像が不鮮明でよくわからない。
女のほうはショートパンツにTシャツ、陽射し対策なのかバケットハットを被っている。江栗自然公園へ散歩にでかけるとき、よくこんな恰好をしていた。やや目尻が釣りあがった意志の強そうな瞳は間違いなく母のものだ。
二人はなにか話しているようだが、距離があって声は聞こえない。それでも女が手をふりあげ、男の頬に打ちつける動きは見間違いようがなかった。ものの十秒足らずでカメラはまた水上バイクを追って右へとパンし、在りし日の両親の姿は消え失せた。
――黙っていて、すみません。
四分割されたテレビ画面の中で、背広姿の慎太は頭を下げた。初めてこの映像をみつけたとき、どう解釈すべきか慎太は判断できなかった。まずは凜に打ち明け、そして志摩子へ相談した。話を聞いた志摩子は、後は大人同士で話をするから気にするなと告げたという。
死の直前、稔里は柾木と一緒だった。明らかになにか感情的な行き違いがあった。母は気の強い性格だったが、さすがに理由もなく夫をビンタする性格ではなかった。
この映像の後になにが待ち受けていたのだろう。母は父に殺されたのだろうか。鉛を呑みこんだような気持ちになり、陵司は口を開くことができなくなった。慎太と凜も口ごもり、場を沈黙が支配した。
――アリバイがあるんですよ、柾木さんは。
不意に口を開いたのは、友兎だった。元警察関係者から稔里の死についても詳細を確認したのだという。
恩陀稔里の遺体や、その周囲に争った痕跡は無かった。消波ブロックの上に立っていた稔里を誰かが突き落とし、運良く痕跡を残さなかった可能性は否定できない。このため当初は他殺の線も疑われた。
公園で妻と一緒だった。事件当日の行動を問われた柾木はそう証言した。正午頃、散歩のため公園へでかけようとする妻をみかけ同行した。途中で柾木は疲れを覚え、先に帰ることにした。雨が降りだし、ちょうど通りがかった喫茶店へ慌てて飛びこんだ。過去に何度か通ったことのある店で、店長も柾木の顔を知っていた。それから一時間近く柾木は店で過ごした。
遺体の下のコンクリートは濡れていた。恩陀稔里が転落したのは雨が降り始めた後となる。喫茶店から遺体発見現場までの距離を考えても、雨が降り始めてから喫茶店にいた柾木に犯行は不可能だった。
稔里が公園で誰かと一緒だったと証言する者はその後も現れなかった。死斑に不自然なところはなく、遺体を動かした痕跡はみつからなかった。どこか他の場所で殺され、運ばれた可能性は無い。いつ誰の目があるかわからない公園内で犯行に及ぶのも不自然さがあり、やがて他殺説は立ち消えになった。
(まさか、トリックか?)
陵司は二階の書庫の光景を思いだした。本の背が陽射しで灼けないよう二十四時間ブラインドを下ろしたきりにしていた。柾木は読書好きで大量に本を貯めこんでいた。天井まである書棚を本で埋めるのはおろか未整理の本を詰めた段ボール箱をいくつも積みあげていた。国内作家の推理小説が数多くあり、陵司もその恩恵に与ったものだった。ミステリファンと呼べるほどではなかったにせよ、なにかトリックを思いついて試すくらいはありそうなものだ。
しばらく考え、陵司は首を左右にふった。確かにこんなアリバイはチープなトリックで捏造できる。すぐそこにある海から水を手ですくってコンクリートを濡らすだけで良い。しかし現代のように誰もがスマートフォンアプリで通り雨を事前に知ることができる時代ではなかった。雨が降ることを知りえなかった柾木にはトリックの弄しようがない。
(殺してはいない)
ならば、自殺させたというのはどうだろう。ビンタするほどだ。二人はなにか口論をしていたのだろう。友兎が取材した元警察関係者はそのことになにも触れなかった。だとすれば柾木はその事実を証言しなかったと考えるしかない。
高校生だった陵司からすれば、柾木と稔里はごく世間一般にありがちな夫婦としか思えなかった。少なくとも柾木が声を荒げたり、ましてや暴力をふるったりするさまを目にしたことはない。どちらかといえば不満から感情的なことを口走るのは稔里のほうだった。それも「日曜日だからって、いつまでもごろごろして」といった、どこの家庭にもある凡庸な不満に過ぎなかった。
だからといって可能性は否定できない。子供に過ぎなかった自分は両親のすべてを知っているわけではない。柾木も、まさか妻が都合よく自死するとまでは計算しなかっただろう。なにか稔里にとって重い事実を告白し、平手打ちされた。それは稔里を暴力に走らせるほど動揺させ、死を選ばせるほど重い事実だったのではないか。
(自殺……)
消波ブロックから飛び降りて自殺する者など、いるだろうか。
母が死を迎えた実際の場所を陵司は目にしたことがない。とはいえ、あの公園の消波ブロックはごく標準的な、せいぜい数メートルの高さのものだったように思う。人は打ちどころが悪ければ椅子の高さから転落しただけで死ぬ。だが、自殺としてはあまりに不確実な手段だ。
「へっ……」
くしゃみがでた。陵司は手の甲で鼻のまわりをこすり、手にぶらさげていたマスクを装着した。
眠ったまま冷たい風にさらされ続けたのがいけなかったのだろう。鼻がぐずついている。軽く風邪をひいたのかもしれない。夢の中では暑さに
陵司は夢の中の出来事を反芻した。リビングで凜に糾弾されたとき、自分は本当になにもわからなかった。妻の死を望んでいたなら、心の中には焦りがあったはずだ。
(いや、ちがう)
意味がない。悪夢はただの悪夢に過ぎない。陵司は強く自分に言い聞かせた。夢の中の自分は本当の柾木ではない。こうあってほしいと願う父でしかない。
(本当に?)
現実的に考えて、父の犯行を夢の中で三度もくりかえすなど尋常の出来事ではない。これは呪いなのだろうか。犯行を見抜かれ無念に思った父の怨霊が四半世紀近い歳月が過ぎた今もなお廿六木荘に巣食っているのか。ああしていれば罪を免れていたかもしれないとくりかえし考えているのだろうか。
陵司は苦笑いを浮かべて頭をふった。馬鹿ばかしい。そんなおかしな心霊現象など聞いたことがない。仮にあったとしても、毎回あの探偵に犯行を見抜かれる理由がわからない。想像の中でくらい、あの忌々しいおばちゃんの鼻を明かしてほしいものだ。
しかし、どうすればいいのか。今度はかなり慎重だった。尻尾をつかませないよう入念に考えて行動した。ジャケットからガムをみつけたこと、噛み終わったガムが屑籠に捨てられた可能性を疑ったこと。どちらも犯人としては最善の行動だったはずだ。それが
今にして思えば飯芝もグルだったのだろう。車を調べた渕村が飯芝を手招きし、しばらく小声で相談していた。あのときシナリオを打ち合わせたのか。偽の証拠としてジャケットをキッチンに隠し、それを飯芝が見咎める。その様子を見せつけることで飯芝は味方だと柾木に錯覚させた。
考えてみれば、渕村の立場にしてみると綱渡りの罠だ。柾木が必ずジャケットを調べるとは限らない。首尾よくガムをみつけても屑籠を調べないかもしれない。糾弾されても、ガムは罠だと気づいてしらばくれることもできた。
しかし、そのときはそのときだ。あの探偵は懲りずにまた別の罠を仕掛けてくるのではないか。ミスは減らすことができる。だが、こんな卑怯な手まで使う相手をどうすればいいのか。理屈でどうこう以前に、あの小憎らしいおばちゃんに勝てる気がしない。
(勝つ……)
勝って、どうなる。
父は逮捕を免れる。自殺せずに済む。めでたしめでたし、だろうか。
(まだ続くのか)
この悪夢はどうすれば終わるのか。これが本当に呪いのようなものだとしたら、犯行を見破られない手段をみつけるまで続くのか。
(勝つしかないのか、あの探偵に)
どうやって?
だいたい、あの探偵の勘の良さは異常だ。他人の家に上がりこんで、いきなりクローゼットを開けるような奴の行動をどうすれば予測できるのか。
(クローゼット?)
おかしい。なぜ渕村はクローゼットを気にしたのか。
そういえば、夢の中でも疑問に感じていた。初めの悪夢ではクローゼットに死体があり、たまたま凜が携帯電話にかけて呼び出し音がしたため渕村は覗いてみる気になった。今回は違う。蛍吾の死体は車に移してあった。渕村が訪れたとき物音はしなかったはずだ。
ひょっとして血の匂いのせいだろうか。通用口から入った渕村は、誰か人がいることを期待して物置部屋のスライドドアを開けて室内を覗いてみた。そのとき、かすかな血の匂いを嗅ぎつけたのではないか。スライドドアは勝手に閉まるし、小さな採光窓しかない部屋だから匂いがこもって当然だ。
人間の嗅覚は鈍りやすい。同じ匂いを嗅ぎ続けていると慣れてしまって感じなくなる。柾木も血の匂いに慣れてしまい、消臭の必要性に思い至らなかったのではないか。
(考えすぎか)
難しく考えすぎだ。これはただの悪夢に過ぎない。もっと単純なことかもしれない。
理屈なんてどうでもいい。頭の中にいる脚本家がインパクトのあるシーンを求めただけかもしれない。まだ死体すらみつかっていないのに、探偵と犯人が出会って早々に火花を散らす。熱い展開だ。観客をぐっと惹きつける良い導入だ。夢のシナリオを任された脚本家はそう思って、細かい理屈は気にせずタイプライターを叩いた。
玄関扉にたどりつく。ドアレバーに手をかけたまま陵司は動きを止めた。
(ひょっとして)
馬鹿げた考えが頭に浮かび、陵司は首をふった。血の匂いを嗅ぎつけたのでも、頭の中の脚本家がへまをしたのでもない。なぜ渕村がクローゼットを覗いたのか説明できる仮説がもうひとつある。
いくらなんでも、そんなことは現実にはありえない。頭を一振りすると、陵司は扉を開けて家に入った。
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