4 それは捨てておいて

 ドアハンドルに手をかける。ドアを開ける。腕にかけていたジャケットを半ば放り投げるようにして後部座席に置く。だらしなく崩れた白いジャケットをしばらく俺は見下ろしていた。まばたきをひとつして、車のドアを閉めた。

 そろそろ午後五時になるだろうか。まだ夕方の気配はない。空は青く、陽光は厳しい。リビングのエアコンで冷えた身体がまた汗に包まれる。

 離れた場所に軽自動車が駐まっていた。通用口のすぐ前だ。渕村が乗ってきた車だろう。道に迷った渕村は集まりに遅刻して気が急いていた。この家が本当に目的の廿六木荘なのか確信できていなかったのもあり、仮置きのつもりで通用口の真ん前に車を駐めた。車を降りたときセダンが視野に入るくらいはしただろうが、死体には気づかなかったらしい。

 外階段のほうへ目を向ける。俺はゆったりした足取りで歩き始めた。一歩、二歩、三歩。回れ右。セダンの後部座席に戻る。ドアハンドルに手をかける。ドアを開け、ジャケットを手にとる。

(念のためだ)

 裏地やポケットの中に指紋が残らないよう注意した。布は指紋を採取しづらそうだが、用心するに越したことはない。

(慎重になれ)

 凜によれば、こういうことらしい。蛍吾は戸田間家をでるときにはジャケットを着ていた。しかし暑さのため運転を始める前に脱いだ。助手席には凜が座っていたので、後部座席に置いた。

 俺も馬鹿じゃない。死体を隠すとき、車の中を軽く観察するくらいはした。それでもジャケットに気づかなかった。どうやら運転中にジャケットは後部座席から床へ滑り落ちてしまったらしい。床を覗いてみなければジャケットはみつからない状態になっていた。

 車を降りるとき、蛍吾はジャケットのことを失念したのだろう。廿六木荘を訪れたときにはジャケットなしの姿だった。

 渕村は見落とさなかった。後部座席の床に落ちていたジャケットをみつけ、一計を講じた。俺たちにみつからないよう足音を忍ばせ廊下からキッチンに入った。椅子の座面にジャケットを置き、テーブルに椅子を深く入れて一目ではみつからないようにした。

 後は簡単なことだ。リビングで俺たちに、これからキッチンで一人ずつ話を訊いていくと宣言する。そしてキッチンで、さも偶然みつけましたとばかりにジャケットを指し示せばいい。それだけで間抜けな俺が蛍吾の置き忘れたジャケットを見落としたことになる。

 煙草を喫おうとした飯芝が偶然キッチンに入らなかったら、この悪だくみは成功していただろう。だが、問題の本質はそこではない。

(なぜだ)

 あの探偵に、なぜ俺は目をつけられたのか。

(どんなへまをした)

 興信所勤めなら人並みの判断力はあるだろう。警察が捜査して万が一にも他に真犯人がみつかったなら信用丸つぶれだ。俺を犯人だと疑う相応の根拠がなければ、偽の証拠を残すなんて危ない橋は渡らないはずだ。

 まさか志摩子の命令で、慎太以外の誰でも良いから濡れ衣を着せるつもりなのか。いや、血は繋がってなくとも俺だって一応は九竜家の親族だ。優先順位からすれば罪をなすりつけるなら凜だろう。

 確たる物的証拠があるなら、それを示せばいい。そんなものは無いから搦め手を使おうとした。だとしても、なにかあるはずだ。聞いたら小学生でも納得できるくらいの論拠なしにこんなことはしない。それはいったいなんなのか。

 俺はジャケットの右ポケットのフラップをめくった。指を挿しこんで広げ、内側を覗く。なにか細長いものが入っていた。

(これは)

 ガムだった。封を切った、板状の辛口なミントガムだった。


 外階段は鉄製で、ところどころペンキが剥げて鉄錆が覆っている。庇で覆われ、日陰なのもあって薄暗い。俺が外階段を上がっていると玄関扉が開き、飯芝が姿を現した。

「ジャケット、車に戻してきましたよ――どうしたんです」

 飯芝の背中を追うようにして、渕村もでてきた。俺の顔を目にするなり気まずそうに目を泳がせる。飯芝も口ごもったが、観念したかのように頭を揺らした。

「こいつを帰らせようかと思いましてね」

「それはつまり」

「いえ、ここに来ていなかったことにしようというわけではありません。警察には正直に打ち明けます。ただ、ここに残しておくとまた馬鹿なことをやらかしかねない。いっそ遠ざけておくほうが無難かと思いましてね」

 これはチャンスかもしれない。

「飯芝さんがそう判断したんなら、わかりました」俺はうなずいた。

 渕村の車が廿六木荘の敷地を去るまで飯芝は見届けるという。外階段は狭いので、まず俺が先に玄関まで小走りで駆けあがった。入れ違いで飯芝と渕村が階段を下りてゆく。二人分の足音が遠ざかっていった。

 俺が玄関扉に手をかけたときだった。足音がひとつ止んだ。

「あなた」渕村の声がした。

「どんなミスをしたか、わかってるの」

 外階段を見下ろす。足をとめた探偵が上半身を捻じるようにしてふりかえり、不機嫌そうな顔で俺を見上げている。少し遅れて飯芝もふりむいた。

 あえて俺は黙っていた。しばらく睨み合いが続いた。

「手に」しびれを切らしたのか、初めに口を開いたのは渕村のほうだった。

「血がついていなかった」

「それが?」

「頭を殴られたら、あなたはどうするの」

「殴り返してやるよ」

 にっこり微笑み、俺は見えない敵を殴るしぐさをした。

「傷の具合を確かめるでしょう」渕村は仏頂面のままだった。

「当然、指先に血がつく。ハンドルにだってつく。いい? 蛍吾さんが不審者に殴られ、車に逃げ戻ってこの家まで運転し、意識を失った。そういうことがあったなら、手やハンドルに血がついてないなんてありえない」

「逃げるのに必死で、傷を確かめるなんて忘れたんじゃないか。あるいはそうだな、潔癖症で手が血で汚れるのを嫌ったのかもしれない」

 もちろん俺は知っていた。蛍吾は潔癖症ではなかった。埃塗れの物置部屋で電球の交換を頼んでも二つ返事で引き受けるような奴だった。

「その程度で俺を犯人だと決めつけたのか?」

 再び俺たちは無言になった。渕村は顔を背けると「行きましょう」と飯芝を促した。

「ああ、恩陀さん」いったんは階段を下りかけた飯芝がまたふりかえった。

「ひとつ言い忘れました。凜さん、気分がすぐれないようで、また二階に行ってます。慎太が連れ添っているから大丈夫でしょう」

 渕村が飯芝の背中を小突いた。二人は今度こそ階段を下りていった。

 俺は玄関扉を開けた。靴を脱ぎ、薄暗い廊下を進む。

(危なかった)

 正直、俺は動揺していた。手に血をつけることなど思いもしなかった。裁判で決め手になるとは思えないが、たしかに疑いのタネとしてはおかしくない。

 リビングに入る。飯芝に伝えられたとおり誰もいなかった。急がなければならない。凜はともかく、慎太はすぐに戻ってくるかもしれない。

 ソファの傍らにあるプラスチック製の屑籠を手にとる。いくつかゴミをかきわけると、恐れていたものがあった。

(正解だ)

 慎重になりすぎて正解だった。俺は指先で、屑籠の底に転がっていた銀色のものをつまんだ。噛み終わったガムを銀紙で包んだ塊だった。

 恐らく蛍吾は車に乗りこむとき、ジャケットからガムを一枚とりだして口に入れた。めくった銀紙はワイシャツの胸ポケットに入れ、残りのガムはジャケットのポケットに戻した。廿六木荘に到着し、ジャケットを後部座席に置き忘れた。

 当たり前だが、ガムを噛みながら人の家を訪れる奴はいない。車中か、あるいは車を降りて玄関ブザーを鳴らす前に蛍吾は口の中のガムを銀紙に包んだはずだ。ワイシャツの胸ポケットは携帯電話や車のエンジンキーがあった。そんなところにガムを包んだ塊を入れたら、なにかの拍子にガムが銀紙を突き破って携帯電話やキーにひっつくかもしれない。いったんは胸ポケットに入れたとしても気になるだろう。

 俺の目を盗んで蛍吾が、銀紙で包んだガムを屑籠へ捨てていたなら。そんなものがみつかったら蛍吾が廿六木荘を訪れていた決定的な物的証拠になる。可能性は低いと思ったが、確かめて正解だった――。

「あなたが犯人ね」

 廊下へ続く戸口に、渕村が立っていた。

「あ?」

 理解が追いつかない。追い払われたはずの渕村がなぜ戻ってきたのか。渕村の肩越しに飯芝の顔もあった。巨大遺跡を前に感嘆する観光客のような表情をしている。

「恩陀さん、説明してちょうだい。そのガムをどうするつもり」

「いや、これは」

「微量でも唾液からは血液型がわかります。DNA鑑定をすれば、誰が噛んだものか百パーセント証明できる」

 血の気がさっと引くと同時に、腹の底から怒りが込みあげた。

「これもおまえの仕業だろ! ガムにわざと気づかせて――」

「ポケットを漁ったこと、認めるのね」

 ぐっと喉が詰まり、俺は黙りこんだ。八方塞がりだ。

 わからない。渕村はいつ、屑籠の中にガムがあると気づいたのか。そもそも、こんなものをみつけていたなら動かぬ証拠として突きつければいいじゃないか。

(――そういうことか)

 頭の中が真っ白になった。

「あと、それは捨てておいて」

 私の噛んだガムだから。やや気まずそうな顔で渕村は言った。

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