8 夢の中で会っている

 心地よい香りがした。陵司が瞼を開くと、ローテーブルに友兎がマグカップを置いたところだった。身を起こす。胸元からコートが滑り落ちた。

「はよっす」

 いったんはローテーブルに置いたカップを、友兎が再び手にとった。差しだされたそれを陵司は両手で受けとる。陶器越しにコーヒーの熱さを感じた。一口啜る。

(眠ってたのか)

 口の中に苦みが広がる。不思議と頭の中が冴えてきた。

(眠れたんだな)

 これまでは眠ったと思っても本当の睡眠をとれていなかったのだろう。悪夢のせいで脳が休息できていなかった。渕村や千逢との会話の後で体調が悪化し、陵司は気を失った。限界に達してブレーカーを落とすようにすべての精神活動がストップし、ようやく深い睡眠をとることができたらしい。

 陵司が着けていたと思しきマスクがローテーブルに置かれていた。呼吸が楽になるよう外してくれたのだろう。

「何時ですか」

 一人掛けのソファに飯芝が座っていた。物憂い動作で腕時計を確かめると、時刻を口にした。気を失ってから三十分も過ぎていなかった。そんなに短い時間だったのかと陵司は驚いた。新体操の選手に生まれ変わったかのように身体が軽い。

「すみません」陵司は頭を下げた。

「運んでくれたんですね」

 玄関で気を失って倒れた陵司を二人がかりでリビングまで運び、三人掛けのソファに横たわらせたのだろう。意識のない男の身体がどれだけ重いものか、陵司は夢の中で何度も思い知っていた。

 不自然な静寂があった。友兎はキッチンの食卓から運んできたと思しき椅子に座っている。椅子の前後を逆にして、乗馬のように足を広げてまたがり、背もたれに腕をかけている。飯芝は宙をみつめ、マスクをつまんでは軽くひっぱる動作をくりかえしていた。

 不意に飯芝は動きをとめた。友兎に視線を送る。お前が話すんじゃないのか。そんな合図のようだった。

 友兎は頭を掻いた。めんどくせ、と小声でつぶやく。

「恩陀さん、もうご存知みたいすけど、こちらが飯芝令さんです」

「よろしく」微笑みながら飯芝は頭を下げた。

「それで陵司くん、どうして初対面なのに私のことがわかった?」

「マスクを」

「ん?」

「マスクをとって、顔をよく見せてください」

 納得したように飯芝はうなずき、左右の耳にかけていたマスクの紐を外した。玄関で顔を合わせたときは白髪のせいか年老いて見えたが、マスクを外すと働き盛りに見えた。

「やっぱりだ」

「なにがやっぱりなのかな」

「あんたとは夢の中で会っている」

「ほう、夢ね」

「夢だ」

 陵司は覚悟した。俺はもう、とっくに足を一歩踏みだしている。たとえ頭がおかしいと思われようが前に進み続けるしかない。

「しかし陵司くん、こうは考えられないかな」

 倒叙ミステリの犯人じみた物言いで飯芝は言葉を続けた。

「二十三年前の事件のとき、君は廿六木荘に帰ってきている。すべてが終わった後だったがね。さすがに私も記憶が薄らいでいるので確かなことは言えないが、すれ違うくらいのことはあってもおかしくない。潜在意識に残っていた私の顔が夢にでてきたというのはどうかな」

「そうかもな」

「たしかあの夜は、ゴリラが両腕をふりあげているTシャツを着た若い子を見かけたが」

「人違いだな」

 内心の動揺を隠しつつ陵司は断言した。まあ、オランウータンとは言ってないのだからフェアだろう。

「そうか、しかしだな――」

「テストさせてくれ」なにか言いかけた飯芝を、陵司は遮った。

「どうして渕村徳恵は霊能力者だと思ったのか、夢での経験からどんなふうに頭を働かせたのか説明する。戯言たわごとだと感じたら、そう言ってくれていい。正しいところがあるなら教えてほしい。正直、俺にも信じられないような話だ」

 飯芝がうなずいたの機に、陵司は説明を始めた。これまで三度もくりかえされた悪夢のことを。初めは過去をそのままなぞっていたが、二度目、三度目は異なる道筋をたどった。くわえて、かつて稔里が命を落とした日に蛍吾から聞いた話についても説明した。乾いた喉をときおりコーヒーで潤しながら陵司は語り続けた。

「つまり、陵司くんの推理はこうかな」静かに耳を傾けていた飯芝が口を開いた。

「三度目の悪夢で渕村が物置部屋を覗いたのはおかしい。その時点では殺人があったことを知らなかったのだから。だが――夢の中の出来事に合理的な説明をつけても意味がないのはさて措くにせよ――地下階で物置とくれば換気が悪いだろう。職業柄、血の匂いに渕村が敏感だったとしてもおかしくはない。殺人の気配を嗅ぎつけ、最悪の可能性を心配してクローゼットを確認したとは考えられないかな」

「その可能性はすでに考えた」うなずきながら陵司は言った。

「ただの夢なんだから、そもそも理屈なんてなくてもいい。俺の、なんていうか、深層心理って奴が面白い場面を思いついただけかもしれない」

「なるほど」

「それから、もうひとつ別の仮説を思いついた。いろんなことを説明できる仮説だ」

「というと?」

「事実を並べよう」

 稔里を偲ぶ集まりを提案したのは志摩子だった。

 飯芝は霊能力者を紹介できると柾木に話した。

 かつて志摩子は霊能力者を呼び、磯貝の死を霊視させた。

 集まりに招かれたのは稔里が事故死したとき廿六木荘にいた者たちだった。

 稔里は死の直前に柾木と会話し、平手打ちをした。

 それを偶然知った慎太は志摩子に相談し、後は大人同士で話をすると言われた。

 集まりを始めるには蛍吾が必要だと飯芝は言った。

 飯芝たちは稔里が事故死した公園から廿六木荘へ来た。

 志摩子は廿六木荘に来なかった。

「夢の中で知った情報も混じっているが、そこは勘弁してくれ。憶測でしかないのは百も承知だ。点を線でつないでいくと、俺にはあの日こんなことが起きたと思えてきた」

 唇を舐めると、陵司はそれを口にした。

「あの日、あんたが廿六木荘へ来る前に、霊視はとっくにんだ」

 唇を閉ざす。飯芝も友兎も、身動みじろぎすらしようとしなかった。反論が来ないことを確かめ、陵司は言葉を続けた。

「ビデオテープの映像には、死の直前に母が父を平手打ちする光景が残っていた。それは慎太の口を介して志摩子さんに伝わった。ひょっとすると志摩子さんは蛍吾さんを呼んでネックレスを巡るいきさつを聞きだしたかもしれないし、そこまでしなくとも母には駆け落ちした過去があることを知っていた。さて、志摩子さんはどう思ったか? 警察が調べるかぎりでは父にはアリバイがある。だが、なにか推理小説じみたトリックを使ったのかもしれない」

「そこで、霊能力か」

 独り言のように飯芝が言った。陵司は小さくうなずき、言葉を続けた。

「霊視は公園でやったんだ。志摩子さんも立ち会って、母の死は本当に事故だったのか霊能力で確かめさせようとした。磯貝が失踪したときと同じ霊能力者を呼んで、死の間際に母がどんな光景を目にしたか霊視させた。それが渕村さんなんだろう?」

 薄い笑みを浮かべたまま、飯芝は無言でうなずいた。

「結果はシロだった。だから志摩子さんは廿六木荘に来なかった。知りたかったことはもう知ることができたからだ。後は説明するだけだった。飯芝さん、あんたがどこまで話すつもりだったのか俺にはわからない。常識的に考えれば霊能力のことは伏せたかもしれない。蛍吾が必要ってことは、母の死は事故だと太鼓判を押すところまでは全員に話すつもりだったんだろうな」

 説明しながらも、あまりに常軌を逸した内容に陵司の胸には疑問符が湧いてきた。霊能力者なんて得体のしれない者が言うことをあの志摩子が信頼したのか?

「奥様は公平な方だった」昔日を懐かしむような口調で飯芝が言った。

「身内かどうかは関係ない。信頼に足る相手か、直感に頼らず偏見も持たなかった」

「それは……この馬鹿みたいな話を認めるってことか?」

 飯芝はゆっくりとうなずいた。かすかな微笑みが口元に浮かんでいた。さっきまでの面白がるような笑みとは異なる、泰然自若とした笑みだった。

「認めよう。別にどうしても秘密にしたいわけじゃない。世の中の常識に照らして誰もこんな話を信じないから黙っているしかなかった。奥様が怪しげなオカルトに染まっているなどと悪い噂が立つのが目に見えている。陵司くんのほうから信じてくれるなら願ったり叶ったりだよ」

 軽い眩暈を覚え、陵司は額に手をあてた。信じがたい話が現実だと認められたからだろうか。それとも熱がぶり返したのか。

 もしも渕村が霊能力者なら、たとえスライドドアが閉じていようが他の場所へ死体を移していようが、物置部屋に死者の気配を嗅ぎとるのではないか。崖っぷちで立ったまま眠りながら目にした三度目の悪夢から目覚めたとき、陵司はそんな馬鹿げた仮説を思いついた。そして、さすがにそんなことは現実にはありえないと首をふった。

 浜風千逢との会話を思いだす。幻聴だとか、見えない相手と話していただとか、それらは霊能力と関係しているように思えてきた。恐らく渕村は能力のことを同居する家族には伏せているのだろう。精神科の治療を受けることは家族に説得された都合上、やむを得なかったのではないか。おまえも統合失調症にかかるかもしれないから気をつけろという口実で、血筋である千逢に霊能力が開花しないか危惧したのだろう。

 渕村が霊能力者なのか確かめるにはなにを訊くべきか考えを巡らせた。なにも知らされていない千逢にストレートな質問をしても確証は得られない。霊能力者なら両親も占い師とか神主とかそれらしい職業に就いていたのではないかと期待し、ああいう質問になった。

「渕村は、幽霊を直接目にしたり会話したりはできないそうだ。命を落とした者が、意識を失う直前まで体験したことを追体験できるらしい。遡れるのはせいぜい数分、霊視した相手次第だそうだ」

「ひょっとして、考えは読みとれないのか?」

 蛍吾の話を思いだす。磯貝はなにかを探していたと霊能力者は告げたが、なにを探していたのかまでは明言できなかった。たとえ追体験できるのは数分だけにせよ、もし心まで一体化するのなら探し物の正体くらいはわかりそうなものだ。

「そう、心や感情はわからない。五感だけだ。目にしたこと、耳にしたこと、手足の感覚などだな」

「死んでから時間が経っても読みとれるのか?」

 稔里が公園で事故死したのは、廿六木荘での事件から二年前だ。

「相性はあるらしいな。稔里さんの場合は問題なかったようだ。集まりの開始を遅らせたのは手違いがあったせいだ。相手の死体の近くか命を落とした場所でなければ渕村は能力を使えないらしくてな。稔里さんが亡くなった正確な場所を事前に組合のほうで調べておくはずだったが、連絡の漏れがあった。ああ、もちろん渕村だけ廿六木荘への到着が遅れたのは道に迷っただけで特別な意味はない」

 忘れていたとばかりに、飯芝は手にしていたマスクを装着した。

「保証する。渕村の能力は本物だ。若い頃の私はさんざん疑ったよ。奥様が詐欺集団に騙されているのではと心配したものだった。それからどれだけ一緒に仕事をしたものか。そうそう、県警には協力者がいたよ。ただし渕村の能力は伏せていた。信じられるわけがないからな。勘が鋭くて、なぜわかるのか本人にも説明がつかんのだと苦しい言い訳を何度もさせられた」

 背もたれに後頭部を押しつけ、天井を仰ぎながら飯芝は喉の奥でこもるような笑い方をした。

 ようやく陵司は飯芝の行動が腑に落ちた。殺人事件が起きているのに警察を呼ばず、興信所勤めとはいえ民間人に過ぎない渕村になぜ捜査をさせたがったのか。

 廿六木荘に到着して間もなく、渕村は霊能力の助けを借りて犯人は柾木だとわかっていた。だが、物的証拠がない。警察関係者たちに霊能力のことは明かしておらず、犯行現場から遠ざけられると捜査ができない。柾木が犯人だという動かぬ証拠をみつけてから警察に来てもらうのが飯芝たちにとって最善の選択だった。

 口元にカップを運び、陵司はほとんど冷めたコーヒーを口に含んだ。喉を苦味が通り過ぎると、唇を開いた。

「――本題に入っていいか」

 陵司がそう告げると、飯芝の笑い声が止んだ。

「今更この事件を調べる目的はなんだ」

「二乃理くんから聞いてないかな」

「聞いた。ルポライターとしての修行だってな。まあ、嘘だろうが」

「なぜ、そう思う」

「とぼけないでくれ。あんたと二乃理さんはグルだろう」

 陵司は友兎に視線を向けた。逆向きにした椅子にまたがり、背もたれに顎を乗せ、眠そうに瞼を細めて傍観者のような顔をしている友兎がいた。

「俺に悪夢をみせているのはだろ」

 友兎の表情に変化はなかった。これがポーカーフェイスだとしたら大したものだと陵司は思った。睨み合いを続けていると、やがて友兎は浅い溜め息をひとつ吐いた。

「飯芝さん」椅子から立ちあがると、友兎は陵司に背を向けた。

「この仕事、降ります」

 それだけを言い残して友兎はガラス戸を開け、キッチンへ姿を消した。

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