4 手抜かり
潮の匂いがする。海が見えてきた。先を歩く飯芝が崖の手前で足をとめた。恐るおそる足元を見下ろしている。
裏庭は半ば雑草に覆われている。崖に近づくほど小石や砂利、岩が剥き出しのところが多くなっていく。岩肌が放物線のように緩やかなカーブで海へ落ちこんでいる。足を滑らせるのを懸念したのだろう、飯芝はかなり手前に立っていた。
静かな午後だった。潮騒に身体が包みこまれる。陽光に照らされた海が広がっている。湾に沿って海岸通りが大きくカーブを描いている。飯芝の隣に並んだ俺は遠くを眺めた。沖のほうに漁船と思しき小さな船があった。
海風が吹いているが、それでも暑い。飯芝はカンカン帽を被っているが、こっちは無防備だ。横顔をうかがいながら、長い話にならないことを俺は祈った。
飯芝令は恐らく四十代前後だろう。ひょっとしたら俺より年下かもしれないが言い知れぬ威圧感がある。なにかこちらにやましいことがあるような気持ちにされる。正直、苦手な相手だ。
八日乳市で誰かと会話していて「組合」という言葉がでてきたら、ほぼ
飯芝は組合の要職に就いている。銀行員の俺は、組合に加入している会社や店への融資といった相談をたびたび飯芝から持ちかけられる。顔が広く、まわりから信頼されているようだ。言葉遣いも柔らかだが、なぜか言いなりにされているように思えてくる。上得意客と銀行員の関係だから引け目を感じるだけかもしれないが。
もうひとつ、よくわからないことがある。九竜家を訪れると飯芝とすれ違うことが多い。どうも志摩子とひんぱんに会っているらしい。疑問に思い稔里に訊いてみると「茶飲み友達みたいなものと思ってたけど」と答えた。友人にしては年齢差が開きすぎているだろうと訊き返すと、それもそうねと妻は笑った。
九竜志摩子が来ない。では、集まりは中止になったのか。玄関で俺が疑問を口にすると、飯芝は首を左右にふった。少し話したいことがあると俺を誘った。雰囲気を察したのか、慎太は一人で廊下を戻っていった。
「恩陀さん」
海をみつめていた飯芝が、おもむろに口を開いた。
「渕村はもう来ましたか」
誰のことだろう。かすかに聞き覚えのある名前だ。
とまどったが、すぐに思いだした。志摩子から電話で、飯芝と誰かもう一人が今日の集まりに参加すると伝えられた。そのとき名前も教えられたはずだが忘れてしまったのだろう。
俺は首を左右にふると、まだ慎太たちしか来ていないことを説明した。
「そうですか、また道に迷ったかな。公園からここまで車なら五分くらいでしょうに」
「
稔里が事故死した公園だ。ここから徒歩で二十分ほどの距離だから、車なら数分だろう。
うんうんと飯芝はうなずき、それから空を見上げ、小声でなにかつぶやいた。しばらく考え事をしていたかと思えば、不意に俺のほうへ顔を向けた。
「お一人で生活されているのですか」
「息子が今年の春から上京したんで、そうですね」
「ご不便はないですか」
「なんとかやってます」
内心、俺は首を傾げた。こんな世間話ならリビングですれば良さそうなものだ。
「失礼ですが再婚を考えたことは」
なるほど、これなら高校生に聞かせたくない話だ。俺はくっと喉を詰まらせると、口にすべき言葉に迷った。
その迷いを飯芝は答えとして受けとったらしい。わかってますよと言いたげな、薄い笑みを浮かべた。
「私の祖父は、働き盛りに脳溢血で倒れましてね」
「はあ」
「それでも祖母は息子二人を大学までやったんだから、たいしたものです。再婚は考えなかったか訊いたことがあるんですが、稼ぐのに忙しすぎたと。最近は大学の授業料も値上げしてますから昔と今とでは違うでしょうがね」
「正直、再婚は考えてないですね」
長々と続きそうな飯芝の身の上話を、打ち切ってやらんばかりの勢いで俺は言った。恐らく飯芝は先兵に過ぎず、後ろには志摩子が控えているのだろう。脈ありなら縁談話を持ちこむつもりなのかもしれない。ひょっとして今日の集まりはそういう意味もあったのか。余計なお節介だ。
「もう四十七ですしね。たしかにこんな急に一人きりになるとは思わなかった。でも、まあ、なんとかやっていきますよ」
「余計なお世話かとは思いますが、もう少し聞いてください。奥さんのことを思いだすことはありませんか。仕事に打ちこみすぎてへとへとになったり、夜になかなか寝つけないことは?」
じっと飯芝は俺の顔を覗きこんでいた。眉根を寄せ、視線を揺るがせもしない。患者の不養生を疑う老医者のような、ごまかしたなら死んでも知らんぞとでも言いたげな表情をしている。
「ないですよ」
わざとらしく俺は顔の前で手の平を左右にふってみせた。
「
唐突な名前に俺は固まった。顔の前でふっていた手がゆっくり落ちていく。代わりに胃液が逆流したような熱さが喉にこみあげてきた。
「忘れるわけがない」
拳を握り締める。頭の中を二年前の光景がかすめた。海を背に立つ稔里、ずっと握りしめていたネックレス。鎖の先から垂れる宝石が直射日光を反射して赤く輝いている。
「あいつ、また戻ってきたのか?」
飯芝は無言で首を左右にふった。
「磯貝がいなくなったとき、奥様は霊能力者を呼びました」
「そういえば稔里がそんな話をしていたな……本当に?」
「幽霊は本当にいるのか? 本物の霊能力者なのか? そういう意味の質問ならば、さてね。どうも判断がつきません。常識では説明できないようなことであればいくつか経験がありますが、私が騙されただけかもしれませんし」
強い海風が吹いた。飛ばされないよう、飯芝が帽子を手で押さえる。
「私が言えるのはこれだけです。あまりおおっぴらには話せませんが、組合はそういう者を斡旋することもしてるんですよ。お嬢様を……いえ、稔里さんを亡くされたことでなにかお困りのことがあれば、その手の相談にもうちはのれます」
こいつは真顔で冗談を口にする趣味でもあるのだろうか。俺は訝ったが、飯芝の目に狂的なところは感じられなかった。
三年前に逮捕された教祖のひげ面が脳裏に浮かんだ。あの頃は連日のようにオウム真理教が関わった殺人やテロ事件のことが報道されたものだった。銀行のお得意様な上に志摩子から信頼されている人物のはずだが、疑ってかかるのが安全なのかもしれない。
「こんな話をするのはですね、恩陀さん、あなたの顔色がずいぶん優れないように見えるからなんですよ」
「暑さ続きで寝不足だからですかね」
「なら、いいのですが。もし本当にお困りのときはご相談ください」
「ここで海でも眺めながら考えてみますよ」
俺の軽口に飯芝はうなずくと、来た道を玄関のほうへ帰っていった。一人残された俺は腕時計を確かめた。
歩きながら俺は背中に手をまわした。ベルトに挟んでいた懐中電灯を手にとる。
白いペンキが塗られた廿六木荘の壁に歩み寄る。壁の下のほう、足元に窓があった。物置部屋の採光窓だ。窓枠のすぐ近くに懐中電灯を置く。
(ツイてるな)
玄関のほうへ歩きながら、俺は幸運に感謝した。あまりにも運が良すぎる。殺人という最大の不運を神が帳尻合わせしてくれたかのようだ。
飯芝が玄関ブザーを鳴らしたときは、口実を設けて外にでるつもりだった。蛍吾が来ないのが気になるから家のまわりを探してみる。そう言い訳するつもりだった。飯芝が誘ってくれたおかげで自然に外へでることができた。
飯芝と話していた間、リビングには慎太しかいなかったはずだ。これでアリバイのない慎太に罪を着せることができる。
あとは、どうやって蛍吾の死体を発見させるか。まずは集まりを終える。それから慎太や凜に声をかけて蛍吾を探そう。まずは家の周囲から探すのが自然だ。どうにかして物置部屋に誘導しなければならないが、なにか良い口実はあるだろうか。ドサクサに紛れて窓の外の懐中電灯を手に入れ、いつも吊り下げている場所に置く。死体を発見し、それから警察に電話して――。
(電話?)
玄関扉に手を伸ばしかけた俺は、動きを止めた。
リビングにいたとき凜が話していなかったか。去年、蛍吾も凜も携帯電話を買ったと。俺は殴り殺した蛍吾を布カバーでつつんでクローゼットに押しこんだ。所有物をなにも確認していない。もしも携帯電話を身に着けていたら。
(――しまった)
悲鳴が聞こえた。女の声だった。
俺は玄関扉を開けた。靴を脱ぎ捨てると、階段へと走った。
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