5 興信所の仕事

 藤色の麦藁帽を脱ぐと、中年婦人はそれを団扇代わりにして顔を扇いだ。涼しさに喜ぶどころか、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「私にどうしろと?」

「いつものことを」飯芝が言った。

 呆然として俺は二人のやりとりを眺めていた。こいつら、なにを言ってるんだ。

 戸が開いたクローゼットの向こう、頭をかち割られた死体が転がっている。ミイラみたいに布でくるまれている。そんなものをみつけたら普通はどうする。誰だって慌てるだろう? 警察に知らせるだろう?

「状況が違う」

 渕村という女が、じろりと飯芝を睨んだ。眉間に皺を寄せている。邪魔な虫でも見るような目つきだ。薄暗さに陰影が強調されるせいか、凶悪な表情がますます険しく感じられる。

「県警には私のほうから話をつけておく」飯芝は事務的な口調で言った。

「いつもどおり興信所としての職務を果たしてくれ」

「興信所はこんな仕事しない」

 ふう、と溜め息を吐き「しかたない」と渕村がつぶやいた。自分に言い聞かせるような口調だった。

 玄関に戻ってきた俺が耳にした悲鳴は、想像したとおり凛のものだった。リビングにいた飯芝、そして俺はほとんど同時に物置部屋へ駆けつけた。そこには血塗れの蛍吾と、床にへたりこんで恐怖に目を見開く凜、そして凜を落ち着かせようと必死に声をかける慎太がいた。

 慎太から話を聞くと、次のようなことがあったらしい。リビングに飯芝が一人で戻ってきたのを機に、慎太は凜の様子を見に行った。体調不良のため陵司の部屋で休んでいた凜は目を覚まし、二人は一階に下りた。まだ蛍吾が姿を見せないことを不審に思い、慎太の提案で凜は携帯電話にかけてみた。かすかな音が階下から聞こえ、二人は物置部屋のクローゼットに蛍吾の遺体を発見した。

 異様なことが起きたのはそれからだった。警察に通報すべく、固定電話がある一階へ戻ろうとした俺を飯芝が引きとめた。

 死体を前にして、飯芝は携帯電話でどこかに電話をかけた。漏れ聞こえた言葉のはしばしからして通話の相手は九竜志摩子に間違いなかった。

「もうすぐ渕村が来ます」

 警察を呼ぶ前に、渕村に調査をさせてほしい。飯芝はそう言って頭を下げた。

 俺はとまどった。警察の調べが遅れるほうが死亡推定時刻の幅が広がる。アリバイ工作を仕掛けた俺としては好都合だ。だが、そんな本音を口にできるわけがない。常識人として俺は飯芝に抗議せざるを得なかった。

「身内が犯人だったら、まずいからだろ?」

 てっとり早く俺は核心を突いた。さっきの電話のやりとりからして、警察を呼ぶことを拒んだのは志摩子だ。高校生の慎太がもし殺人犯だったら九竜家の家名に傷がつく。それを恐れて、まずは状況だけでも把握したいと考えたのだろう。まさか慎太が犯人なら証拠隠滅をたくらむほどあくどいとは思いたくないが。

 飯芝はろくに反論しなかった。くりかえし「申し訳ないが」「今だけは」と頭を下げ続けた。けっきょく渕村の調査は三時間だけ、三時間後にたとえなにもわかっていなくとも必ず警察を呼ぶと約束させた。

 そんな押し問答をしているうちに「ごめんください」と声がした。通用口に中年婦人が姿を見せた。それが渕村徳恵だった。飯芝が手招きして物置部屋に案内し、死体を前に状況を説明した。不承不承ながらも渕村は捜査することを了承した。

「これが凶器」

 屈みこんで死体を観察していた渕村が、血塗れの懐中電灯を指差した。

「普段はどこに?」

 渕村が顔を上げ、俺のほうを見た。ここからが重要だ。息を吸い、用意していた言葉を口にしようとした瞬間、スライドドアが開いた。

「リビングのだと思います」

 慎太が部屋に入ってきた。ショックを受けた凜を物置部屋から連れだし、どこかで介抱してきたのだろう。

「気になって、見てきたんですよ。抽斗からなくなってました」

「あなた、ここの子?」

「え?」

「ひとさまの家の懐中電灯の置き場、どうして知ってるの」

 そういうことですか。慎太は首肯した。俺が懐中電灯の置き場所を忘れたこと、リビングを探すよう頼まれた経緯を説明した。

「そういえば明かりはどこで点けるんだ」

 部屋の暗さが気になったのか飯芝が部屋を見渡した。電球が切れていることを俺は教えた。

「犯人は被害者とこの部屋に来た」渕村が人差し指の背を顎先にあてた。

「なにか探しに来た。この部屋は暗い。だからリビングの懐中電灯を持ってきた」

「待ってくれ」

 望まない方向に推理が進み、俺は慌てて口を挟んだ。

「それはない。懐中電灯なら、この部屋にもあるんだ」

 俺は棚を指差した。棚の柱に釘を打ってあり、そこから懐中電灯がぶら下がっている。

 ここに懐中電灯をぶら下げるのにどれだけ苦労したことか。慎太と凜が死体を発見し、警察に通報するか否かで俺は飯芝と押し問答をした。通用口から声がして、渕村だと気づいた飯芝が出迎えに行った。その一瞬の隙に俺は行動した。片づけてあった脚立をとりだし、それに乗って採光窓を開け、懐中電灯を取った。犯罪者は誰でもこんなコントじみたことをするものだろうか。

 おまえはリビングにいなさい。背後から、飯芝が慎太に呼びかける声がした。

「はあい……ああ、恩陀さん」

 部屋からでていこうとした慎太が足をとめ、自動的に閉まろうとしていたスライドドアを手で押さえた。

「こんなときになんだと思われるかもしれないですけど、忘れるとまずいんで伝えておきますね」

 次の瞬間、俺は不思議な体験をした。

 ――恩陀さん、あれの買い置きありますか。

 人間の精神構造はいったいどういうことになっているのだろう。飯芝が訪れる直前、リビングで慎太が発した言葉が耳に蘇った。まだ慎太は決定的なことを口にしていないのに、ぎりぎりのタイミングで思考が爆発的に連鎖した。

 懐中電灯を探してほしいと俺は慎太に頼んだ。首尾よくそれはみつかった。その後で、買い置きはあるかと質問された。これが早押しクイズなら回答者全員が一斉にボタンを押しただろう。万事そつのない慎太が停電の備えだという懐中電灯をみつけてなにを確認するか、誰にだって想像がつく。

「あの懐中電灯、みたいでしたよ」

 背筋を寒気が走った。俺は恐るおそる目をそちらへ向けた。

 指紋を気にしたのだろう、ハンカチで包むようにして渕村は柱の釘から懐中電灯を手にとった。ずんぐりした指がスイッチを入れる。明かりは灯らなかった。いったんスイッチを切り、もう一度入れ直す。やはり変化はなかった。

「渕村、さん」

 息苦しさを覚えながら俺はなんとか声を絞りだした。なにか言わなければならなかった。

 だが、俺の呼びかけを探偵は無視した。暗がりをゆったりした足取りでクローゼットへ戻る。屈みこみ、布カバーの上に転がっているもう一本の懐中電灯に指を伸ばした。

 明かりが灯った。渕村が、光の輪を俺の顔へ向ける。まばゆさに思わず瞼を細めた。

「あなたが犯人ね」

 慎太が息を呑んだ。うろたえた飯芝が「どういうことだ」と声をあげた。

「凶器の懐中電灯は初めからこの部屋にあったもの、あそこのはリビングにあったもの。それはわかるでしょう」

 物わかりの悪い生徒に教えるような口調で渕村が飯芝に告げた。

「犯人は凶器をリビングの懐中電灯に見せかけたかった。そうすることで、そこの坊やが懐中電灯をみつけた時刻より後に犯行が起きたと思わせたかった。裏返せば?」

「本当の犯行時刻はそれより前だった……慎太たちが来るよりも前……」

 待ってくれ。膝が震えだしそうになるのをこらえながら俺は叫んだ。

「俺がいつ、どうやってリビングの懐中電灯をここに運んだって言うんだ!」

「それは警察が調べればいい」

 絶句した。服装に隠しどころがないこと、絶えず人の目があったことを説明しようしていた俺の口は、半開きのまま固まった。

 戯れのつもりなのか、渕村は懐中電灯で自分自身の顔を照らした。薄闇の中、お世辞にも美しいとは言えない怒りに満ちた鬼のような形相が浮かびあがった。

「私はミステリードラマの刑事でも名探偵でもない。どんなトリックを使ったか知らないけど、そんなのどうでもいい。私は――」

 興信所の仕事をするだけ。そう言って、くすりと微笑んだ渕村が懐中電灯のスイッチを切った。物置部屋が暗がりに沈んだ。

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