6 夢の理屈
誰かに肩を揺さぶられた。陵司が瞼を開けると壁掛けテレビがあった。画面は真っ暗で、なにも映っていない。膝から喉元くらいまでの高さがある大きなものだ。
(あれは)
夢の中の光景が蘇る。テレビを載せる台。抽斗に入っていた懐中電灯。
(ブラウン管だったな)
昔のテレビはそうだった。奥行きがあった。だから載せるための台が必要だった。いろんなことが少しずつ変わっていく。
すんません、と友兎が言った。もう眼鏡をしていない。顔の下半分をマスクで覆っているせいか、すまながっている表情には見えなかった。
「そろそろ時間なんで」
一人掛けのソファに友兎は腰を下ろした。ローテーブルからリモコンを手にとり、ボタンを押す。真っ暗だった画面が明るくなった。
陵司も聞き覚えのあるオンライン会議サービスのロゴが映った。ローテーブルにあるカメラの映像なのだろう、ソファに座る陵司と友兎の姿が映っている。マイクスピーカーも置かれており、ヘッドホンはしなくて良いらしい。
ゆっくりと陵司は左右を見渡した。棚の類を置いていたのだろう、壁紙が日焼けせず白さが残っている。すでに運びだされたのか床に絨毯の類がなくフローリングが剥き出しだ。
生まれてから十八年間も過ごしたリビングだ。それなのに親しみを感じられない。陵司と友兎、たった二人のためには空間が広すぎる。家族で過ごしていれば生じる雑然とした感じが、生活感がない。
窓のほうに陵司は視線を向けた。遠くまで岩棚が続き、打ち寄せる波が白く砕けては引いていく。意識を集中すると、かすかに波の音が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
膝の上でタブレットを操作していた友兎が、陵司のほうへ顔を向けた。
「ああ? うん……」
壁掛けテレビに陵司は視線を戻した。ソファに座る自分が映っていた。安物の背広を着た中年男だ。残業で徹夜したような、疲れ切った顔をしている。人と顔を合わせるのだからと思い、朝食の後で着替えた。アパートをでるとき寝坊して慌てたこともあり、とっさに背広を着てしまった。
手の平で顔を覆う。洗面するように揉んだ。瞼をぎゅっと閉じ、見開く。自分に言い聞かせるように現在の状況を陵司は心の中で唱えた。俺は今、実家にいる。ルポライターの二乃理友兎に誘われ、二十三年前に父が人を殺した理由を探ろうとしている。
「夢をみた」
「また夢っすか」
「まただ」
ただの夢でしかない。だが、妙な夢だった。
なぜ血文字のことを知っていたのか。物置部屋で友兎に問い詰められ、陵司は今朝の悪夢について説明した。二十三年前の柾木に憑依したかのように殺人から自殺まで夢の中で体験した。
恐らくソファに蛍吾が血文字を残したことは事件当時に誰かから聞いたのだろう。警察から説明を受けたのかもしれないし、凛や慎太あたりから教えられたのかもしれない。歳月が過ぎるうちに陵司の記憶は風化した。二十三年ぶりに廿六木荘で一夜を過ごした興奮から失った記憶が蘇って、あんな夢になったのではないか。そう説明すると友兎も納得したようだった。
一方で、たった今まどろみのうちに体験した夢はそうではなかった。蛍吾が本当に死んだことを確かめた。急ごしらえでアリバイを捏造し、慎太に罪を着せようとした。それでも探偵の目から逃れることはできなかった。
よくできた夢だった。倒叙形式のミステリドラマのようだった。あの頃はそんな民放ドラマが流行った覚えがある。
顔に熱っぽさを感じ、陵司は不安を覚えた。心なしか怠さもある。うまいオチをつけるべく深層意識がずっと悩み続けて知恵熱がでたのか。
(いそがい……)
裏庭で飯芝と交わした会話を思いだす。知らない名前が唐突にでてきた。
(誰だ?)
いそがいは恐らく「磯貝」と書くのだろう。下の名前はなんだったか。たろう、たるお……。
現実には存在しない人物の名前がでてきてもおかしくはない。そういうナンセンスなことが起きるのが夢というものだ。しかし、胸騒ぎがした。かすかに聞き覚えがあるように思えてならない。上京する前、廿六木荘にいた頃だったか。誰に教えられたのか。寝起きで頭がはっきりしない。あと少しで思いだせそうなのにどうにもならない。
唐突にでてきた名前に陵司は、いや夢の中の柾木は強い怒りを覚えていた。たしか父と母の馴れ初めに関わるような人物だったはずだ。
二人は見合い結婚だったという。一人息子の目からして夫婦仲は悪くなかったように思う。陵司が幼い頃、母によく江栗自然公園に連れていってもらった。一方で父に遊んでもらった記憶はろくにない。家事も育児も母に任せきりで、いかにも昭和の夫婦だった。力仕事の類で母がたまに声をかけると、父は不満のひとつもこぼさず手伝った。わがままだが、まわりに配慮できないほど自分勝手でもなかった。
父は銀行員だった。残業続きで帰りが遅い日もあったが、週末はほぼ家に居た記憶がある。インドアを好む性格で読書家だった。レンタルビデオで西部劇やスパイ映画をよく鑑賞していた。きまぐれに一人で海岸を散歩したり、ドライブにでかけることもあった。
(終わった話だ)
もう、母はいない。
父も死んだ。
去年、九竜志摩子も亡くなった。新型コロナウイルス感染症による肺炎が死因だった。
叔母から電話で教えられた。志摩子自身は外出が少なかったが、来客が多かった。関東や京阪神を毎週のように新幹線で忙しく行き来するような者ばかりだ。そこから感染したらしい。志摩子の孫が院長を務める、八日乳市有数の総合病院に運びこまれた。
新型コロナウイルス感染症の特徴のひとつとして、低酸素血症が急激に進行して重症化することがある。パルスオキシメーターで測定すると動脈血の酸素量が少なく、呼吸困難を覚えても不思議ではないはずなのに自覚がない。感染が広まり始めた当初はその事実が知られておらず、軽症のはずだった志摩子は九十代という年齢もあり治療が間に合わなかったという。
陵司は昨日、津久三家で叔母と会話を交わしたときのことを思いだした。市街地の光景がテレビに映った。選挙カーの上でマイクを握った禿頭の男性が演説している。八日乳市の次期市長選についての報道らしい。
――志摩子さんが生きておられたらねえ。
理子が漏らした言葉に、陵司は「九十歳のおばあちゃんになにができる」とからかい気味に声をかけた。理子は溜め息を吐いた。おまえはなにも知らないと呆れるような調子だった。
黛三の急死にともない巨額の財産や土地家屋を継いだとはいえ、志摩子はなんら肩書きを持たない未亡人に過ぎないはずだった。その一方で陵司が通う高校には「また九竜の家に市長の黒塗りの車が入った」「政策決定の裏で志摩子が動いた」といった噂がときどき流れた。孫である陵司はそのたびに真偽をからかい気味に問われ閉口した。
理子によれば、志摩子は息をひきとるその日まで誰彼となく相談事につきあっていたらしい。里山に産業廃棄物が不法投棄されたときも、床上浸水した家屋の保険金支払いを巡るいざこざがあったときも、地域住民が志摩子に相談すると解決したという。祖母に八日乳市のフィクサーというイメージを抱いていた陵司にしてみれば、そんな市役所にでも陳情すべき程度の困り事を解決していたとは興醒めだったが、理子の目は真剣だった。
市長候補の一人は志摩子の孫だった。当初は最有力候補とみなされていたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で経営難に陥った事業者への助成金を巡る文章が問題になった。
立候補前にブログへ掲載した文章で、融資は事業規模の大きな企業を優先し中小企業や個人事業者は切り捨てるという、いわばトリアージを主張していた。ネット炎上からマスコミ報道へと広がり、開き直ったかのようにその候補者は強気な姿勢を変えなかった。対立候補たちはここぞとばかりに温情的な支援策を掲げた。
どちらが正しいとも言えないだろうと理子は語った。国や地方自治体からの助成金もある。大きなところがひとつ倒れればそこに頼っていた小さなところも倒れ、連鎖的に崩壊が広がりみんな共倒れになって沈む。憐れみや同情が常に正しいとは限らない。
ただひとつ信じられることがある。志摩子なら私利私欲のない決断ができる。さまざまな人の話に親身になって耳を傾け、市民のために客観的かつ最善の判断ができる。「そういう人だったの」と理子は言った。
大学の学費について陵司は九竜家から援助を受けた。人殺しの息子相手にしては温情だろう。両親の遺産はほぼ蛍吾の遺族に支払う賠償金で消えた。アルバイトこそしたものの、奨学金を申請するほど経済的に困窮しなかったのは九竜家のおかげとしか言いようがない。
その代わり二十三年間、陵司は九竜家の者とは誰とも顔を合わさなかった。慎太からは何度か電話をもらったが、それも途絶えた。学費の援助は志摩子にとって外聞の悪い孫への手切れ金だったのかもしれない。それが客観的かつ最善の判断だったのか、陵司にはわからない。
テレビ画面に変化がない。友兎がスマートフォンで時刻を確かめた。約束の時刻が近いのか、それとも相手が遅れているのか。
「このテレビ、前の住人のか」陵司は友兎に声をかけた。
「そっす。業者の都合で搬出が遅れるそうで、借りました」
馬鹿らしいことを訊くが。そう陵司はことわった上で、思い切って口を開いた。
「蛍吾さんの遺体を発見したのは興信所の人だったよな」
「そっすよ」
「凜さんが、蛍吾さんのケータイに電話した。たまたまそのとき通用口から入ってきた……フチムラか、渕村さんが呼び出し音に気づき、クローゼットから死体をみつけた」
「合ってるっす」
そうか。陵司は胸のうちで安堵した。おかしな想像をしてしまった。過去が変わってしまったのではないかと不安になった。
当たり前だ。夢の中で犯行をやり直したからといって、過去の出来事が変わるわけがない。そんなSFじみたことが現実に起きるわけがない。
そもそも、なぜタイミングがずれたのか。二番目の夢では渕村ではなく、慎太と凜が死体を発見したのはなぜなのか。夢なら辻褄が合わなくても当然だが。
(いや、違う)
陵司は頭をふった。二番目の夢で、懐中電灯を物置部屋の採光窓の外に置くため、柾木は海を眺めると言い訳して裏庭に残った。結果としてリビングには飯芝だけが先に戻ってきた。
ひょっとすると慎太は、飯芝と二人きりになるのを気詰まりに感じたのではないか。それで凛の様子を見に行くことにした。玉突き衝突の末、凜は早めに携帯電話をかけることになった。
(なるほどな)
いや、夢に理屈を求めても意味がない。さっきからおかしなことばかり考えている。ずっとマスクをしていて酸素が足りないのだろうか。それとも本当に熱があるのか。そういえば体温計を持ってこなかった。会社に報告を命じられ毎朝測っているのに、すっかり忘れていた。友兎なら持っているかもしれない。
そう思った陵司が声をかけようとしたとき、壁掛けテレビの画面に動きがあった。上下に画面が二分割される。上には陵司たちのいるリビングが、下には見知らぬ部屋が映った。調度品からしてビジネスホテルの一室らしい。
ノートパソコンのカメラなのだろう。マイク付きのヘッドホンをした背広姿の男性が上下に角度を調整している。陵司と違ってネクタイもしている。丸い大きな瞳でわかった。九竜慎太だ。
また画面が変わった。二分割から四分割へ。右下にはなにも表示されていないが、左上に女性の顔が映った。マイクスピーカーを使っているのか、こちらはヘッドホンをしていない。三人掛けのソファの真ん中に座っている。リビングらしい。殺風景な廿六木荘と違って生活感がある。
女性はカーディガンを羽織り、膝にブランケットをかけている。シュシュをつけたサイドポニーテールを肩へ垂らしていた。たとえ相手が一言も発さなくとも、誰なのか陵司にはわかっていた。戸田間凛。いや、今は九竜凛だった。
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