7 なぜ殺したのか

 事件から三年後、九竜慎太は京都の大学へ進学した。大学での四年間、慎太は凜との遠距離恋愛を続けたらしい。慎太が大学を卒業してから二人は結婚した。

「あの日は暑かったじゃないですか」

 人懐こそうな笑みを浮かべて慎太は説明した。

「いつもなら自転車なんですけど、汗びっしょりになるのは嫌だなと思って。それでバスに乗って、駅前の停留所から歩いたんです」

「私は父さんの車に乗ってたんだけど」

 バトンタッチするように凜が口を開いた。

「駅の前を通ったところで慎太くんをみかけて声をかけて、それで海岸のほうに寄り道しようかってなって」

「その頃から交際を?」友兎が口を挟んだ。

「それはノー。一般的な意味ではね。でも、おたがいわかってたと思うな」

 やや恥ずかし気に微笑みながら凜は「ね?」と首を傾げた。慎太が苦笑いをしている。

 大学卒業後、慎太は市立の農業技術支援センターに就職した。農業にIT技術を活かす研究をしている。今日は技術提携先の企業との打合せのため大阪へ出張しているという。

「あのとき車から降りなかったら、父さんと一緒に廿六木荘へ行ってたら」

 凜は遠くをみつめる目をした。二十三年前のあの夏空をみつめているのか。

「何度もそう思った。でも、そのときは慎太くんと結婚しなかったかもしれないね」

「ありえないな。どんな選択だろうと、俺は告白してたさ」

 慎太が胸を張る。本人はふざけて言ったつもりかもしれないが、凜のほうが頬を赤らめた。

 変わったな、と陵司は思った。外見だけなら慎太も変わった。背広を着て、くたびれた顔をしている。それでいて芯は変わってない。完璧だが愛嬌がある。優秀さを鼻にかける嫌らしさがなく、人を信頼させる純粋さがある。

 変わったのは凜のほうだ。三人で遊んでいた頃、凜は年上としてふるまっていた。弟たちの面倒を渋々みてやる姉のような、余裕のある大人のふりをしていた。それが今はない。自然体で接している。あの頃の陵司には凜が背伸びをしていると見抜くことすらできていなかった。

「陵司くんは今なにしてるの?」

 凜に会話の矛先を向けられ、陵司は目を白黒させた。

「システムエンジニアだな」

「けっこう大きなところじゃなかったでしたっけ」

 慎太が口を挟んだ。

「いや、そこは辞めたんだ。キツくなって……」

 雰囲気が変わった。凜の表情から笑顔が消えていく。

 思わず陵司はテレビ画面に自分の顔を探した。どんな表情に映っているのか気になった。

「肌に合わなかったっていうか、今は小さい会社で」

「大変だったね。コロナとか、大丈夫?」

「ああ、向こうの社員は在宅勤務なのに、客先常駐の俺たちは出社させられたりしたな。いや、それは初めのうちで、今は在宅できるようになった」

 このご時世、テレワークできるだけでもありがたいと思わないとな。そう言って陵司は笑顔を浮かべようとした。ひきつった笑みになっているかもしれない。俺はここにいていいんだろうか。ふと疑念が頭を過ぎった。

「話、戻していいですか?」

 無表情な顔をした友兎が言った。事件当日の二人の行動をおさらいし、やがて話題は柾木が蛍吾を殺害した動機へ移っていった。

 それはこの事件に残された唯一の謎だった。なぜ恩陀柾木は、長きにわたり友人関係にあった戸田間蛍吾を殺したのか。

 真っ先に疑われたのは不倫だった。蛍吾は稔里と愛人関係にあり、それがなにかのきっかけで柾木に知られたのではないか。

 そもそも蛍吾との付き合いは柾木より稔里のほうが長い。蛍吾は稔里の従弟で、たまの親戚付き合いで顔を合わせる仲だった。戸田間家は九竜家の分家で、黛三の弟が蛍吾の父にあたる。

 高校を卒業した蛍吾は地方銀行に就職、二十歳で恋愛結婚する。家の広さや通勤の都合から後に蛍吾は隣の市に新居を構えたが、それ以前は廿六木荘と同じ町に住んでいた。職場が同じという偶然もあり、家族ぐるみの付き合いをするようになった。ただし柾木は法人営業を、蛍吾は窓口業務など事務職をしており、職場では顔を合わせることすら稀だった。

 稔里が蛍吾とひんぱんに顔を合わせていたのは、柾木と結婚して廿六木荘で暮らし、蛍吾が隣の市へ引っ越すまでの数年に過ぎない。引っ越しは凜が小学校に上がった年だから、蛍吾が殺された年から十四年も前になる。

 友兎は伝手を頼り、当時事件を担当した元警察関係者からも話を聞いたという。ただ被疑者死亡のため、たいした捜査はされなかったらしい。

 話に耳を傾けながら、さっき夢の中でどんなことを考えていたか思いだそうとしている自分に気づき、陵司は苦笑した。犯行を見抜かれないよう苦労したことは印象に残っているのに、あれほどのひどい暴力をふるった心の動きは不思議と思いだせない。そもそも夢の中の動機を思いだしたところで意味がない。夢は夢に過ぎず、それが本当の父の心と一致しているとは限らない。

 凜も慎太も不倫疑惑には首を左右にふった。

「だって陵司くんの家まで車で往復するんだよ? そんなに何度も行き来して家を空けて、私も母さんも気づかないわけないって。こんな田舎で誰かに見られたら噂になるだろうし」

 昔を思い返しながら話しているのか、凜はたどたどしく言葉を連ねた。

「それに稔里さんって気の強い、しっかりした人じゃない。バーベキューのときとか鬼軍曹みたいだった。父さんってヘタレだったから、気が合わないと思う」

 陵司は思わず苦笑した。買い物から火の準備、焼けたものを皿に盛るタイミングさえ母は夫や息子だけでなく戸田間家の者にまでテキパキと指示を下していた。

「仮に関係があったとしても」慎太が口を開いた。

「タイミングがおかしいよね。稔里さんが亡くなって二年も過ぎた後だったのに」

 陵司は深くうなずいた。そのとおりだ。かつて不倫があったとしても、三角関係の一人が欠けた後では殺人の動機にならない。

「事件の後で思ったんだけど」凜がポニーテールをいじりながら言った。

「渕村さんって人、興信所に勤めてたんでしょ? 飯芝さんは私、よく知らないけど、組合のえらい人だよね。だから顔が広くて、いろんな職業の人を知ってる。志摩子さんが飯芝さんを介して不倫のこと調べてもらってた、あの日はその報告だったら辻褄が合うなって」

「そうか……バタバタしていて、あの二人がなぜ集まりに参加したのか考えてませんでした」

 目から鱗が落ちたような表情をして慎太が言った。

「おばあちゃんのやりそうなことだよ。まず話しあう、とかじゃないんだよね。いきなり興信所に依頼する。手段を選ばないんだ。僕より先にスマートフォン買ってたし、パソコンも使いこなしてた。本当にパワフルな人だった」

「飯芝さんと渕村さんが招かれた理由については」友兎が口を開いた。

「この後、ご本人から伺うつもりです。あと、そっすね、事件が起きた日の柾木さんの雰囲気はどうでした。自然体だったか、どこか様子がおかしくなかったか」

 陵司は違和感を覚えた。友兎の取材は今日から始まったわけではない。すでに陵司はオンライン会議でインタビューを受けたし、他の事件関係者たちとも今日のため事前交渉くらいはしているだろう。集まりに参加した理由という、基本的な事項をなぜまだ確認していないのか。

「正直に言うと、様子がおかしかった」

 慎太がためらうように表情を曇らせながら言った。

「玄関で出迎えてもらったとき感じたんだ。違和感があった。まあ、それは後になって思い返してみればって話なんですよね。そのときは口にして訊いてみるほどではなかったんです」

 私も。そう言って、うんうんと凜がうなずいた。

「寝てないのかなと思った。徹夜明けみたいな? ほら、寝不足でハイになることってあるでしょ。ああいうギラギラした感じ。いつものクールなおじさんじゃないぞって」

 おや、そうだったろうか。

 あの日、帰省のため新幹線に乗車する前に陵司は父に電話を入れた。柾木は眠そうな声をしていた。一人暮らしとなり、盆休みに入ったのもあって不規則な生活をしていたのかもしれない。ひょっとすると前日に真夜中まで起きていた。それで朝のうちは眠かったが、昼には寝不足によりハイになってきたということか。

(いや、ちがう)

 人を殺め、隠蔽工作に奔走した直後だ。興奮していて当然だ。

「わからない」途方に暮れたような顔で慎太は言った。

「あの頃、何度も考えたんです。柾木さんが蛍吾さんに恨みを抱くようなことは、なにも思い当たりませんでした」

 凜はどう? 慎太からの質問に、凜は額に手をあて黙っていた。なにかを思いだそうとしているような、あるいはなにか思いだしたが口にして良いか迷っているような。そう陵司は感じたが、やがて凜は首を左右にふった。

「わかんない。なんて言うのかな、恩陀さんって冷たいわけじゃないけど、心のうちを人に見せないところがあったと思うの」

「そう?」慎太が首を傾げた。

「いや、合ってると思う」陵司は深くうなずいた。

 なにせ迷いなく慎太に濡れ衣を着せたくらいだ。

(ちがう)

 父は濡れ衣など着せていない。

 たしかに柾木はアリバイを弄し、慎太を殺人犯に仕立てようとした。だが、それは架空の話だ。うたた寝した陵司が垣間みた夢の中の出来事に過ぎない。

 可能性としてはありえた話かもしれない。合理的に考えれば、あの状況で罪を被せる相手は慎太しかいない。

 もし柾木が、慎太と凜の関係に気づいていたとしたら。二人の交際を父親である蛍吾に反対された。そんな偽の動機を思いつくだろう。廿六木荘は玄関も通用口も施錠していなかった。とはいえ、状況的に外部犯の可能性は低い。女性である凜に蛍吾を殴り殺す力はないだろう。飯芝や渕村は蛍吾と関係が薄く、動機が皆無だ。

(そうか?)

 合理的な判断だけを理由に、夢の中の自分は罪を着せたのか。

(うらやんでいるのか)

 慎太に濡れ衣を着せたのは、他ならぬ陵司自身の深層心理だとしたら。あの頃、凛に対して恋愛感情に近いものが陵司にまったくなかったとは断言できない。あったとしてもそれは父が蛍吾を殺したと知ったとき消し飛んだ。

 慎太は弟のような存在だった。高校生になった頃から陵司は複雑な感情を抱くようになった。九竜家の血筋とは無関係に、慎太には人望があり輝くような存在だった。年齢差そのものはいつまでも縮まらないが、年長者のハンデは才能や経験次第で目減りしていく。後輩の女子から好きだと告白されたがどうすればいいかと中学生だった慎太から相談されたとき、しどろもどろになった陵司はまともな返事ができなかった。

「りょうちゃん?」

 懐かしい呼び名だった。陵司が顔を上げると、慎太が眉を曇らせていた。

 そのときだった。凛の背後にある戸が細く開いた。パジャマを着た坊主頭の少年が顔を覗かせる。慌てたように「ごめん」とだけ言って顔をひっこめた。凜がふりかえったときには、もう少年は戸を閉じていた。

「びっくりした」胸に手をあて、凜が肩を竦めてみせる。

「あれ、上の子」

 慎太と凛との間には子供が二人いる。兄のほうは中学生で、野球部に入ったという。風邪を引いたため今日は学校を休んだそうだ。

 考えあぐねるように凜は首を傾け、天井をしばらくみつめていた。やがて口を開いた。

「これ、言わずにおこうと思ったんだけど」

 恩陀さん、奥さんを殺したかもしれない。

 凜がそう告げると、誰も言葉を続けられず静かになった。遠くから子供のくしゃみが聞こえた。

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