2 死ぬまで愚かな生き物
失礼します。一礼し、半袖のポロシャツを着た少年がガラス戸の向こうに消えた。
喉の渇きを覚え、渕村は食卓からグラスを手にとると口元へ運んだ。麦茶の冷たさが喉に心地よい。
「どう思う」飯芝が口を開いた。
「なにが」
渕村は少し驚いた。飯芝が捜査について意見めいたことを口にするのは珍しい。ろくに話を聞いてなかったんじゃないかと疑いたくなることのほうが多い。
「恩陀さんが嘘をついたことだ」
「嘘ってほどでもない」
「車で外にでたなんて、一言も口にしなかったじゃないか」
「言い忘れたんでしょ」
いいかげん学習してほしいものだ。人は忘れるし、間違うし、思いこむし、騙されるし、過ちを死ぬまでくりかえす愚かな生き物だ。
飯芝と渕村は上司と部下という関係ではない。渕村は宇祖里興信所の調査員であり、仕事の大半は信用調査や失踪人の行方探しといったものだ。稀に宇祖里協同組合の仲介で特殊な依頼が来る。すなわち、死者が関わる依頼が。
同じ「宇祖里」という名前がついていることからも察せられるが、興信所は戦前まで組合内部の一組織だったという。興信所が独立してからも関係は続いている。渕村の特殊な力は世の中に伏せざるを得ず、依頼を募ることすら難しい。昔から付き合いのある組合からは渕村にもよくわからないルートで依頼が舞いこんでくる。
能力を活かせると判断したら渕村は仕事を引き受ける旨を連絡し、この男が監督として付き添うことになる。渕村の能力を理解し、それを表向きは伏せた上で警察を含む諸方面とよろしく調整してくれる。いけ好かないところはあるが仕事を進める上で欠かせないパートナーであることは認めざるを得ない。付き合いが長いせいか、なんとなく上司と部下の関係じみてきている。下手に口出しせず、自由にさせてもらえるという意味では良い上司なのかもしれない。
警察も救急車も来ないと飯芝に告げられ渕村は思わずムッとしたが、正直そんなことになるのではと予感していた。公園から廿六木荘へ車を走らせていたとき、カーラジオからニュースが聞こえてきた。かなり大きな事故についての報道だった。
飯芝が聞いた話によれば、脱線転覆した列車から乗客の救出作業が依然として続けられており、救急車はすべてそちらの対応にあてがわれているという。警察も同様らしい。もちろん列車事故と殺人事件とでは対応にあたる部課は本来なら別だ。しかし被害が大きすぎた。組織をまたがって人が駆りだされている状況で、こちらにまわす人員を整理するのに時間がかかるらしい。
もちろん夜中まで誰も来ないというわけではない。数時間はかかると思ってほしいと言われたそうだ。飯芝は九竜志摩子にも電話したが、列車事故が優先されて当然という返事だったという。
十分ほど過ぎても、岩棚に横たわる身体に動きはなかった。凜が眩暈を起こしたため、廿六木荘へ戻ることにした。熱中症で全員が倒れてしまうわけにはいかない。交代して岩棚を見守り、残りはリビングで涼むことにした。
警察に指示されたと嘘をつき、渕村と飯芝はキッチンで一人ずつ話を聞いた。各人の証言をまとめると、次のようなことがあったらしい。
本来、恩陀稔里を偲ぶ集まりは午後三時に開始するはずだった。戸田間父娘は車で早めに到着するよう廿六木荘に向かった。駅前で慎太をみかけ、凜は車を降りた。二人は海岸に寄り道して約束の時刻の五分前に廿六木荘を訪れた。このとき二人は前庭に蛍吾の車を確認している。
飯芝から連絡があり、集まりの開始が遅れることになった。体調不良の凜は二階にある柾木の一人息子の部屋で横になった。慎太は書庫で時間をつぶし、柾木はリビングでテレビを観ていたという。つまり三人はバラバラに行動していた。
柾木の息子は陵司という名前で、今年の春から大学進学にともない都内で一人暮らしをしているそうだ。今日の集まりに参加するはずだったが、あの踏切事故で列車の運行が滞っており到着が遅れると柾木に連絡があったという。
江栗自然公園で渕村が霊視の結果を報告すると、九竜志摩子は廿六木荘に行く気を失ったらしい。運転手付きの車で一人だけ先に去った。たまには恩を売ってやろうかと飯芝を車に誘ったが、健康のため歩くという。こうして午後三時半ごろに飯芝が廿六木荘を訪問し、道に迷った渕村は飯芝より三十分近く遅れて到着した。
飯芝と柾木がリビングで雑談を交わしていると、目を覚ました凜が下りてきた。依然として蛍吾が姿を見せないことを不審に思い電話したが、呼び出し音は聞こえなかった。渕村が玄関と間違えて通用口に入ったのはこの頃で、声を聞きつけた柾木にリビングへ案内された。
蛍吾がいなくては目的の話ができない。リビングで飯芝がそう説明し、柾木の提案で外を探してみることになった。玄関をでたところで凜が再び電話し、かすかに裏庭のほうから音が聞こえた。崖に置かれた蛍吾の靴と携帯電話を発見し、今に至る。
素直に自殺だと解釈すれば、こうなる。駅前で凜が車を降りた後、一人になった蛍吾は予定どおり廿六木荘へ向かった。前庭に車を駐め、それからなぜか急に世を
自殺する理由が無いと凜は強い調子で言った。廿六木荘へ向かう車中、いつもと違う様子はなかったという。なにか理由があったにせよ、よその家の庭で自殺するのは不自然だ。
(殺し、か)
そう決めてしまおう。渕村は覚悟した。自殺の可能性が否定されたわけではない。だが、迷ったときは最悪のケースを疑うべきだ。
殺人を前提とする。すると次の疑問が浮かんでくる。誰が殺したのか?
(恩陀柾木)
崖から突き落とすだけなら不意を突けば女性でも可能だ。しかし犯人は被害者の靴を脱がしている。そのためには殴るなどして意識を奪わないと難しい。大の男の意識を奪うとなると凛や高校生の慎太では考えにくい。
(かもね)
犯行手段からすれば確率的にもっとも怪しいというだけだ。動機がわからない。稔里との間に三角関係でもあったのだろうか。女が死んで二年も過ぎてから殺意が芽生えるだろうか。まだ慎太が凜との恋愛を反対されて殺したと考えるほうが納得できる。
容疑者は三人しかいない。凛、慎太、柾木だ。飯芝もくわえたいが勘弁してやろう。裏庭で海を眺めていた蛍吾を通りすがりの殺人狂がみかけたかもしれないが、可能性は低いので除外する。
凛と慎太は廿六木荘に来るまで一緒に行動していた。人目がある砂浜を散歩していたというから目撃者がいるだろう。廿六木荘に到着し、凜は体調不良のため横になった。慎太は書庫で過ごしていたという。この時間帯は二人にアリバイがない。
柾木にはアリバイがない時間帯が二つある。蛍吾は集まりの準備を手伝うため、約束の時刻よりも早めに廿六木荘へ向かった。本当は柾木と顔を合わせ、そこでなにか起きたのかもしれない。三時に凛と慎太が訪れ、それから三十分ほど過ぎて飯芝が訪れた。この間もアリバイがない。
問題はこの三十分だった。柾木の証言に依れば、リビングでテレビを眺めながら漫然と過ごしていたという。ところが、ついさっきキッチンを去った慎太は気になる証言をした。推理小説を読みながら誰が犯人なのか自分の頭ではいっさい考えなさそうな飯芝ですら得意げに指摘するくらい明々白々の矛盾だ。
書庫で過ごしていた慎太はふと凜の様子が気になり子供部屋に入った。凜は眠っており、気まぐれに慎太は南側の窓から外を眺めた。そしてガレージから車がでてくるのを目にしたという。運転席に誰がいるのか真上からでは見えなかったが、状況的に柾木が運転していたとしか考えられない。
車で外出した話など柾木の証言にはなかった。慎太の証言が真実だとすると、柾木はなんのためにでかけたのか。
想像してみる。蛍吾が廿六木荘に到着する。なにかの理由で口論となり、柾木が蛍吾を殴り殺す。間もなく客たちがやってくるだろう。ひとまず死体をどこかの部屋に隠す。幸い、集まりの開始時刻は遅れることになった。死体を車に積んで外にでる。だが人目があり、どこにも捨てることができない。しかたなく廿六木荘に戻り、死体を崖から投げ落とす。
(そんなこと?)
そんな間の抜けた行動をとるだろうか。とらないとは言い切れないと渕村は自分に言い聞かせた。犯罪者は大半が素人だ。気が動転してトンチンカンな行動をとってもおかしくない。人間は死ぬまで愚かな生き物だ。
食卓の上のグラスに渕村は目を向けた。水滴がガラスを滑って落ちてゆく。死体を捨てること以外に車で外出する理由としてなにがあるか。目指すべき着地点はどこか、そこへ到達するためになにをすべきか。頭の中で音もなく計算を進める。
「恩陀と話してみます」
そう告げると、重々し気に飯芝がうなずいた。
「あと、ほら、どっちだっけ」
「なんだ」
「職業別電話帳はハローページ?」
「タウンページだ」
「持ってきて」
「自分で取ってこい」
人使いの荒い上司だ。渕村は渋々ながら立ちあがった。
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