四、まぼろしの悪夢

1 子供に見せるものじゃない

 渕村徳恵は急がなかった。こんなときは遅れていくほうが良いと経験から学んでいた。慌てずに人々の後ろをついていき、観察する。日常が砕けたとき人々がどんな表情を浮かべたか、記憶に刻まなければならない。

 生ぬるい風が吹いていた。片手に携帯電話を握りしめた若い女が崖に向かって歩いていく。モスグリーンのフレアスカートが海風に揺れる。目指す先、岩の上に一足の革靴が置かれている。それは海のほうに爪先を向けて丁寧に揃えられていた。靴の傍らに置かれた携帯電話が鳴っている。女の足は次第に動きが遅くなっていく。目の前の光景がなにを意味するのか理解する心と、その理解を信じたくない心とが争い、手足の動きがぎこちなくなっている。

「父さん……」

 戸田間凛はそうつぶやいたきり、革靴から遥か手前で歩みを止めた。

「おい、来てくれ」

 離れたところで、ジーンズを履いた背の高い壮年男性が手をふっていた。恩陀柾木だ。歩く向きを変えた渕村を、九竜慎太が小走りで追い越していった。

 柾木が崖の下方を指差した。視線を泳がせていた慎太が、ハッと表情を変えるのがここからでもわかった。「みつかったようだな」と後ろから飯芝の声がした。そうね、と渕村は応じた。仕事が始まる。

 ようやく柾木の意図がわかった。崖は海へ緩やかに傾斜している。小石や砂で滑りやすいのもあり、崖の縁から真下を覗くのは難しい。海へ突きだした崖の根元である、ここからのほうが下になにがあるか把握しやすい。

「すまん、子供に見せるものじゃなかったな」

 呆然としている慎太の肩を、柾木が叩いた。恐るおそる綱渡りでもしているかのような足取りで凜がやってこようとしている。変わり果てた姿を目にするのを止めるためだろう、慎太が走りだした。

 渕村はようやく柾木の隣に立った。崖の下、白いジャケットを着た男が岩棚にうつ伏せで倒れている。落ちる途中で岩肌にぶつかったのか。ジャケットの裾がめくれ、おどけたように手足がてんでバラバラの方向を向いている。首を捻じり、血だらけの顔がわずかにこちらを向いている。

「警察と救急車」

 渕村はふりむきもせずに言った。遅れてやってきた飯芝が「ダメかね」とぼやくような調子で言った。

「無理。この距離では」

 これだけ離れていては霊視できない。みなまで言わなくとも伝わることは経験からわかっていた。

「うむ……恩陀さん、あそこに行く手段はあるかね」

 飯芝の問いに、柾木は首をふった。岩棚へ下りる道はない。ボートの類に乗れば近くの海岸から行けるだろうが廿六木荘には無いし、持っている知り合いもいない。警察か海上保安庁に船を出してもらうほうが早い。

 わかった、と返事をして飯芝が携帯電話を手にとった。さっきから崖下の男はぴくりとも動かない。かと言って本当に死んでいるとは限らない。救命措置を受ければ助かるかもしれない。崖下にどうやって行くかの議論はさておき、救急車は手配しておくべきだ。

 どうやら自分の出番は無いらしい。渕村は目を凝らした。真夏の陽射しが照りつけ、岩棚には白い波がくりかえし寄せている。崖の真上からなら十メートルほどだろうが、ここからだと三十メートルはありそうだ。双眼鏡でも借りたほうがいいかもしれない。

(なにやってるんだか)

 出番など無いとわかっているのに、自然と目が手掛かりを探してしまう。

 状況は明らかだ。戸田間蛍吾は崖から身を投げた。崖っぷちに揃えられた靴を見れば、覚悟の上の投身自殺だと誰もが思うだろう。霊視するには死体の傍か、もしくは息を引きとった場所のどちらかに行かなければならない。本当に自殺なのか、それとも自殺に偽装された殺しなのか、死者の体験から真実を知ることはできない。

 今日はもう充分に働いた。本来の依頼は、二年前に亡くなった恩陀稔里という女性の死因を確かめることだった。稔里が亡くなった正確な場所をあらかじめ確認しておいてもらうはずが、誰か連絡を漏らしたらしい。自力で探さざるを得ず、炎天下を延々歩くはめになった。正直疲れていたところへこの騒ぎ。できればさっさと帰りたいのが本音だ。

「渕村、仕事だ」携帯電話から耳を離した飯芝が告げた。

「警察も救急も来ないそうだ」

 凶悪な表情で渕村は飯芝を睨んだ。

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