9 なぜ俺を殺す
換気扇の音がしている。薄暗いキッチンに蛍のような光があった。コンロ台に寄りかった友兎が煙草をふかしていた。床になにか珍しい軟体動物でも這っているかのように足元をみつめている。
食卓の椅子を手前に引くと、陵司はそこに座った。長く立ち続けていられる自信がなかった。ついさっきリビングで、ソファから立ちあがるや否や刺すような頭痛に襲われた。生まれて初めて田舎の雪道に遭遇したシティーボーイのようにそろそろと歩かなければならなかった。
椅子の座面が冷たい。発作のように身体が震え、思わず陵司は「寒くないか?」と口にした。
返事はなかった。携帯灰皿をとりだすと友兎は灰を落とし、煙草をくわえなおした。
(さて、と)
ここからどうすべきか。コートを着てくれば良かったと陵司は後悔した。なぜ友兎がセーター一枚で平気な顔をしていられるのかわからない。寒気がするだけで、実はそれほど寒くないのだろうか。こめかみを脈が打っているのがはっきりわかる。
(問い詰めてみるか)
さっきの反応からすると陵司の勘は当たったらしい。飯芝と友兎は共謀しており、なんらかの目的のため陵司を廿六木荘へ招いた。渕村が霊能力で死者の経験を追体験できるように、友兎には死の記憶を他人に悪夢としてみせる能力がある。
まったく根拠がないわけでもない。この結論に至った思考の筋道が一応はある。名探偵よろしく説明できないこともない。こっちは被害者だ。加害者に向かって事情を説明しろと迫って悪いはずがない。それが正義というものだ。しかし――。
(やめとくか)
窓の外に目を向ける。葉を落として枝ばかりになった木々があった。リビングからは海を眺められるが、こちらは楓の木に囲まれている。秋になると紅葉し、落ち葉が降り積もった。幼い頃、海からの強い風に枯葉がくるくる舞っているのを飽かず眺めたことを陵司は思いだした。
そういえば伝えてなかったな。気づくと同時に陵司は口を開いていた。
「ありがとな」
友兎が嫌そうに顔をしかめた。片方の耳にぶらさげているマスクが揺れた。
「いや、一応伝えておこうと思ってな。どういう事情があるのか知らんが俺には良かった。この家に泊まることが……帰ることができて、本当にうれしかった」
咳が込みあげ、陵司は口を閉じた。新型コロナウイルスの感染が拡大するにつれ、まわりの人々を不安にさせまいと咳を我慢するのが当然のようになった。涙が滲んだが、なんとか咳をせずに済んだ。
「それだけだ」
陵司は再び窓のほうに目を向けた。空は一面灰色に塗りつぶされ、昼間だというのに薄暗い。明かりを点けようかと陵司は立ちあがりかけたが、そこまででもないかと座り直した。
(広すぎるんだよな)
この家は広すぎる。柾木、稔里、陵司。親子三人で暮らすには空間が余り過ぎている。車を十台は駐車できそうな前庭、十四畳もあるリビング。金持ちが友人や仕事仲間を招いてホームパーティーを開くことを想定した造りだ。核家族が暮らすにはぜいたくすぎる。
(なにを思ってたんだろう)
ぜいたくすぎる広い家で、母はなにを想いながら日々を過ごしていたのか。
廿六木荘は貿易商が海辺の別荘として建て、後に相続税対策として手放したものらしい。建設は黛三の会社が受注し、その縁もあって九竜家が買いとった。空き家を遊ばせておくのはもったいないと結婚した娘にあてがった。磯貝の生家が近いこの土地を、稔里は自分の意志で選んだわけではないだろう。
子供の頃から感じていた。他の家とくらべて地域住民との交流がやけに少ないと。戸田間家が転居してから稔里が九竜家の他に誰かと親しくしている姿を目にしたことがない。集落から離れている廿六木荘の立地のせいかと思っていた。上のほうの世代は稔里の過去を知っていて、それで距離をおかれているのか。
自殺したとき父は四十七歳だった。営業成績が良くて表彰されたとか、昇進したという話は一度も聞いたことがない。本を読み、孤独を好み、マイペースな性格だった。黛三の息がかかっていない人物だからこそ母は受け容れたのかもしれない。
母はこの家を流刑地のような気持ちで過ごしていたのかもしれない。息子が幼い頃は育児の忙しさに忘れることができた。やがて陵司は成長し、専業主婦として稔里は長い時間を一人で過ごした。ともに逃げ、別れ、ふらりと姿を現わしたかと思えばまた消えた男。そんな男がいつかまた帰ってくるかもしれない。波の音を耳にするたび母の心を幽霊のような影が過ぎりはしなかったか。
ビデオテープに残っていた映像を思い返す。恐らく父はネックレスを手にしていたのだろう。花火大会の夜に凜が身に着け、蛍吾がそれを見咎め、そして柾木の手に渡った。どういう気持ちか察しがたいが父はそれを母に返そうとしたのではないか。母はそんな父を平手打ちした。
母の死は事故だったかもしれない。しかし、そこに磯貝の影響はなかっただろうか。磯貝が命を落とした入り江は後に公園となった。正確な場所はわからないが、母が命を落とした場所とかなり近いだろう。消波ブロックの上で足を滑らせたことそのものは事故に過ぎなくても、突然ネックレスを父に見せられ動揺していた母は運命的なものを感じたのではないか。死者に呼ばれたと錯覚し、強打を避ける動きが遅れたのかもしれない。
(どうりで忘れるはずだ)
磯貝足帆のことをなぜ陵司は忘れていたのか。タイミングが悪すぎたとしか言いようがない。地下階の物置部屋で蛍吾から駆け落ち話について聞かされた。母としてではなく、一人の人間として受け容れ応援してほしい。そう頼まれたばかりのところへ母の事故死を報された。
ただ忘れたのではなかった。務めて思いだそうとしなかった。心を凍らせて時間を止めた。あの頃の自分がどんなことを思ったか記憶はあいまいだ。荒れ狂った心を今なら粗雑な言葉で表現できる。失敗してしまった。自分が何者で、どういう立場に甘んじていて、周囲からなにを期待されているのか。それをようやく自覚し、初めの一歩を踏みだそうとしたところで「もう遅いぞ」と言われた。大人になることに失敗した。
頭がぼんやりしてくるのを感じ、陵司は身震いした。どれくらい時間が経ったのだろう。まさか飯芝はもう帰っていたりしないだろうか。気になった陵司がリビングへのガラス戸をふりかえろうとしたとき、声がした。
「中学のとき」
煙草をくわえたまま、不明瞭な声で友兎が言った。
「修学旅行で関西、行ったんすよ」
「俺もそうだった」
「恩陀さんもUSJで遊んだんすか」
「そんな記憶がかすかにあるな」
冗談を言ったつもりだが伝わっているだろうか。不安を覚えたが、友兎は表情を変えなかった。
「あれ、何日目だったか。京都の旅館でしたね。同じクラスの奴が寝込んで、熱にうなされて。なんか建物の中を逃げ回って煙で息ができなくなって苦しむ夢ばかりみるんだとか。泊まった宿、昭和の初め頃に火事があって、人がたくさん死んだらしいっす。まあ、要するに」
俺が人を殺しかけたってことですけど。そう言ったきり、しばらく友兎は口を
「おまえの嫌いな奴だったのか」
「クラスメイトだし顔と名前くらいは知ってましたけど、それだけっすよ。俺、愛想がないから教室で浮いてて。それはともかく、親父が仕事サボって京都まで押しかけてきて、かち殴られました」
「脈絡がよくわからん」
「ショック療法みたいなもんすよ。とにかく、それでロックが外れました」
「ロック?」
「悪夢をみせたい相手にかける鍵です」友兎は後頭部は掻いた。
「言葉で説明しづらいんすよ、感覚的なものなんで。親父の言うとおり練習して、コツをつかむまで一ヶ月くらいかかったすね。修学旅行のときは自分でも気づかない間にロックをかけてたってことです」
「親父さんも霊能力者だったわけか」
「そう呼ぶなら、そうっすね。相手に触れるくらいの距離まで近づいて、しばらく鍵穴……顔のあたりを観察できればいいんです。親父は水道メーターの点検員みたいな恰好したり、アンケートの調査員のふりして相手に近づいてました。言っとくけど、これだけで食ってけるようなもんじゃないすよ。たまにありつける臨時収入って感じで。何度も悪夢ばかりみせる能力っすよ? どんな需要があるってんです?」
ろくな需要はないだろうなと陵司は思った。
「臨時収入ってことは、ルポライターが本業なのか」
「一応は。なんでもこなす下っ端ライターっすね。こんな地方でルポルタージュ専門で食ってけるほど世の中甘くないんで」
この事件のことは知らなかった、飯芝の依頼を受けて初めて知ったと友兎は補足した。なぜ柾木は蛍吾を殺害したのか、動機の謎については飯芝も答えを知らないようだという。
「おまえの能力がよくわからないんだが……いわゆる、死者の呪いってやつなのか?」
「まわりの人間からしたら、そう解釈するしかないっすね」
「幽霊と話ができるわけではない?」
「なにも感じたことないな。心霊スポットとか行っても平気です。俺が幽霊をけしかけてるわけじゃなくて、ロックした相手が勝手に感じるっていう。そう、親父は触媒って言葉を使ってたな。そいつが初めから持ってる霊能力を高める能力なんだろうって」
陵司はうなずいた。なるほど、そう言われると腑に落ちる。
誰にでも霊能力がある。しかし、その能力には個人差がある。霊能力の高い者しか幽霊の存在を察知できない。友兎は狙った相手の霊能力を一時的に増幅させることができる。人生で一度も霊体験がなかった者でも影響を受けるようになり、いわゆる「呪われた」状態に陥る。疑似科学めいた話だが、理屈は通っている。
「すると、どういう夢になるかは寝たところ次第なのか」
修学旅行先として泊まったホテルで過去に起きた火災の悪夢をみた。ということは、無関係の死者の悪夢をみることもありうることになる。
「そうすね。そいつがよっぽど死んだ奴と縁が深かったら、別に死んだ場所でなくてもオーケイですけど。そこはやってみないとわからないんで、恩陀さんにこの家で一晩過ごしてもらうのは必要でした」
「肝心なところを確認させてくれ。俺が体験した最初の悪夢は現実そのままだからわかる。二回目以降はなんなんだ。なぜ現実になかったことが起きてる?」
「正直、俺も初めてで驚いてるんすよ。普通の夢と同じで、夢の中でなにが起きたかなんて細かいこと覚えてないものなんで。恩陀さん、けっこう霊能力が高いのか。じゃなければ物凄く理屈っぽい性格だからじゃないですか」
いや、大雑把な性格だと思うが。陵司は反論しかけたが、それはどうでもいいことだと思い直した。
「理由はおまえにもわからない、と?」
「ぶっちゃけ、理屈で考えてもしょうがないんすよ」
「頭で考えるな、感じろってか」
「少し違って」友兎は顔をしかめた。
「そもそも幽霊って、なんすか? 誰が知ってるんです? そんなもんに本当のことなんて無いすよ。理屈を考えてもしょうがないってことです」
反論の言葉が頭の中に押し寄せてきたが、陵司はぐっとこらえた。友兎の言葉は腑に落ちるものがあった。
幽霊とはなにか。一般的には死者の魂、肉体から離れた心だけが一人歩きしている存在だ。それはどんな形で存在するのか。細菌やウイルス、あるいは電波のようなものか。生きている人間の心が日々たゆたうように、なんらかの実体が存在するなら変化を免れないのではないか。幽霊が恨みや未練によって現世にとどまった存在なら、募り続けた憎しみや悲哀によって認識を都合よく歪めてしまいそうなものだ。
くわえてそれをどうやって観察するのか。死者の記憶を再体験する行為に歪みが生じない保証はあるのか。死者の記憶が再生される過程で生者の精神が干渉するかもしれない。こういう人間であってほしかったという死者への望みが思い出を美化する恐れはないのか。
(なるほど)
俺はちょっと理屈っぽいほうかもしれん、と陵司は思った。
「初めの悪夢だって現実そのままなんて保証はないんじゃないすかね。逆に、二番目以降の悪夢だって現実をなにか反映してるのかも」
そう言いながら、友兎は短くなった吸い殻を携帯灰皿にしまった。
わけのわからないことに理屈を無理に当て嵌めるべきではないということか。頭の中でそう納得すると同時に、陵司の背筋を寒気が走った。思わず身を竦ませる。
「大丈夫っすか」
換気扇のスイッチを切るため腕を伸ばしていた友兎がふりかえった。コンロ台から離れ、陵司のもとへ歩み寄る。
「コート、持ってくれば良かったな」
「恩陀さんじゃなくて、飯芝さんが来ることを期待してたんすけどね」
「俺で悪かったな」
「飯芝さんのこと、あまり信用しないほうがいいすよ。あいつ、自分では悪いことをしてないと本気で信じてるタイプです」
なんとなくわかる。陵司は苦笑した。
「悪夢をみせたのは俺だって、なんでわかったすか?」
耳にかけていたマスクを装着しながら友兎が訊いた。
「かまかけてみただけさ」
「でも、疑った根拠はなんかあるっすよね」
陵司は迷った。説明したくないわけではなく、説明するのが馬鹿らしい。友兎が待ち構えているため、しかたなく陵司は口を開いた。
「俺をコロナだと疑わなかったからな」
怪訝そうに友兎が顔を斜めにしたので、陵司は言い足すことにした。
「外では毎日のように新規感染者がでている。たしかに俺はくしゃみも咳もしなかった。だからって、ぶっ倒れるくらい高熱の奴がいたら誰だって同じことを思う。こいつコロナかもしれないってな。なのに、おまえはなにも言わなかった。病院に相談しようとも、熱を測ってみることすら提案しなかった。もちろん取材を優先したとか、気遣いで口にしないのかもとは思った。でも、まあ、おまえは遠慮するような性格じゃなさそうだしな」
陵司自身、少しは新型コロナウイルス感染症の可能性を疑った。悪夢のことに気を揉むあまり、いつの間にか頭から消えていた。しかし悪夢を体験していない友兎なら、真っ先にコロナの可能性を考えるはずだった。疑念が芽生えると、ホテルではなく廿六木荘へ泊まるよう勧めてきたことも怪しく思えてきた。
チッと友兎は舌打ちし、それから目を細めた。マスクの下で苦笑いをしたらしい。
「だからって、よくそんなこと考えますね」
「渕村さんが霊能力者だとわかったからこそ確信できたんだ。それに俺は――」
それを口にしてはならない。刹那的な思考が過ぎった。熱で頭がぼんやりしているせいだろうか、するりと唇から言葉がこぼれた。
「人を信じないタチなんだ」
立てるっすか? 友兎の問いに、無言で陵司は椅子から立ちあがることで応じた。ゆっくり動いたおかげか頭痛がひどくなることはなかった。代わりに眩暈がして、ふらつきそうになった。怠い。このまま床にうずくまって眠ってしまいたい。
「二乃理さん」
「前から気になってたんすが」
手を差し伸べるべきか迷う表情をしながら友兎が言った。
「友兎で良いすよ。さん付けなしの呼び捨てで」
「じゃあ友兎ちゃん」
「呼び捨てで」
「友兎」微笑みを浮かべて陵司は言った。
「なぜ俺を殺すんだ」
食卓に陵司は手をついた。冷たさが手の平に心地よい。両手をついてしまいたい。椅子にもう一度座りたい。その気持ちを押し止め、若者の目の前に背筋を伸ばして立つ。
「仕事だからっすね」
返ってきたのは、ずいぶん気楽そうな声だった。
「その前に訂正。俺はあんたを殺すつもりなんて無かったすよ。ただ注文されたとおりロックをかけただけ」
「目的も知らずにか」
「知らないすね。二十三年も前の事件なんて、依頼されて初めて知ったんで」
「これまでの仕事でも誰一人殺したことはなかったのか」
「どうでしたかね」
友兎は無表情なままだった。表情をださないよう強張らせているのか、それともなにも感じていないのか。どちらなのか陵司には区別がつかなかった。
「ロックをかけて、そのまま外さなかったことは何度かあったな。報酬が半分になるんで嫌なんすけど」
「おまえ、それでいいのか」
「なにがすか」
「人を死に至らしめているかもしれない仕事をしてることだよ」
「そんなん、今は誰だってそうでしょう」
陵司の顔に当惑の色が浮かんだことに気づいたのだろう、友兎は再び口を開いた。
「コロナが流行って、世の中どうなったっすか? 休んだり在宅勤務できる奴なんて一握りっすよ。通勤電車に乗る。会社に行く。どっかの店でメシを食う。なにしたってウイルスまき散らしてる可能性はゼロじゃない」
「いや、俺が言いたいのはそういうことじゃなく――」
「医者だったか看護師だったか忘れましたけど、毒吐いてるブログ読みましたよ。うつされる危険があるのに毎日深夜まで仕事しなけりゃならない。本当は怖くてしょうがないのにやるしかない。しかたないから仕事してるんだって。自分たちはヒーローでもなんでもない、勝手にそんなものに祭りあげるなって」
――良いことなんて無かったって、いつもそればっかり。
浜風千逢にインタビューしたときの声を思いだす。
――そしたら、しかたないねって。
(あいつも、そうなのか)
望まぬ仕事をしていたのか。正義のためではなく、ただ食い扶持を稼ぐために探偵をしていたのか。他人のプライベートを探り、罪を暴く。恨みを買いかねない汚れ仕事を嫌々ながらやっていたのか。
陵司から顔を背け、友兎はリビングのほうへ歩いていった。知らずしらず食卓に両手をつき寄りかかっていた陵司は、足元がふらつきそうになるのをこらえながら後を追った。
友兎が開けたガラス戸を、リビングに入った陵司が後ろ手に閉める。一人掛けのソファで、飯芝がスマートフォンになにか文字入力をしていた。
「話は終わったかな」
背広の内ポケットにスマートフォンを戻しながら飯芝が言った。視線を友兎のほうへ向ける。
「仕事を降りたいなら構わない。正直、私も望み薄だと思っていたしな。ここらが潮時かもしれん、終わりにしよう」
陵司は三人掛けのソファの端に腰を下ろした。そのまま横になりたいのを我慢する。
「飯芝さん」
耳鳴りがした。額が汗ばんでいる。
「最後にこれだけはインタビューさせてくれ。この調査の目的はなんだ。二十三年も前の事件を、なぜ今さら掘り返す?」
「それは説明できない」
笑顔のまま、しかし断固とした口調で飯芝は告げた。
「こればかりは信じてもらうしかないが、悪いことを企んでいるわけじゃない。人助けだよ」
「俺を病人にするのがか」
「それについてはすまない。このとおりだ」
ソファに座ったまま、飯芝は深く頭を下げた。顔を上げたときには笑みが消え、目に真剣な光が宿っていた。
「考えてもみたまえ。今さら君に誰が悪さをしようと考える? この土地に二十三年も帰らなかった君をだ」
ぐうの音もでなかった。叔母とは連絡をとっていたが月に一回程度だ。学校の友人、親戚、近隣住民、商店街で見知った店員。事件後はろくに言葉を交わした相手がいなかった。
「もう少し説明しよう。まず、霊能力が実在すると信じてもらえるとは思えなかった。もうひとつ、さっき人助けという言葉を使ったが、それが成功する確率はかなり低くてな。事情を明かした上で失敗したら君は自分の力不足を責めるかもしれなかった。諸々を鑑みると、なにも知らないままでいてもらうのが良いと思えた」
人助け? 陵司は内心、首を傾げた。二十三年も前の事件について、今さらなにか明らかにして誰の助けになるというのか。
(たとえば)
本当は、父が蛍吾を殺していなかったとしたら。殺人犯が他にいたならば。
「さっき最後の質問といったが、もうひとつ思いついちまった」
「構わんよ」
「父が蛍吾さんを殺したのは動かない事実なのか。つまり、渕村さんは本当に、父に殺されるような場面を霊能力で目にしたのか?」
一晩で夢は一回きりとは限らない。そんな科学知識をテレビ番組で目にした覚えがある。九十分前後の周期で人は深い睡眠と浅い睡眠を交互にくりかえす。夢は浅い睡眠のとき体験するものらしい。つまり誰だって一晩に三、四回は夢をみる。だが脈絡のない体験を記憶するのは難しく、目覚める直前にみた夢しか覚えていないものらしい。
――初めの悪夢だって現実そのままなんて保証はないんじゃないすかね。
ついさっき、キッチンで友兎が口にした言葉を思いだす。一回目の夢だと思いこんでいたが、あれは初めてではなかったのかもしれない。だとすれば事実と異なるところがあったとしてもおかしくない。
「動かない事実だ」迷いなく飯芝は言った。
「極端な話、渕村が私に嘘を報告したかもしれんな。嘘をつく理由が思いつかんが。たとえそうだとしても、ソファに残った血文字がある。当然だが、被疑者死亡とはいえ警察は他にも物的証拠をみつけている。人間のすることに絶対はないかもしれんが、人間の努力が到達しうるかぎりの確実さで恩陀柾木が戸田間蛍吾を殺した事実は動かんよ」
「……わかった」
瞼が半分下りているのに気づき、陵司は慌てて目をこすった。眠い。猛烈に眠い。頭の中は溶岩のように熱く、思考が渦を巻いている。なにか考えるべきことはないか、なにか見落としはないか。
――あいつが……
両膝に肘をつき、頭を掻きむしる。思いだせ、これは誰の言葉だ?
――あいつがロマンチストだったから、だな。
「そうか」
顔を上げる。一人掛けのソファに飯芝の姿はなかった。
陵司はふりかえった。トレンチコートを着た飯芝が、友兎と一緒に戸口へ向かおうとしていた。
「思いだした」吉報でも告げるかのように陵司は二人へ呼びかけた。
「ロマンチストだったんだよ、蛍吾さんは」
「それがどうかしたかな」足をとめ、ふりかえった飯芝が言った。
「簡単なことだったんだ」
沸騰するようにおかしさが込みあげてきた。陵司は肩を揺すりながら豪快に口を開けて笑った。
「不倫を手助けするなんて馬鹿な真似をして、夫として怒りを覚えて当然だ。だから蛍吾さんを殺した。それだけのことだったんだ」
吐き気が込みあげ、陵司は思わず口元を押さえた。それでも言葉は溢れ、とめどがなかった。
「初めの悪夢で聞いたんだよ。渕村さんに動機を訊かれて、蛍吾さんがロマンチストだからなんて答えた。かつての駆け落ち相手との密会の手はずを整えるなんて、そんな馬鹿なことをしたのを皮肉ったのさ」
「それなら、なぜあのタイミングで事件が起きたのかな? ネックレスを巡る顛末を蛍吾さんが柾木さんに打ち明けたのは稔里さんが命を落とした日。それから二年も過ぎて、なぜ急に手をかけた?」
陵司は噴きだした。あまりにも笑いが収まらなくて、涙までこぼれてきた。
「さあな、そこまでは俺も知らないさ。衝動的な犯行だったんだろ。亡き妻を偲ぶ予定の日だったんだから、会話の流れでネックレスのことが話題にでてもおかしくない。怒りが再燃して抑えきれなくなったってところか。正直、そこはどうでもいい」
「陵司さん……?」
友兎がソファの近くまで戻ってきた。だが、なにか恐れるような表情になると足を止めた。
「これで決まりだ。父さんは人殺しだったんだ。たった一度だけ妻に不倫の機会を与えた。それだけで友人だった蛍吾さんを殴り殺したのさ。なんて畜生だ、心の冷たい化け物だ」
陵司は立ちあがった。正確には立ちあがろうとした。身を起こそうと上半身を傾けると、そのままどこまでも傾いていきそうになった。涙を流しながら陵司は笑っていた。愉快でたまらなかった。ようやく父を罵ることができた。後ろめたさを覚えることなく、心の底から軽蔑し、罪人を糾弾することができた。
「あんな、あんな奴に……あんな奴なんかのために俺は、俺の人生は……」
重心を保とうと、後ろへのけぞった。陵司は三人掛けのソファに横たわると、意識を失った。
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