4 覚えのある名前

 電気ケトルがかちりと音を立てた。沸騰する水の音が小さくなっていく。二つ並べたマグカップに友兎がケトルからお湯を注いだ。香ばしい香りが漂ってくる。

「それ」

 陵司は冷たいカレーパンを一口頬張った。昨夜、乗り継ぎ駅のキオスクで買ったものだ。

「わざわざ持ってきたの」

 赤い電気ケトルを指さす。咀嚼しながらなので、くぐもった声になった。

「お湯がないとつらいんで」

 湯気の立つカップを手に友兎は腰を下ろした。六人掛けのテーブルの、対面ではなくひとつ隣にずれて座る。向かい合わせだと相手の吐く息を吸いこんで感染する恐れが高まるからだ。さすがにTシャツ一枚では寒かったのか、友兎は厚手のセーターを着ていた。

(たしかに)

 友兎からカップを受けとる。熱いコーヒーを啜ると、陵司は身に染みわたるような温もりを感じた。

(寒いな)

 スリッパを履いていても足が冷たい。キッチンの天井近くに目をやった。エアコンのランプが点灯している。まだ温かい空気が行き渡ってないらしい。

(あの日は暑かった)

 二十三年前、事件が起きたのは夏だった。ずいぶん暑くて、上はTシャツ一枚で帰省したのを陵司は思いだした。ガッツポーズをするオランウータンのイラストが描かれていたが、あれはもう捨ててしまっただろうか。

 陵司が高校二年生のときだった。母、稔里みのりが死んだ。海に面した公園で、突堤の周囲に並ぶ消波ブロック同士の隙間に倒れているのを散歩中の老人が発見した。

 公園といっても標高の低い山を整備してランニングコースやアスレチック遊具を備えた自然公園だ。ここから徒歩で二十分ほどの距離にあり、稔里は週末になるとよく散歩にでかけた。

 八月中旬、大型台風が日本を通過した。沖縄本島に接近時は台風の目の直径が一〇〇キロを超えたという。遠く離れたこのあたりでも天気が不安定で、午前中こそ晴れていたが昼に通り雨があった。短い時間だったが雷が落ちるほど強い雨だった。

 警察は事故とみなした。死因は後頭部を強打したことによる脳挫傷だった。搬送のため遺体を持ちあげると、その下のコンクリートが濡れていた。このことから転落したのは雨が降りだした後と判断された。

 稔里は傘を持っていなかった。思いがけず雨が降ってきたことに慌て、少しでも近道をしようと消波ブロックの上を渡り歩いて不注意から足を踏み外したのではないか。当たりどころが悪く意識を失い助けを呼べなかった。くわえて大雨で通りがかる人もなく発見が遅れたことが災いした――そんな説明を受けた。

 そして二年が過ぎた。陵司は大学に合格し、上京して一人暮らしを始めた。父から電話がかかってきたのは七月下旬のことだった。

 ――少し早く帰れるか?

 稔里が命を落としたのは八月中旬、お盆の時期だった。三回忌に参列すべく陵司は帰省するつもりでいた。それを数日くりあげられるかと柾木は言った。

 ――志摩子しまこさんが話をしたいらしくてな。

 九竜くりゅう家は母の実家だ。九竜志摩子は陵司にとって母方の祖母にあたる。

 志摩子の夫、九竜黛三たいぞうは建設会社社長として辣腕をふるった。四十代半ばから政治の舞台に立ち、県議会議員を経て八日乳やおち市の市長を二期務めた。黛三は六十代半ばで急死したが、その息子や孫たちは大学教授や総合病院の院長など大成した者が多い。

 祖母と孫という関係ながら、陵司には志摩子の記憶が薄い。正月とお盆には九竜家へ一家そろって挨拶に出向くのが常だった。床の間を背に着物姿で正座する志摩子は優しい目つきをしているものの、背を正さなくてはならないという衝動に自然と駆られた。

 世間がお盆休みに入る頃、陵司は生まれ故郷へ向かう列車に乗った。だが、母を偲ぶ集まりには間に合わなかった。

 理由は二つあった。廿六木荘からの最寄り駅、久瑠潮くるしお駅は無人駅のため各駅停車でしか降りることができない。乗り継ぎ駅のホームにある蕎麦屋で陵司は遅い昼食をとった。店をでて、ちょうど列車が来たものだから飛び乗ったら快速列車だった。

 それだけなら折り返しの列車に乗れば大きな遅刻にならずに済んだはずだった。だが、もうひとつの不運があった。

 久瑠潮駅は罵賀ばが新線という、八日乳市の南部を東西に横断するローカル私鉄線上にある。踏切で立ち往生した乗用車に列車が衝突、脱線して車両が横倒しになった。車に乗っていた七十代の老夫婦が死亡、列車に乗っていた乗客四十名のうち重軽傷者が十五名、死者三名という惨事となった。

 罵賀新線踏切事故と後に呼ばれるこの大事故が原因で、列車は運転見合わせとなった。いつまで待っても復旧しない列車運行に見切りをつけ、タクシーをつかまえた陵司が廿六木荘に到着したときには陽が暮れていた。

 陵司を待ち構えていたのは柾木や志摩子の叱責どころではなかった。母を偲ぶ集まりに招かれた戸田間蛍吾が父に殺害された。犯行を見抜かれた父は二階にある寝室の窓から飛びおり、犬走りのセメントに頭を打ちつけた。救急車が病院に到着する前に息をひきとったという。

 こうして陵司は帰るべき家を一日にして失った。

「食べながらでいいんで聞いてくれますか」

 友兎の声に、思わず陵司は身震いした。手にしたマグカップの黒い水面が揺れた。

「今日の予定、説明するんで」

 シリアルバーを口にくわえた友兎が不明瞭な声でそう言った。卓上に置いたタブレットを裏向け、陵司のほうへ押しやる。スケジュール管理アプリに細かい字が並んでいた。

慎太しんたくんも来るのか」

 九竜慎太は志摩子の孫だ。陵司には従弟にあたる。事件当時は高校一年生で、母を偲ぶ集まりに参加した一人だった。

「来ないすよ」

「え?」

「オンライン会議なんで」

 なるほど、と陵司はうなずいた。はるばる旅してきて顔を合わせないのも妙だが、今のご時世ではしかたない。

「これ、ふちむらって読むのか?」

 渕村徳恵。名前のほうもわからない。誰だろう。

 かすかに覚えがあるような。記憶を探るべく陵司は意識を集中しようとした。眉間に皺を寄せたが、ぼんやりして頭が働かない。まだ眠気が覚めないのか。

「ふちむら、とくえ」

 コーヒーを一口啜った友兎が言った。

「興信所の人っすね」

 柾木さんを犯人だと指摘した人です。そう友兎は付け加えた。

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