3 悪夢をみたからな

 冷たい水を手に受け、顔に浴びせかける。洗面台は水とお湯の蛇口の他にシャワーが付いていた。新しい住人が洗面台を買い替えたのだろう。

 そういえば「朝シャン」という言葉が子供の頃に流行ったな。部屋から持参したフェイスタオルで顔を拭きながら陵司はそんなことを思った。

 おっと、歯磨きセットを忘れた。部屋に戻ろうとした陵司が扉のほうをふりかえると、口元を手の平で覆った若者が立っていた。

「はよっす」

 くぐもった声で二乃理友兎にのり ゆうとが言った。メタルフレームの眼鏡をしている。昨夜はかけていなかったから普段はコンタクトレンズなのだろう。寒いのにスポーツブランドのロゴがプリントされたTシャツ一枚しか着ていない。

 まっすぐ垂らした前髪を眉際まで伸ばしている。目が細いせいか表情がわかりづらい。コンビニで働き始めたばかりの不愛想な若いバイト店員という印象だ。

「どうしたんです」

「マスク忘れて」

 思わず陵司もタオルで口を押さえた。もう一年近くも煩わされてきたのに、すっかり忘れていた。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の集団発症が初めて確認されたのは二〇一九年十二月、中国の武漢市とされている。翌年には日本でも、集団感染が発生したクルーズ船を巡る対応が取り沙汰されたり、卒業式シーズンに安倍晋三首相から小中学校などに一斉臨時休校が要請されるなど混乱があった。

 ステイホーム、ソーシャルディスタンスという言葉を数えきれないほど耳にした。外出時にはマスクを着用する、建物に入るときは備え付けの消毒液で手を洗う、集団での飲食や会話が生じるイベントは自粛が求められる、テレワークが推奨されるといった「新しい生活様式」によって日常の光景が急速に変わっていった。

 東京オリンピックとパラリンピックの延期が決定され、二〇二〇年の暮れには一日当たりの全国の新規感染者数が増加していき第三波と呼ばれた。それまで全国で三千人台だった新規感染者数が大晦日には四千五百人を越えた。一都三県の知事たちに要請され、ようやく政府は一月七日に緊急事態宣言を発令、後に十一の都道府県に拡大した。

 二月中旬に入ると新規感染者数は二千人を切るほどに減ったが、死者数は増加傾向が続いている。緊急事態宣言はまだ解除されておらず、陵司が昨夜乗った列車はがらがらだった。昨日は祝日だったから金曜日を休みにして四連休を取得した者は多いだろう。それでも都道府県をまたぐ旅行をしようと考える者は少ないのが現状だった。

「まあ、あまり神経質にはならずに」

「そうですね」

 洗面室をでていく陵司と、入ってくる友兎がすれ違った。

「恩陀さん」

 後ろから声をかけられ、陵司は足をとめた。ふりかえりつつ口元をタオルで覆う。

「大丈夫ですか」

「なにが」

「いや、顔色悪いなって。眠れなかったんすか?」

「そうだな」

 悪夢をみたからな。ささやくような声で陵司はそう言うと、廊下を歩いていった。

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