5 なんで知ってる

 ぺたぺたとスリッパの音をさせながら階段を下りる。廊下に到着すると同時に、足元でオレンジ色の明かりが点いた。人の動きを感知して点灯するタイプなのだろう。ここは窓がなく暗いから、後から入った住人が設置したに違いない。

「えっと」

「右のほう」

 階段を先に下りた友兎が左右を見渡したので、陵司が教えた。ああ、と寝呆けた声をあげて友兎はスライドドアの把手に手をかけた。

 薄暗い、がらんとした空間が広がっていた。正面右手に棚がある。壁に造りつけで、奥行きが五十センチ以上はありそうな大きな木製の棚だ。今はすべての段が空っぽになっている。

「ここに隠したそうです」

 正面左手にある引き戸を開け、友兎が中を覗きこんだ。さっきのTシャツと同じブランドのロゴが入ったスポーツマスクをしており、声がくぐもっている。

「なにを?」

 友兎の肩越しに陵司も覗いてみた。ハンガーパイプや、天井近くに吊り棚がある。ウォークインクローゼットだ。礼服や若い頃の服を母がここに収めていたことを陵司は思いだした。

「遺体っすね、被害者の」

「ああ……」

 父は犯行を隠蔽しようとしたのか。そう理解すると同時に、白い布に包まれたミイラのような物体が陵司の脳裏に浮かんだ。

「殴って……やばいと思って……シーツにくるんで……」

「正確にはシーツじゃなくて、埃避けのためソファに被せてあった布だったそうです」

「ソファ……」

 重心がぐらつくような感覚がした。熱でも確かめるように陵司は手の平で額を覆った。身体を回転させ、部屋の奥に目を向ける。壁際に三人掛けのソファがある。

「なんで知ってるんすか?」

 背後からの友兎の問いかけが、なぜか自分とは関係のないことに思えた。ふらつく足取りで陵司はソファのほうへ歩を進めた。

 恩陀柾木さんの事件について取材させてほしい――三週間ほど前に二乃理友兎から電話で依頼されたとき、陵司はけして良い気はしなかった。九竜家の威光のおかげかマスコミ関係者に声をかけられたことはなかった。とはいえ、事件にまつわる暗い記憶は一つや二つではなかった。

 友兎と会話するうちに気が変わった。もう四半世紀近くも昔の出来事だ。ノストラダムスの大予言が外れ、世界的大不況に見舞われ、千年に一度の大地震が日本を襲って原子力発電所がメルトダウンし、パンデミックで世界中が大打撃を受けている。今さら前世紀の一家庭の悲劇を語ったところでどうということもない。

 日を改めてオンライン会議でインタビューを受けた。陵司は中規模のIT企業に勤めており、普段から在宅勤務をしているためノートパソコンやマイク付きヘッドホンの準備は足りていた。

 ディスプレイで初めて友兎の顔を目にしたときは驚いた。電話の落ち着いた声から同世代を想像していたが、まだ二十代前半だという。フリーのライターをしていると友兎は語った。地方公共団体に依頼されてウェブサイト向けの記事を書いたり、ミニコミ誌の取材や編集に携わったりしている。大手新聞社の地方支局でアルバイトをした経験もあるという。

 現状はなんでも屋に近いが、ルポライターを目指している。生まれる前とはいえ地元で起きた大きな事件として関心がある。今はあてがないが、いずれ犯罪ノンフィクションとして文章を発表したいという。

 つまりは若造のライター修行につきあわされていると知り、かえって陵司は気が楽になった。質問されるまま知っているかぎりのことを陵司は語り、小一時間で取材は済んだ。友兎から再び電話がかかってきたのは、それから数日後のことだった。

 ――泊まってみますか。

 どこに、と陵司が問い返すと「廿六木荘に」と答えがあった。

 廿六木荘は借家だ。土地と家屋は九竜家のもので、恩陀家は身内だけにタダ同然の賃料だった。人殺しと自殺があり、さすがに事件の後しばらくは買い手がみつからなかった。新しい住人が棲みついたのは十五年ほど前らしい。その住人が廿六木荘を手放す。取材のため利用させてもらえるよう九竜家に話をつけたという。

 ――ホテルなんか探さなくていいですからね。

 ベッドやテーブルなど調度品のほとんどが廿六木荘の一部だ。布団やトイレットペーパーなど一部必要なものは友兎が持ちこんでくれるという。ビジネスホテルではないので寝間着やタオル、歯ブラシは持参しなければならない。食事は自前だが飲み物くらいはこちらで準備する。そういったことを陵司は説明された。

 とまどいはあった。事件から二十三年間、陵司は八日乳市に一度も帰らなかった。足を一歩でも踏み入れれば石で追われそうな気がした。友兎の長々しい説明に耳を傾けながら、こんな機会は一生に一度だけだと陵司は覚悟した。

 スケジュールをすりあわせた結果、事件関係者たちへのインタビューは二月中旬の金曜日にまとめて片づけることになったという。前日の木曜日は祝日だった。陵司は金曜日に有給休暇を取りたいと上司に頼んだ。土曜日に休日出勤で埋め合わせすると約束し、どうにか休みをとることができた。地元の友人が結婚したのでも親族が亡くなったわけでもないと話すと「見合いか」と勘繰られた。

 納期間近な仕事を片づけるため、水曜は深夜まで残業した。翌朝、目を覚ました陵司はスマートフォンの時刻表示に愕然とした。寝過ごしたのは明らかだった。大慌てで着替え、六畳一間のアパートを飛びだし、小走りで駅に向かいながら友兎に遅れる旨を連絡した。

 陵司には叔母がいる。柾木の妹で津久三理子つくみ りこという。事件の後も唯一この叔母とだけは月に一度は電話で話をした。いつ墓参りに帰るのかと初めの数年はやんわり言われたこともあったが、やがておたがいの近況をただ伝えあうだけになった。

 かつて理子が勤務していた花屋がクレーム詐欺の被害に遭い、大手新聞社の取材を受けた。そのとき名刺を渡された新聞記者から友兎を紹介されたという。そもそも陵司が友兎の取材依頼を受けたのは理子に話を持ちかけられたからだった。

 新幹線と在来線を乗り継ぎ、初めに向かったのは津久三家だった。無沙汰を詫びながら土産物を両手で差しだすと、マスクをした理子は瞼を細めた。記憶していた叔母の顔が思ったより老けており、陵司は涙ぐみそうになった。夕飯を食べていけと誘われ、寝坊して遅れている事情を明かすと笑われた。

 廿六木荘に到着したときには午後八時を過ぎていた。まさか二十三年ぶりの帰省まで遅刻するとは思わなかった。友兎と改めて挨拶を交わし、かつて陵司が寝起きした二階の部屋を案内された。疲れがでたのだろう、他人の枕や布団に違和感を覚える間もなく眠りに就いた。そして、それから――。

「……無い」

 口元が熱い。吐く息がマスクにこもって汗ばんでいる。五十枚で三百円の使い捨て不織布マスクだ。

 陵司はソファを見下ろしたまま立ち尽くしていた。焦げ茶色の座面の四方八方に視線を走らせる。おもむろに回れ右すると腰を下ろした。背中を丸める。右に、左に、目を向ける。やはり無い。

「どうしました」

「無いんだ」

「なにが」

「血文字だよ、マサキって」

 ハッとなった。なにを口走ってるんだ、しっかりしろ。心の中で陵司は自分に言い聞かせた。

 あれはただの悪夢だ。旅の疲れがみせた夢に過ぎない。二十三年ぶりに我が家へ帰った興奮がもたらした幻でしかない。陵司はきつく目を閉じた。瞼の裏を星のような光がちかちかと瞬いた。

 長い夢だった。これほどまでに理路整然とした、現実の感覚に近い夢は初めてだった。もちろん、なにからなにまで覚えているわけではない。夢だけにあいまいなところ、細部を思いだすのが困難なところもある。

 これだけは確信できた。夢の中で、陵司は父になっていた。まるで二十三年前の柾木の身体に憑依したかのように、犯行の瞬間から自死に至るまでを経験した。

 ――俺は……まさ……。

 今朝、ベッドで目覚めたときの混乱を思いだす。

 ――ちがう、陵司だ。

 奇妙な感覚だった。夢の中で陵司は陵司ではなかった。自分を父だと、恩陀柾木だと信じてなにも疑わなかった。没入感があまりに強く、目が覚めてもしばらく自分は柾木なのか陵司なのか混乱するほどだった。

 それは戸田間蛍吾を殺害する場面から始まった。薄暗い物置部屋で陵司は、いや柾木はなにかを、そう、懐中電灯を逆手に握って蛍吾の頭にふりおろした。死体をクローゼットに隠し、来客に対応した。運悪く探偵に死体をみつけられ、一人ずつ行動を問い詰められた。物置部屋で探偵と対決し、そして敗れた。

 警察に自首する前に着替えをしたいと頼んだ。妻と過ごした寝室の窓を開け、窓枠に足をかけた。夕暮れに赤く染まる海を眺めながら、これを目にするのも最後だと思った。目を閉じ、宙に身を預け、重力が消失したときの気味の悪い感覚さえ思いだすことができた。

「あったっすよ」

 耳から入ってきた言葉に、陵司は瞼を開いた。視線を上に向ける。眠そうな目をした友兎が、つまらない事務報告のような口調で告げた。

「ありました、血文字」

「なんだって?」

「戸田間蛍吾さんは死ぬとき、告発を残したんです。マサキって、恩陀さんのお父さんの名前をソファに。それで犯行がバレた。ソファが事件後にどうなったかは俺も知らないですね。血を洗い落としたのか、後の住人が持ちこんだ別のソファなのか」

 でも、問題はそこじゃないっすよね。ゆらゆらと友兎は首を左右にふった。

「恩陀さん、なんで血文字のこと知ってるんですか?」

 口を半開きにし、友兎の顔を見上げたまま陵司は動けなかった。

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