6 ただの悪夢だよ
玄関口で友兎は飯芝を見送った。トレンチコートの後ろ姿が遠ざかり、生け垣の向こうに姿を消しても友兎はまだ立ち尽くしていた。
雪がちらついていた。鉛色の空から舞い降りる無数の白い粒をしばらく友兎は眺めていた。温かい地面に触れると雪はすぐに融ける。遠くで波の音がしていた。
寒気がした。身体が冷えてきたのに気づき、友兎は玄関扉を閉じた。長い廊下を歩く。まだ午後四時過ぎのはずだが、日が暮れたかのように暗い。
リビングの扉を開けて、思わず友兎は動きを固めた。薄暗いせいではなかった。意識を失った陵司のため明かりを消してやったのは友兎自身だった。
驚いたのは、陵司が起きていたからだった。三人掛けのソファに横たわっていた陵司が今、上半身を起こしている。背筋をまっすぐ伸ばし、静かに微笑んでいる。
かけてやったはずのモッズコートが床に落ちている。髪が乱れていた。背広姿の男は宙をみつめ、友兎が部屋に入ってきたことすら気づいていない様子だった。
「起きたんすか」
ソファのほうへ歩み寄る。友兎は陵司の顔を観察した。土気色した肌、乱れた髪、血走った目。表情は穏やかだが、まだ休養させたほうが良いかもしれない。
「もう一杯、コーヒーでも飲みます?」
カフェインは睡眠に良くないかもしれないが、コーヒー以外の飲み物となると水道水しかない。寝起きで頭の働きが鈍いのか、陵司の返事はなかった。
ローテーブルに空のカップやシュガーの空き袋などが散らばっている。友兎はゴミを拾い集めていった。
ふと、手を止める。おかしな音がした。よくわからない、野生動物の唸り声のような音。
音がした方向に目を向ける。陵司が肩を震わせていた。ぶ、ぶ、ぶ。蝿の羽音のような音がした。それは次第に大きくなり、かすれた笑い声へと変わっていった。
床に置いていた半透明のビニール袋に友兎はゴミを捨てた。その間も、背後からはずっと笑い声が漏れていた。途切れては続き、ときおり咳こみ、ぜいぜいと息をして、そしてまた笑いだした。
「勝った、俺は勝ったよ……あのババアにやっと勝てた……」
「なにかあったんですか」
一人掛けのソファに友兎は腰を下ろした。
「騙してやったのさ」
おどけたように瞼を見開き、陵司は黒目をぎょろりと躍らせた。
「騙してやった。あの名探偵に、見当はずれの推理をさせてやったんだ」
「どうやって」
「使い古された手さ。死体を入れ替えたんだ。別人の死体を蛍吾だと思わせた」
「別人って、誰すか」
「俺だよ」
胸に手をあて、陵司は吹きだした。歯を剥き出しにし、顔を上下に揺らして笑い続ける。
「恩陀柾木は息子さえ殺すのさ。俺が列車を間違えるはずだったのを、ご親切に電話で忠告してやった。そうして正しい時刻に着いた俺を車で迎えに行って、ガレージでがつん!」
見えないなにかを握った陵司が、勢いよく腕をふりおろす。
「モンキーレンチで殴り殺したのさ」
顔をうつむけ、黙りこむ。額を一筋の汗が流れていく。友兎には見えない死体が転がっているかのように、背広姿の中年男性は恐怖に満ちた顔で足元をみつめている。
「それから」がばりと陵司が顔を上げた。
「崖から俺の死体を投げ落としてな。蛍吾くんの服を着せて、勘違いさせたわけさ」
蛍吾くん?
友兎は違和感を覚えた。たしか陵司は戸田間蛍吾のことを「蛍吾さん」と呼んでいなかったか。
「あのおばちゃん、まんまと罠にひっかかりやがった。俺のことを犯人呼ばわりしやがったよ。でもな、その時点で蛍吾はまだ死んですらいなかったんだよ。俺は警察に連れていかれる前に着替えだけさせてくれって頼んで、二階に行って、そして……ハハハ……」
三人掛けのソファの端、肘掛けに腕を置いて友兎のほうへ身を乗りだし、楽しそうに語り続ける男の顔をみつめる。
友兎は取材を申しこんで初めてオンライン会議で陵司の姿を目にしたときのことを思いだした。平凡な中年男だと感じた。小太りでみすぼらしく、気の弱そうな男だと。
今、目の前には別人が座っていた。暗い熱を腹に溜めた男。誰にも理解されない怒りと悲しみに打ちのめされた孤独な男。初めて信頼できると感じた仲間にどす黒い感情をこっそり打ち明ける。顔を醜く歪ませながら得意げに語っている。
「それで、そうして俺はさ、懐中電灯で――」
「陵司さん、聞いてください」
友兎は気怠さに包まれていた。背中に誰かがのしかかっているような疲労感。水の底を歩いているような感覚。なんて嫌な仕事だろう。どうしてこんな馬鹿な仕事を引き受けてしまったのか。友兎は自分自身を蹴り倒したくてしょうがなかった。
「言ったでしょう、降りたって」
息を吐く。息を吸う。友兎は力をふりしぼった。これだけは伝えなければならない。
「俺が悪夢をみせてるんだろうって陵司さんに見抜かれて。それで俺、この仕事もう降りるって言ったじゃないですか。あんときロックを外したんすよ。とっくに俺は能力を解除してたんです」
陵司はぽかんと口を開けていた。意味が伝わっていない相手に、友兎はとどめの言葉を突きつけた。
「あんたがみたのは、ただの悪夢だよ」
腕を伸ばし、肘掛けの上の陵司の手の甲に友兎は自分の手を重ねた。だが、陵司は唇の端からよだれを垂らし、呆けたように友兎の顔を見返すばかりだった。
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