7 まだ走れる
雪が降っていた。今にも途絶えそうな弱々しい降り方だった。陵司は海岸沿いの道を歩いていた。堤防に阻まれ海は見えない。雪が音を吸収するのか、波の音もしなかった。
歩道が緩やかにカーブしている。車道をときおり車が通り過ぎるものの、歩道には誰の姿もない。革製のナップサックを肩にかけ、黙々と足を運ぶ。雪はまだ積もらず、地面に触れては融けていく。水たまりを踏まないよう、気をつけながら陵司は足を進めた。
嘘のように熱はひいていた。喉がわずかに痛む。もう少し休んでいけと友兎に引きとめられたときは迷ったが、このぶんなら大丈夫そうだ。
急ぎそうになる足にブレーキをかける。慌てるな、慎重に行けと身体に言い聞かせる。まだ治りきっていないかもしれない。ここで無理して体力を失うと、今度こそコロナに感染するかもしれない。
ふと目を奪われる。二十三年前から変わっていないもの。遠く続く山並みの形、送電線の鉄塔、お地蔵様の御堂、アスファルトのひび割れ。なんでもないものに心を奪われる。
そういえば、この道を走ったことがあった。小学校のマラソン大会だったか。親子で一緒に走ったのだから、この辺りの地区の運動会だったかもしれない。凍えるような冷たい風の吹く寒い日だった。
子供の頃から陵司は小太りで足が遅かった。おまけにあの日は風邪気味だった。走るのがつらくて泣きだしそうになった。父と一緒に走った。一緒というか、後ろから追いかけられていた。がんばれの一言くらいかければいいものを、柾木はずっと黙っていた。ただ足音だけがしていた。
昔から父はそうだった。人に煩わされるのを面倒に感じる性格だったのだろう。あまりの遅さに苛立った父が怒鳴りだすんじゃないかとさえ思った。
(ここにいたんだな)
ふりかえる。遠くに廿六木荘があった。切妻屋根、板を横張りにした白い壁。アンドリュー・ワイエスの作品に描かれていそうなアーリーアメリカン調の建物。
(俺は、ここにいた)
駅のほうへ向き直る。足を進める。
思えば広すぎる家だった。部屋も、リビングも、庭も、なにもかも。地方の名士の家に生まれた娘が、結婚を機に与えられた立派な家。地方銀行勤めの父は、あの家をどう思っていたのだろう。妻を喪い、大学進学のため息子が去り、あの空っぽな場所でどんな時間を過ごしたのか。
慎太が遊びに来て、戸田間父娘もいて、あの広すぎる家はちょうど良くなったのかもしれない。大勢で鍋を囲み、庭でボール遊びをし、ときに海岸を散歩し、深夜までトランプをして熱くなった。
幼い頃から陵司は人付き合いが苦手だった。体力がなく、やる気がなく、協調性がなかった。勉強だけはできた。小学五年生のとき、図書室で本を借りた冊数で一番になった。
母が亡くなった日はつらかった。死を知らされたからではなく、死が確定するまでの時間が耐え難かった。夕方になっても帰らず、家の中の雰囲気が少しずつ重いものへ変わっていった。病院から連絡を受けても信じられなかったのだろう、稔里の死を明確には口にしないまま柾木は身元確認にでかけた。
凜も慎太も口にすべき言葉が思い浮かばない様子だった。陵司は自室にひきこもり、父の帰りを待った。なにもすることが手につかず、ベットの端に腰かけて波の音に耳を傾けていた。受験を控えた微妙な時期だった。落ちこんだ陵司に凜たちはさりげない気遣いをしてくれた。一人だけでは母の死を乗り越えることはできなかったかもしれない。
(そうか)
吐いた息が白く凍る。
(反動が来たのか)
あの頃が楽しかったから、反動が来た。なにもかも信じられなくなった。
大学に入学して初めの頃は普通にやっていたように思う。授業の合間や昼休みに会話を交わすくらいの相手はいた。映像研究会というサークルに入り、飲み会にでたりもした。
あの事件の後から人付き合いが悪くなっていった。自分の感じたことや気持ちを言葉にすることにためらいを覚えるようになった。
事件の後、警察からは何度も父や蛍吾について痛くもない腹を探られた。廿六木荘に帰ったとき凛や慎太とも顔を合わせたはずだが、なにを話したか覚えていない。蛍吾の葬儀のときも遠目に視線を交わしただけだった。罵声こそ浴びせられなかったものの周囲から向けられる視線は冷たかった。凜や蛍吾の妻にどんな言葉をかけるべきかわからず、針のむしろとはこのことかと痛感した。都内へ戻る列車の中、車窓に映る自分の顔を目にして、父の死に一度も涙を流していないと気づいた。
大学生活に戻ってから、数回ほど携帯電話に慎太から連絡があった。最近どうしてますか、くらいの簡単なやりとりをしたように思う。いつも尻切れトンボのしらけた会話で終わった。陵司はろくに相槌すら打てなかった。
――黙っていて、すみません。
背広姿で頭を下げた慎太の姿を思いだす。今にして思えば、慎太は志摩子にビデオテープの映像について相談したことがあの事件を招いたかもしれないと後悔していたのではないか。後ろめたさを感じ、せめて絆を保とうと電話した。だが、あの頃の陵司には無理だった。はっきり拒絶する言葉を口にしたわけではない。無自覚なまま心を閉ざしていた。
アパートの郵便受けに届いた結婚式の招待状を手にしたとき、しばらく動けなかったのを覚えている。新卒で入った企業を退職し、新しい就職先を探して駆けずり回っていた頃だった。タイミングが悪かったとしか言いようがない。嬉しさも懐かしさも、悲哀も怒りも、なにも感じなかった。他人の幸福が煩わしかった。祝電を送るのが精一杯だった。あのとき無理をしてでも出席していれば、違う今があったのかもしれない。
会社を辞めたのは入社何年目だったか。大学を卒業し、半年間の研修を終えて面倒役となった先輩が粗暴な性格だった。あの頃、毎日どんな罵倒を受けたか不思議と覚えていない。オフィス内で席替えがあったときのことだけ印象に残っている。先輩のディスプレイをウェットティッシュで拭くよう命じられた。真っ暗なディスプレイに自分の顔がぼんやりと映り、死人のようだと思った。
運も悪かったのだろう。同期入社が多く、上からすれば使えない奴らばかり大量に入ってきて大変な時期だった。産業医と面会するたび、明るい雰囲気を取り繕うのに苦労した。やがて仕事にも慣れた。大手だけに協力会社と組むことが多かった。陵司は仕事の手が遅い者にネチネチと小言を垂れ、ミスをする者には遠慮なく罵声を浴びせた。かつての粗暴な先輩と自分が同じことをしていると気づき、どっと疲れが押し寄せた。会社を辞め、半年ほど職探しに明け暮れた。
今にして思えば自分は運が良いほうだった。就職氷河期と呼ばれた時代に大手企業にすんなりと入ることができた。すぐに転職できたのも大学の名前のおかげだろう。管理職は向いていない、もっと技術を磨きたいと建て前を掲げて、本音は人付き合いが嫌になっただけだった。
不思議と仕事上のコミュニケーションは問題なかった。仕様の解釈を議論するのに遠慮は要らなかった。雑談はダメだった。目的のわからない会話を延々とするのは不安になってくる。その不安の正体について自覚したのは三十代を過ぎてからだろう。自分は人を信じられないのだと気づいた。
信じられるわけがないだろう。ある日突然、母を喪い、父がなんの理由もなく友人を殺して。無茶苦茶だった。呪われていると思った。父を信じたかった。信じられなかった。呪った。なんて不幸なんだと落ちこんだ。そういうのはたいてい季節の変わり目の、雨や曇りが続く時期だった。晴れの日が続くと、また信じたくなった。そんなことばかりくりかえしていた。
信じたいという思いはなにも美しくない。信じられないという大きな絶望から顔を背けることでしか信じたいという願いは生まれてこない。
――あんたがみたのは、ただの悪夢だよ。
友兎の声が耳に蘇った。
(俺の人生は)
ずっと思い込みに囚われていたのかもしれない。
(幻か)
いっそ不幸だったら良かったと陵司は思う。父に人生を踏みにじられた被害者だったなら、そう言い切れたならどれだけ楽だっただろう。すべては自分自身の責任だった。自業自得だった。視線を向けられることを厭い、言葉を交わすことから逃げ、そして人を嫌った。
他人の不幸を慰みに幸せを感じる馬鹿になりたかった。他人の幸福を喜び自分の幸せにできる聖者になりたかった。どちらにもなれず、ただ休みの日になると散歩をした。知らない街の知らない路地裏を黙々と歩き続けた。人並みの幸せなど要らない、報われなくとも構わない、未来に希望がなくてもしかたがない。ただ怠惰でいさせてほしかった。不安しかない毎日に疲れ切っていた。
誰だって、そうなのだろう。若いうちは夢中でがんばれる。やがて世の中の不条理に打ちのめされ、自分は世界一不幸な人間だとどん底まで落ちこむ。誰にも心を開くことができなくなる。しばらくすればまた歩きだす。疲れを忘れ、人を信じようとし、己の愚かさを忘れて走りだす。真っ黒な落とし穴に落ちるまで止まることができない。
悪人はいるだろう。不条理なこともあるだろう。けれどそれらが存在しなくとも、人は必ず道に迷う。誰にだって愚かなところがある。ほんの少し足りないところがなにかの偶然で掛け合わさって、取り返しのつかない事態を招く。そうやって呪われながら生きていく。きっと、あの探偵にすら愚かなところはあるのだろう。
足をとめ、陵司はふりかえった。建物の陰に隠れ、廿六木荘はもう見えなかった。立ち尽くしたまま陵司は待った。自分でもわからないなにかを、静寂の中に探した。
音が聞こえた気がした。かすかな息の音が背後から聞こえた。あの日、ずっと息子の背中を追い続けていた父。あまりにも遅い子供の足に合わせ、なにも語りかけることなくただ後を追う。波の音のようにくりかえし続く呼吸の音にずっと陵司は耳を澄ませていた。
(まだ走れる)
たしかにあの日、感じた。この音に包まれていれば、まだ走り続けることができると。冷たい風を顔に受けながら幼い陵司は心に念じた。足は棒のようになり、頭は熱っぽく、疲れ切っている。ぜいぜいと息を荒げながら、それでもまだ走ろうと思った。
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