8 殺しておけば

 リビングの床に置いた旅行用のスーツケースを閉じる。友兎は首を傾げた。まだなにか忘れている。「ああ」と声を漏らして立ちあがった。

 トイレに行く。トイレットペーパーを外す。リビングに戻ると友兎はスーツケースを開いた。空きはあるが、充分なスペースがない。いくつか物をとりだし、詰め直した。トイレットペーパーを入れる。入りきらない。スーツケースを閉じる。力を込める。閉まりきらない。施錠できない。

 スーツケースを開く。ふん、と鼻を鳴らす。友兎は立ちあがった。スーツケースを片手でぶらさげ、ひしゃげたトイレットペーパーを反対の手に持って歩きだす。

 あらかじめ玄関前に車を寄せておいた。ファー付きの革ジャンのジッパーを下ろして前を広げ、トイレットペーパーが雪に濡れないよう覆う。スーツケースを背負って運んだ。

 地面がシャーベットのようになっている。このまま降り続けたら、積もるかもしれない。

(雪合戦ができるな)

 友兎が中学一年生のときだった。校庭に足首が埋もれるほど積もったことがあった。この地方としては記録的な降雪量だった。昼休みにクラスの男子たちがほとんど校庭にでてきて、雪玉をぶつけあった。

 陵司にはひとつ嘘をついた。友兎の能力は無自覚でかかることはない。修学旅行のとき悪夢にうなされたのは、友兎に雪玉をぶつけてきた奴だった。

 初めて気づいたのは小学校に上がる頃だった。誰かと一緒にいると友兎は穴のようなものを感じた。人は家族の顔でさえ、まじまじとみつめて初めてこんな顔だったかと思うことがある。ぼんやり注意不足のまま時を過ごし、心の中のイメージだけで把握したつもりになっている。友兎にとって鍵穴はそういうものだった。相手の顔やどこかに物理的形状として穴が見えるわけではない。鍵穴としか喩えようがないものをイメージとして感じ、そんなものを感じるのは自分だけだと気づいた。

 成長するにつれ友兎は新しい発見を重ねていった。鍵をイメージする。鍵穴に差しこもうとするが、入らない。相手に合わせて鍵の形を変えなければならない。稀に鍵が入る相手がいた。しかしそれを回すことはしなかった。大きな不安が壁のように立ち塞がって回せなかった。鍵をかければ悪いことが起きる。そんな直感があった。

 中学生になった友兎は一人の男子を意識するようになった。格別仲が悪いわけではなかった。クラスメイト全員を友達だと勘違いしているような、陽気で頭の悪い男子だった。大雪が降った日、友兎は寒さにうんざりしていた。そいつに声をかけられ、渋々校庭にでた。どうすればいいかわからず眺めていただけの友兎に、遠慮なく雪玉をぶつけてきた。

 似たようなことは何度もあった。いつも仏頂面で人の輪から離れている友兎を気にかけていた、というわけではなかっただろう。そいつは誰にだって声をかけた。成績が悪く、授業中におどけた発言をして皆を笑わせ、誰かに頼まれたわけでもないのにリーダーシップを発揮する。きっと世間はこんな男を良い奴だと評価するのだろう。

 まさか三年も同じクラスになるとは思っていなかった。同じ班になり、バスの中ではUNOで遊び、背中を強く叩かれ、深夜までどうでもいい会話で盛りあがり、そして友兎は鍵を差しこんだ。すんなりと鍵穴に収まり、ためらいもなく友兎はロックをかけた。

 死ねとは思わなかった。苦しんで少しは反省しろとも思わなかった。体調が悪化していくクラスメイトの顔に友兎はとまどいを覚えた。自分のせいだという自覚があり、どうすれば元通りにできるかもわかっていた。それでも友兎には鍵を外すことができなかった。恐怖と同時に安堵があった。

 このまま黙ったまま、なにもしなければ。誰も俺の仕業だとは気づかない。きっと思い込みだ、そんな超能力まがいの力なんてあるわけがない。俺のせいじゃない。この旅館の火事で焼け死んだ人々の祟りだ。そうに違いない。後は忘れてしまって構わないんだ。もう意識しなくて良い。やっと息苦しさから解放される。

 友兎はなにも知らなかった。異能の血縁者を監視する者が学校に潜んでいた。誰がその役目を務めていたのか未だにわからない。旅館へ駆けつけた父から鉄拳を浴びせられ、八日乳市では組合――宇祖里協同組合の許しなく力を使うなと厳命された。

 初めは何度か父と一緒に仕事をした。組合に所属する者たちと挨拶し、仕事の流れを覚えた。それは数回だけで、翌年にはもう一人で依頼を受けていた。

 小遣い稼ぎとしては悪くなかった。命じられた場所に行く。相手の顔を写真で覚える。簡単な変装をして近づき、顔をしばらく観察して相手に合った鍵の形をイメージする。すれ違いざま鍵を差しこみ、ロックをかける。それだけで万単位の金が支払われる。と言っても右から左へ父に渡すことになっており、自由に使えるわけではなかった。平均すれば年に三、四回ほど、半年以上も空いたことさえあった。生業には到底できないと理解していた。

 飯芝と初めて会ったのは高校生のときだった。就職先を紹介してくれる偉いおっさん。その程度の認識だった。組合との関係が深いと聞き、マスコミ関係を希望した。組合から信頼されていれば八日乳市で食いっぱぐれることはない。

 高校卒業後に大手新聞社でアルバイトをした。テープ起こしと資料整理ばかりさせられた。若いならわかるだろうとパソコンの使い方を相談され、表計算ソフトウェアに詳しくなった。事務仕事が性に合っていると初めて知った。

 いつしか霊能力者としても一人前として認められてきた。依頼は相変わらず少なかったが、高校を卒業してからは報酬をすべて自分のものにできた。依頼内容の背景を最低限だが説明されるようになった。依頼主や目的は明かされないことが多かったが、ターゲットの習慣的な行動や同居相手くらいは知っていないとトラブルに対応できない。

 殺しが目的の依頼はほぼ無いこともわかってきた。幽霊にとり憑かれたかのように死ぬというのは、警察も死因を見抜けないメリットこそあるものの目立ち過ぎるのだろう。さまざまな依頼があった。法では充分な処罰がされない非道を為した相手に後悔させたい。事故だったのか殺人だったのか警察の捜査だけでは白黒つけられなかった事件の真相を知りたい。変わったところでは依頼主本人にロックをかけたこともあった。死者の心を知りたい、死の間際になにを思ったか知りたいという願いからだった。

 父から厳重に注意されたのはロックを外すタイミングの見極めだった。たいがいは病院で、部屋を間違えたふりをして病室に入る。相手はベッドの上でいくつも管をつながれ、脂汗に塗れながら苦悶に呻いている。早すぎれば依頼主の目的に沿わないかもしれない。遅すぎれば相手は死ぬ。

 初めのうち、こんな判断は依頼主のほうですべきだと友兎は思った。呪いをかける特殊な能力を貸してやる立場なのになぜこんな重い判断をしなければならないのか。よくよく考えてみれば当たり前の話だった。依頼主は一般人に過ぎない。幽霊にとりつかれ悪夢にうなされながら衰弱していく人間など見慣れていない。そうなった者たちを何度も目にしたプロでなければ判断できない。

 高校生のときは父や組合の者たちと相談していた。やがてロックを外すべきか相談されることが次第に増えてきた。新聞社の仕事もあるから友兎が二十四時間見守るわけにはいかない。依頼側に判断を頼み、友兎のスマートフォンに連絡が入る。駆けつけてみると、ロックの解除は要らなくなったと言われたことが何度かあった。

 新聞社でのアルバイトを二年続けたが、正社員として採用されることはなかった。そこで知りあった上司の一人からミニコミ誌の仕事を紹介された。新しく建設される市の託児施設について取材した。街頭で声をかけてはインタビューし、市役所による公民館での説明会に参加した。

 それはネットで十分もあれば読める記事でしかなかった。だが、今までにない充実感を覚えた仕事だった。さまざまな声があった。歓迎する人がいた。駅からの遠さに不満を漏らす者がいた。騒音を心配する声があった。新聞社の片隅でコピー・アンド・ペーストをくりかえしていた文字列にどんな顔があったのか初めて知った。

 なにかが自分の中で変わった気がした。新しく呪いの仕事を頼まれたとき、ロックを解除するまで付き添わせてほしいと友兎は頼んだ。タイミングが遅れれば呪いをかけた相手は命を失うかもしれない。できるだけ近くにいて様子を見守るほうがいいと訴えた。電話口の向こうから、余計なことは考えるなとだみ声がした。

 風向きが変わったのは翌日のことだった。高校時代に面接されたきりだった飯芝と再会し、依頼内容を説明された。今にして思えば、都内にいる陵司を呼び寄せる口実として駆け出しとはいえライターである友兎は都合が良かったのだろう。望みどおりロックをかける相手を間近で見守る機会を得た。

(やるんじゃなかった)

 ハッチバックドアを開ける。スーツケースを置き、トイレットペーパーを放り投げる。奥のほうまでトイレットペーパーが転がっていった。

(放っておけば良かったんだ)

 責任をとりたかった。ターゲットの様子を観察し、もし命の危険がありそうなら早めにロックを解除する。その程度の判断は当然できると思いこんでいた。

 体調を崩していく陵司の姿を横目に、友兎は迷い続けていた。まだしっかり会話ができる。さっきは眩暈がしたようだが、今はまっすぐ歩いている。せめて飯芝が来るまでは続けるべきだ。言い訳を頭の中でくりかえしていた。玄関で陵司が気を失って倒れる姿を目にして、胸が締めつけられるように痛んだ。

 なんのことはない。判断を早まりすぎることのほうを恐れていた。生まれつきの異能を活かした、自分にしかできないこの仕事を失うことを恐れていた。

 依頼主の事情はさまざまだ。理不尽な目に遭った被害者もいる。不条理な仕打ちを受けた弱者のため不条理な手段で社会に復讐してなにが悪い。そう言い訳をして、汚れ仕事をしている自分を正当化していた。

 本音はただの見栄っ張りだった。誰かに必要とされる仕事をしたかった。中学のときから一歩も成長していない。善人の皮を被って、本音では他人のことなどどうでもいい。気の合わない奴らと関わらなければ生きていけない世の中にうんざりしながら、心の隅では誰かに認められたいと願っていた。

(死ねばよかった)

 両手でハッチバックドアをつかみ、押しさげる。力が入りすぎたのか、いつもより大きな音がした。

(殺しておけば)

 もっと楽に息ができていただろう。あいつがいなくなった静かな教室で穏やかに日々を過ごせただろう。修学旅行が終わってから卒業まで、友兎はよりいっそう深い自己嫌悪に悩まされ続けた。

 瞼を細め、友兎は頭の中にあるリストにチェックをつけた。あとはブレーカーを落とし、玄関を施錠すればおさらばだ。

 回れ右をした。目の前に男が立っているのに気づき、思わず友兎は一歩後ずさった。

「頼みがある」

 陵司だった。コートを腕にかけ、汗で濡れた額に前髪が張りついていた。走るうちに息が苦しくなったのだろう、外したマスクを手にぶらさげている。息は荒く、肩を上下に揺らしている。よれよれの背広を着た中年男は疲れ切った表情をして、それでも瞳だけは力強く友兎をみつめている。

「もう一度、俺に悪夢をみせてくれ」

 深々と頭を下げて陵司はそう言った。

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